002話 絶望の下戸
ムザリクは街路の石畳に足を踏み出した。工房に戻ろうとするが、足取りは重い。初夏とはいえ、昼の光が強く、なるべく建物の影を歩く。
キィ――
突然、上空から甲高い声が聞こえた。
ムザリクが顔を上げると、隼が空を旋回しているのが見えた。悠々と旋回する隼の姿に、昨日の儀式を、――神竜の姿を思い出す。
「わたしは神竜と呼ばれしもの。お前は、選ばれた。」
低い声だった。しかし、脳に直接響くような重みを持っていた。
白いドラゴン――白銀の鱗に覆われ、恐竜のような身体、蝙蝠の翼を広げたその姿は、まさにドラゴンそのものだった。
翼を広げたその姿は大きく、鋭い瞳から目が離せなかった。息をするだけで周囲の空気が震えている。
ムザリクは、反射的に後ずさりしそうになるが、足は動かなかった。
「選ばれた……?」
ムザリクは目を見開いた。体は震え、鼓動は速まる。
「お前は前世、この世界とは異なる場所で生きていた。――思い出すがいい。」
神竜の言葉が、空間を震わせるように反響した。ムザリクは言葉に呼応するかのように、体中に鳥肌が立つのを感じた。
「違う世界で?俺が?」
そう言葉に出したと同時に、脳裏に鮮明な記憶が押し寄せた。
農村にある小さな蒸留所。林檎畑の近くに建つその場所で、俺は生まれた。もともと日本酒の蔵元だったが、祖父の代からウイスキー製造を始め、冬は日本酒、夏はウイスキーを造っていた。
幼いころから祖父に酒造りの知識を叩き込まれ、俺自身も必死に工程を覚えていった。
だが、二十歳になってはじめて酒宴の席で酒を飲んだとき、身体はそれを受け付けなかった。
俺は、改善する方法がないかを必死に調べたが、結局遺伝的な理由から困難だと判明した。
それでも、酒造りを諦めきれず、酒造りの過程を数値化し、経験に頼らない方法を試みた。だが、それが古参の酒職人の反発を招いた。
祖父や父がなんとか場を収めてくれたものの、その後の火事で蒸留所は消失。
立て直そう家族総出で奮闘したものの、日本酒ブームの低迷や社会情勢もあり、資金繰りのめどは立たなかった。
やがてその祖父も父も、心労により亡くなった。もともと俺に反発していた酒職人たちは次々と辞めていった。俺は酒蔵を伝手で譲り、蒸留所も倒産した。
その後、残された母との生活を立て直すため、都会に出た。
慣れない土地での生活と、未経験の営業。うまくいかない日々が続いた。
会社で開催される飲み会では、どこで漏れたのか酒造家の出身だと知られていた。
飲めない酒を無理やり飲まされ、救急車に運ばれたこともある。
その翌日からは腫物に触るように避けられ、同僚からの嘲笑や、飲みハラをした張本人から叱責される日々が続いた。
そんな日々を淡々と過ごしていたある日、母が亡くなった。
突然の死だった。
俺は、もう限界だった。
母の葬儀後、俺は、仕事を辞め、故郷へ向かった。
俺は蒸留所に向かった。駅から近くの村までタクシーでいき、そこから林檎畑をしばらく進む。林檎の木は白い花を一斉に咲かせていた。
蒸留所は焼け残ったままだった。
懐かしい――そう思った。
建物はなくとも、酵母の独特の香りはせずとも、やはりここが俺の故郷なのだと思った。
懐かしいと思いつつ歩いていると、靴先に何かがあたった。土に埋もれていたそれは、箱の上の部分のように見えた。俺はおもむろに掘り返すと、案の定中から箱が出てきた。
中に入っていたのはウイスキーの瓶だった。
それは、小学生のころに、はじめて祖父の手伝いをした際に、二十歳の時に一緒に飲もうと、祖父と一緒にこっそり隠していたことを思い出した。俺は結局祝いの酒もろくに飲めなかったので、祖父は言い出せなかったのだろう。
