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老執事の怪


 春のそよ風が窓から流れ込んでくる。

 外は気持ちの良いほどの快晴ではあるが、この主従にはゆっくり外に出る暇はなかった。


 現在、シェーラとリカームは月末の決算に追われているのだ。


「リカーム、後でこの報告書をダラオスのところまで持って行って。ついでに以前頼んであった先月の投資先リストと決算書をもら貰ってきて」


「はい」


 少女はてきぱきと指示して目の前の書類を片付けていく。報告書にさっと目を通すとすぐに答えを出してペンを取っている。その後ろでは老執事が必要な書類の仕訳で歩き回っていた。会話している余裕などない。


 一通り仕訳が終わったところでリカームが主に声をかける。


「御嬢様、私は執事長のもとに行って参ります」

「お願いします」


 ペンを走らせながら答えるシェーラ。

 頷いた執事は片手に封筒を持って部屋を出て行った。


 リカームは、二階にある執事長の部屋へと階段を降りていく。


「ふう~、さすがにこの時期は忙しいですね。それにしても、毎度のことながら御嬢様には感心させられます」


 リカームがこの屋敷に来たのは一年近く前だったが、その時からシェーラは父の片腕として事業の補佐をしていた。

 話によると十四の頃、自分で父に願い出たという。その時は不況の影響で事業経営が苦しくなっており、父アルカイドは資金集めに奔走していた。猫の手も借りたい心境で承諾したのだろうが、シェーラの能力は父の想像以上だった。


 各会社の役員達も初めは馬鹿にしていたそうだ。しかし、シェーラの実務能力を知り、時には手痛いしっぺ返しを受ける内に、とうとう尻尾を丸めてしまったのだ。

 今では父よりも、シェーラの言うことを聞く役員の方が多いという。現在は経営も安定し、父は新しい事業のため娘に全てを任せて出張しているというわけなのである。


コンコン…


「リカームです。月末の報告書をお持ちしました」


「入りなさい」


 中からしゃがれた老人の声が帰ってきた。

 ドアを開けて中に入ると、目の前の大きな机の向こう側に小柄な老人が腰掛けていた。


 銀髪にも見える程光沢のある白い髪に、目元が隠れてしまいそうなほど長く厚い眉毛。年はもう七十近くになるだろうに、背筋はピンと伸びている。

 マイエル家の古株にして生き字引、執事長ダラオスだった。


「これが報告書です。あと、先月の投資先リストと決算書を頂いてくるように言遣っています」


 ツカツカと進み出たリカームは、持ってきた封筒を手渡した。


「うむ、ごくろう。ではこれを持って行ってくれ」


「はい」


 リカームは目の前の老人を憧れの目で見ながら封筒を受け取った。

 やはり執事長。やることにそつがなく…渋い。


(こういう年の取り方をしたいものです)


 このリカームという老執事…実は彼の年齢はまだ二十三歳である。若僧である。年齢詐称の謎紳士なのである。

 髪を白く染め上げ、頬に人口皮膚を張り、口髭をつけたその変装は完璧だった。このことはまだ誰にも知られていない、と本人は思っている。

 この間メイドの少女にバレたのも知らずに。


 そもそも何故こんな手の込んだ変装をしているかと聞かれれば、こう答えるしかない。

―――――――趣味だから、と。

 世に存在する素敵な老紳士が彼の見本であり、憧れだった。


 歳月やら経歴やら色々すっ飛ばし、念願叶えて老執事になった彼は、以後数十年という歳月をこの姿で過ごすことに何の不都合も感じていない。

 要するに筋金入りの変人なのだ。


 そんな彼が名残惜しさを振り払って、その場を立ち去ろうとした時だった。


「リカーム」

「はい?」


 後ろから声をかけられ、リカームは執事長へと向き直った。


「最近、シェーラ御嬢様の様子はどうかね?」


 眉毛の先をしごきながらダラオスが尋ねてくる。

 その渋い動作に感心しつつ、


「はい…少々お疲れ気味に見受けられます」


「ふむ、御嬢様は何かと無理をなさるからな。……どうだ、気晴らしに外へ誘って差し上げてはくれんか?」


「おお…承知しました。私も御嬢様には息抜きが必要と感じていたところです」


 思わずほころびそうになる顔を引き締めるのが大変だった。こういうさりげない気遣いこそ彼の目標でもあるのだ。


 先代の頃からこの屋敷に仕えている彼にとって、シェーラやメリーナは自分の孫のようなものなのだろう。

 この老紳士が時折見せる重みある笑顔に、人生の奥深さを感じてやまないリカームだった。



          *



コンコン…


「リカームただいま戻りました」

「どうぞ」


 その声を聞いてからドアに手をかける。

 中に入るとシェーラはリカームが出て行った時と同じ姿勢で、ペンを走らせていた。


(う~む、ダラオスさんの言う通りですな。いくら忙しいとはいえ御自分の御身体にも気遣って頂きたいものです)


 胸中で溜息をついたリカームは、紙封筒をテーブルに置くと、


「御嬢様、お茶の時間です。少しお休みになって下さい」


 やや語尾を強くして言う。

 少し強引なくらいでないと、なかなか仕事を切り上げてはくれないのだ。


「えっ、もうそんな時間なの?そうねえ…わかったわ、お茶にしましょう。メリーナはいるかしら?」

「はい」


 思い切り伸びをして立ち上がった少女は、執務室を出ると嬉しそうに妹の部屋へと歩いて行った。




 リカームがメリーナの部屋に入った時、二人の姉妹は楽しい会話を始めていた。

「……でね、レシーヌちゃんたら塀を乗り越えて行っちゃったのよ」

「ふふ、おてんば転婆さんね」


 メリーナの話にシェーラの顔もほころぶ。

 可愛い妹との会話は姉にとってもよい清涼剤である。


 ちなみにレシーヌとはメリーナの仲好しの女の子だ。学校だけでなく、良いこと悪いことをするにもいつも一緒らしい。ティーカップにお茶を注ぐリカームの口元も心なしか緩んでいる。


 お茶を注ぎ終わったリカームが気を利かせて部屋を出て行こうとした時、メリーナに大きな声で呼び止められた。


「あっ、リカームっ!お姉さまにあれ話しといてくれた?」

「あれと申されますと?」

「え~っ、忘れちゃったのお?!は・く・ぶ・つ・か・ん・のことよ!」


 メリーナがませた口調で言った。


「ああ、忘れてなどございませんとも。まだ話してはおりませんが…」


「何のことなの?」


「はい、近いうちにメリーナ御嬢様を魔物博物館に御連れする約束を致しましたので、シェーラ御嬢様にお許しを戴こうかと」


 ぴしっと主に向き直り、落ち着いた物腰で説明する老執事。


「そうねえ…今の仕事が片付いたら時間が出来るから、その時リカームを貸してあげるね」


「わあっ、ありがとうお姉さま!」


 メリーナが喜びを体で現すようにシェーラに飛びつく。

 そんな二人を見て、リカームは今がチャンスだと判断した。


「あの…もしよろしければシェーラ御嬢様も一緒にいかがですか?御嬢様もたまには外で羽を伸ばすことが必要です」


 メリーナが顔を輝かせる。


「ほんとっ!?うん、絶対いい!行こう、お姉さまぁ」


「でも…私、仕事があるし…」


 幼い妹の瞳がうるうると潤んでくる。

 しばらくして…大きな溜息をついたシェーラは、観念して妹に微笑みかけた。


「分かったわ。一緒に行きましょ」


「やったあ。お姉さま、大好き!」


 再度、姉の胸に飛び込む妹。

 そんな姉妹を見やりつつ、ほっと安堵の息をつくリカームだった。



*         *



 空は快晴雲一つなく絶好の外出日和だった。


 二頭立ての馬車に揺られ、リカームは最年少の執事アクラとともに御者席に座っている。手綱を握る金髪の青年は、今年二十歳になったばかりだ。普段は御者や屋敷の警備を担当してもらっている。


 馬車の中には主であるシェーラとメリーナが乗っていた。

 メリーナとかねてから約束していた、魔物博物館を見学に行くのだ。今日はシェーラも一緒に行ってくれるので、メリーナもいつにも増してはしゃいでいた。


 この姉妹は実に仲が良く、三年前に母親を亡くして以来、シェーラやメイド長のミアラが母親代わりとしてメリーナの面倒をみてきた。父親は仕事で留守の時が多く、シェーラが実質的な屋敷の主となっている。そのためか、仕事以外はあまり外出しない主を心配していたリカームだが、今日の彼女の外出は彼にとっても喜ばしいものだった。


 やがて、馬車は博物館の前で止まった。

 御者席を降りた二人の執事は扉の横に並び、リカームが扉を開いた。


 真っ先に飛び出したのは黄色のワンピースを着たメリーナだ。可愛らしい姿で博物館を見回している。

次に出て来たシェーラは白を基調としたワンピースで、良家の者だと鼻にかけない彼女らしい格好だ。しかし、持ち前の美しさや気品などは隠せるものではないらしく、道行く男達の視線がすぐに集中するのがわかった。