俺は、形見のウイスキーを持ち、ある場所へ向かった。
蒸留所の先の山道をしばらく歩き、たどり着いた場所――そこは神社だった。
その神社は、代々俺の家が管理しており、酒が出来上がると酒の奉納をしていた。今ではすっかり寂れてしまっているが、昔は大きな村の祭祀もここで行われていたという。
俺は、鳥居の前で一礼し、中に入る。俺は、川の水をそのまま引いたような手水舎で清め、ご神殿に向かって参拝した。それからしばらく、近くの石に座った。
神社の中は静かだった。人はいなかったこともあるが、木々の擦れた音や鳥の声一つしなかった。
俺はおもむろに形見のウイスキーを一気に煽った。甘さと苦さがまじるその液体に吐き気をこらえ、無理やり押し流した。はじめは喉への違和感としびれる感覚だけだったが、だんだん全身を焼くような苦痛に変わった。目からは涙が出ていた。それでも流し続けた。
瓶の底が見え、業火で焼かれるような痛みが頂点となったとき、俺の意識が途絶えた。
「全部、俺が酒を飲めなかったせいだ。」
言葉になったのは、それだけだった。
神竜は答えず、静かにムザリクを見た。
「だが、お前はもう死んだのだ。新たな体で、この世界に生まれ変わった。
お前は、勇者のパーティに属するドワーフの親友として、数々の冒険を支える者。
そのための力をそなたに授けた。」
「授けた?どういう意味だ?」
「お前には、伝説となる未来が待っている。」
神竜はムザリクのその問いには答えず、翼を広げる仕草をした。そして、神竜が勢いよく翼を動かすと同時にムザリクの意識は暗転した。
ムザリクは、思わず足元の石畳を蹴った。
ドワーフらしい強靭な肉体。前世で得た酒の知識と今世で会得した鍛冶の技術。それだけでも生きていくには十分な力がある。そして、転生特典なのか、何かしらの力を与えられたと告げられた。だが――
「結局俺は酒は飲めねぇのかよ!」
儀式でのあの体たらくを思い出すと、酒を受け付けないままの現状が現実として突きつけられる。つまり、勇者パーティの助っ人として、世界の調整に選ばれたが、酒を飲める体は与えられなかった――そう言われたも同然だった。
ムザリクは、怒りと羞恥で身体が震えるのを感じながら、再び歩きだす。街路を進むごとに、石畳の凹凸、足音、遠くで響く鍛冶の音、軋む木の扉の音、かすかな人々の笑い声――すべてが自分の心を刺激する。
ドワーフの文化の常識では、酒が飲めない者は一人前と認められない。
「なぜ……俺だけが……」
ムザリクは拳を握りしめ、胸の内で葛藤する。力を与えられたはずなのに、肝心の酒は飲めない。前世と同じ屈辱が、体に残る痛みのように染みつく。笑われ、見下され、孤立した日々。
視界に入る街角の噴水を見つめ、ムザリクは一瞬立ち止まる。水面に映る自分の顔。見慣れた顔と、前世の記憶を抱えた瞳が重なり、違和感に胸がざわつく。
――俺は、生まれ変わっても、また酒を飲めないのか。
ぎゅるるるる――
すると、急に腹の虫が鳴り出した。
「ははは……」
ムザリクは思わず乾いた笑いが漏れた。どんなに苦しくとも、腹は減る。
もう昼すぎだ。いったん忘れよう。
ムザリクは、工房に戻る前に近くの食堂に立ち寄ることに決めた。石畳を蹴る足取りはまだ重いが、食堂へと歩みを進める。
昼の街路を抜け、石造りのアーチをくぐると、店の入り口からは笑い声と鉄鍋の香りが漏れてくる。
店の前で、ムザリクは深呼吸をした。食欲をそそる香りが鼻腔いっぱいに広がった。
ムザリクは静かに扉を押し開けた。
重いパートだったため、少し長くなってしまいました。
次回より、もう少し短くなるかもしれません。
適正な文字数ってどのくらいなのでしょうか。