 アクラはリカームと一緒に軽く頭を下げていたが、視線を合わせる事が出来ないのか下を見たままだ。


「それじゃあ、アクラ。悪いけどここで待ってて下さいね」


 若い執事は顔を真っ赤にして、


「は、はい。ゆっくり遊んで来て下さい!」


 思いっ切り緊張して応えた。

 これがこの令嬢に対する普通の青年の反応である。


 軽く頷いたシェーラは、今にも駆け出しそうな妹と手を繋いで歩いて行く。その後ろにはピンと背筋を伸ばした老執事が続いていた。

 アクラは老執事を羨ましく思いながら三人を見送るのだった。


          *


「うわーっ、怖いなあ。ねーっお姉さま見て見て、この黒風狼(ナイトウインド)なんて凄い牙よ!」


 そう言うメリーナは姉の方を見向きもしないで、黒い魔狼の剥製に魅入っている。

 だが、その姉というと…老執事の腕にしがみついて震えていた。


 最初、リカームは彼女達の数歩後ろを歩いていたのだが、さほど行かぬうちに悲鳴をあげて走ってきたシェーラに捕まってしまったのだ。

 普段しっかりし過ぎているくらいの才媛だが、やはり女の子なのだと少しほっとするリカームである。


「あーっ、お姉さまだけリカームと手を組んでズルイ!あたしも、あたしも」


 メリーナにせがまれて、老紳士は嘆息しつつ空いている右手を差し出した。

 右手は可愛らしい幼女と手を繋ぎ、左手は麗しい美少女と腕を組んでいるという両手に花状態だが、当のリカームにとっては大変不本意な状況だ。

 執事たる者が主と並んで歩くなど、彼の美学に反する行いである。


 しかし、そんな心境は決して顔に現さず、リカームは渋味の利いた明るい声で魔物の説明を始めた。その説明は分かりやすく、興味を惹かれるような話も折り混ぜ、シェーラの恐怖心さえも溶かしていった。

 最後の方になるとシェーラは自分で魔物を指差して説明を聞きたがるようになっていた。


「今から約三百年前、妖魔に率いられ、突然この世界に現われた魔物達。

 昔はこの世界の獣と同じ姿をしていたと推測されていますが、何故か異様なまでに変貌して、中には魔術を使うものまでいます。一体どんな環境で、どれほどの過酷な生存競争をしてきたのか想像もつきません」


 両手の塞がった老執事は、魔物の剥製を顎で差して続ける。

 その魔物は牙や爪の生えた鹿のような形をしていた。


「この魔物も凶暴ではありますが、食べること以外はむやみに襲いかかることはありません。人は魔物だと言って彼らを恐れますが、こちらが敵意を出さなければ戦わなくても済むことがどれだけ多いことか…」


 この時のリカームの口調はどこか寂しさを感じさせた。

 二人の姉妹はそんな執事の意外な一面を見て、まだ自分達の知らないリカームがいたことを初めて知った。


 やがて、最後の説明も終わり、リカーム達は帰りの通路へと入った。


「お姉さま、リカームの説明すっごく面白かったね!」


「ほんと、初めて聞くようなことばかりなんですもの。リカームって、もしかしたら魔物フリーク?」


 シェーラの質問に老紳士は少し困ったような顔をして、


「そういうわけではありませんが、年を取るといろいろと覚えるものです。たいしたことではありません。それよりも…私はこの状況を何とかしたいのですが…」


 実年齢二十三歳の老紳士はやや言い難そうに左腕を見た。


「えっ…あっ!ご、ごめんなさい。私ったら…」


 シェーラは顔を紅く染めて手を離した。

 リカームの右手はメリーナと繋いだままだが、こちらの方は問題ないだろう。


 手を離したシェーラは紅い顔をしながら、今まで捕まっていた腕の感触に首を傾げていた。



          *



「あ…御嬢様のお帰りだ」


 アクラは撫でていたアレキサンダーから離れると、扉を開けて姿勢を正した。


「お帰りなさいませ。御嬢様」


「遅くなりました。またお願いね」


「アクラ。面白かったよ」


 シェーラにハイ!と返事を返し、メリーナに微笑みを返す若い執事にリカームはうんうんと頷いた。

 後、十年もすれば旦那様の執事も夢ではないな、と思いながら…。

 だが、そんなリカームのほのぼのとした気分を台無しにするような事が起きようとは…。



 メリーナが馬車に乗り、シェーラが馬車に乗り込もうとした時、通行人の一人が突然走り込んで彼女を突き飛ばしたのだ。


「きゃあっ!」


「御嬢様!」


 男はシェーラのバックを引っ手繰ると元来た道を逆走し…かけたが、無意識に出されたリカームの足に引っ掛かり盛大に地面とキスしていた。


 一方リカームと言えば、自分が足を掛けた事にも気付かず、シェーラのもとへと駆け寄っていた。幸いアクラがシェーラを受け止めていたので、怪我はどこにもないらしい。


 ほっと安堵の息を吐く老執事。

 しかし、シェーラとアクラの驚愕の表情を見て異変に気付いた。


 ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには鼻から血を流し、怒りの形相でナイフを構えている男がいた。服装は明らかに冒険者くずれと分かるようなみすぼらしい皮鎧。

 その眼は殺気に満ちていた。


「おとなしく盗まれとけば死なずに済んだのにな!」


 眼の血走った男が吐き出すように喚いた。


「リカーム逃げてえええ!!」

「リカームさん逃げて下さいっ!!」

「リカームーっ!!」


 三人が悲鳴のような声で叫ぶ。

 男の持つナイフは凶悪なまでの光沢を放っていた。


 老執事は背筋を伸ばした姿勢で男を睨んだままだ。


「死ねえええ!」


 男がリカームの心臓めがけナイフを突き込んだ。


「いやあああああ!」


 シェーラの悲鳴が人通りのまばらな通りに響いた。


バシッ!


 リカームの手が内から外へと何かをはたいた。


カラカラアアン!


 暴漢は呆然と己の手を見ていた。

 さっきまであったナイフが手から消えて、石を敷き詰めた歩道の上でくるくると回っている。見ていたシェーラ達でさえすぐには理解できなかった。


 リカームは暴漢へと歩を進めながら、何かを呟いていた。


「……様に……御嬢様に……」


 老執事は左手で男の衿をむんずと掴むと、ぐい!と引き寄せた。


 呆気に取られていた男の頬にパン!とビンタが叩き込まれた。

 返す手の甲でもう一発、今度はまた手の平で……往復びんたのスピードは、打つ度ごとにどんどん速くなっていく。


「御嬢様に何てことをするんですかああああああ!」


バシバシバシバシバシバシバシィッ!

「びゃぶぶぶぶぶぶぶ!」


 張っている右手が見えなくなった。


「御嬢様に…」


 両手で衿を持って、暴漢を頭上まで吊上げる老執事。

 目を見開く三人。


「謝りなさあああああいい!」


 そのまま5メートルほど先の地面に投げ飛ばす。


グシャッ!

 生ゴミのような音がした。


 一部始終を見ていたシェーラ達の目は点になっていた。


「私…目がおかしくなったみたい……今、リカームが凄く軽々と男の人を持ち上げていたような…」


「偶然ですね…僕もです……ついでに言うとゴミでも投げるみたいにポーンと…」


「リカームって…ナニ?」


 三人はただ呆然と老執事の背中を見ることしか出来ない。

 三人の視線に気付いたのか、すぐに正気を取り戻したリカームがシェーラのもとへと走り込んで来る。


「御嬢様~っ!御無事ですか?」


 涙を浮かべた老執事がシェーラの手を握る。

 シェーラはやってきた執事の優しげな顔を見た途端、急にこみあげてきた嗚咽を止めることが出来なかった。


「……えっ…うっ、うああああん……バカバカ!本当にリカームが死んじゃうと思ったんだからあああ!」


「……えっ…えっ……わあああああん…ああああああん!」


 つられてメリーナまで泣いてすがりつく。


 二人に泣きつかれて、リカームはただただ狼狽するしかなかった。



          *



ガタッゴトガタゴト…


 石を敷き詰めた舗道は音も揺れもあまり大きくない。御者席のアクラは甲高い蹄の音だけをうるさく思いながら、馬車の中へと耳を澄ます。

 中からリカームの申し訳なさそうな声が聞こえた。


「申し訳ありません。御嬢様方にはとんでもない心配をおかけしてしまって」


「もういいわ。リカームにも怪我はなかったし、暴漢を捕まえたんだもの。けど、もう絶対こんな危険な真似はしないでね。私達にはリカームの無事が一番なんだから」


 シェーラが念を押す。

 老執事は新たな感動に泣きそうになった。


「でも、リカームってすっごく強いんだね。あたし、びっくりしちゃった」


「そうね。私もまだ信じられないわ。リカームって力持ちなのね」


「あ、あれは……火事場の馬鹿力というものです。この年であんな力は普通出せませんから…」


 冷や汗垂らして弁解する執事を冷ややかな目で見つめる主だった。

 博物館での腕の感触は男らしい太い腕だった。


(……まあ、いいわ。リカームにどんな過去があろうと、私の大好きなリカームには変わりないもんね)


 自分にはそれだけで十分なのだ。


 まさか、年齢詐称までは、夢にも思いつかないシェーラであった。



          ****************



 気が付けば、彼女は暗闇の中にいた。

 どこかの屋敷の地下らしいが、かなり気味の悪い所だった。


 何故、こんなところにいるのだろう?

 確か、パーティーに出席して素敵な殿方と外に出たところまでは覚えている。だが、その後がどうしても思い出せない。意識が少しぼやけているようだ。


 それにしても、何で自分は暗闇の中を進んでいるのだろうか?

 止まろうと思うのだが、身体がいうことを聞いてくれない。しかし、あまり怖いという感情はなかった。まるで意識と一緒に恐怖心さえ希薄になっているようだ。


 彼女は大きな扉の前へと来ていた。

 彼女が扉の前に立った途端、重そうな扉がゆっくり独りでに開いていく。


 最初に見えたのは、青白い炎だった。正面の祭壇らしきものの中央で、煌々と燃えている。炎に照らされた室内は石積みの壁面が並ぶばかりでなんの調卓も施されていない。


カタ!


 正面から物音がした。そちらへ意識を向けてみる。

 今まで何故気が付かなかったのか、炎の下、祭壇の真正面に、豪奢な椅子に座った青年が肘をついてこちらを見つめていた。

 金髪の端整な顔立ちと、身につけた立派な正装は貴族の証だった。まだ、二十歳くらいに見えるのに、なんともいえない風格のようなものを持つ人物だった。


「今度は期待に沿うのであろうな」


 誰に向かってか、青年は威厳のある口調で声を発した。


 期待とは一体?

 彼女は何故か声を出すことすら出来ない。


「はっ…今までの者よりは」


 突然の声に、彼女は心臓が止まる程驚いた。

 初めて聞く程不気味な声が、すぐ後ろから聞こえて来たのだ。もしかして、ずっと後ろにいたというのだろうか?

 徐々にではあるが、焦りや恐怖が意識を覚ましつつあった。


 青年貴族が立ち上がった。こちらへ近づいて来る。

 青年は目の前まで来ると彼女の髪の毛の一本をつまんで、引き抜いた。

 痛みは感じなかった。


 青年はそのまま祭壇へと戻り、炎へと手を翳す。手には今引き抜いたばかりの髪の毛。 

 そして、指を離し、髪の毛は炎の中へ。


ボウウッ!


 髪がくべられた途端、青白い炎は倍くらいにまで燃え上がった。


「おおっ!!」


 後ろで歓喜の声が二つあがった。驚いたことに、二人後ろにいたことになる。


「……駄目だな」


 青年がくだらないことをしたとでもいうように呟く。


「これでは王はおろか下等妖魔さえ無理だろう。やはり貴様らの見立てはあてにならんな」


「…申し訳ございません」


「それではせめてもの口汚しに」


 後ろからの声に、青年貴族はあからさまに眉をしかめた。


「私は自分の目に適った獲物しか食さぬ。貴様等にくれてやるわ!」


「「はっ、ありがたき幸せ」」


 二つの不気味な声が重なった。


 その瞬間、彼女の呪縛が解けた。……いや、解かれたと言った方がよいか。


 意識が完全に戻ったと同時に恐怖が全身を襲う。体が震え、歯が音を鳴らす。汗とそれ以外のものも大量に流れていた。

 彼女は気付いたのだ。自分が何者に拉致されたのか。そして自分の運命に…。


 彼女の細い肩に何者かの手がかかった。

ウエストさえ一握り出来る程の巨大な手。それが、強引に彼女を振り向かせた。


 後ろにいた者は自分の予想した通りの怪物だった。


「きゃあああああああああっ!!」


どがっ……べきぼぐきしゃ…………ぐちゃっ、びちびちぃっ、ぐちゅ、くちゃ……


 悲鳴、打撃音、そして……咀嚼音が狭い室内にいつまでも響いていた。


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