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執事たるもの


 春の庭園は咲き始めの花がちらほらと見え、新緑から花の季節へと移行しつつあった。

 特に、開きかけた花の色彩は鮮やかな輝きを伴うものだ。見応えという意味ではまだ早いかもしれないが、個々の彩りを楽しむのなら、今が最も適しているのだ。


 そんな美しい庭園を、メイドの娘達がアクラやダイモを引っ張り回して庭園観賞なんかしている。


 ある花の前では、アクラがダイモに花の植え方や株の殖やし方を聞いている。なんでも、リカームの影響らしい。どうやら憧れの人物が若かったと知って、より具体的な目標になってしまったようだ。ダイモが少しうんざりしたような顔をしている。


 そんなダイモを見兼ねてか、先行していたメイド達がたたたっ!と戻って来た。先頭のレーラがアクラの右手をがっしと抱え込む。


「ほら、アクラさん。勉強もいいけど、綺麗な花をゆっくり観賞することも大切よ。ミイナはそっち持って」

「あ、はい…」

「そうそう、リカームさんのようになりたかったら、知識じゃなく感性を磨かなくっちゃ」


 背中を押しながらジル。


「うっ、言われてみれば…あっ、ダイモさ~ん、花の名前くらいは教えて下さいよ~!」

「…分かっただ」


 やれやれとでも言いたげに、連れ去られた青年を追って行く。


 忙しい日常の中の一時。自分の手懸けた庭園で楽しんでいる若者達を、眩しそうに眺めるダイモだった。





「ねえ、リカーム。あの年頃の女の子ってどう思う?」


 自室の窓から下を眺めていたシェーラが、上目遣いに隣で立っている老執事に声をかけた。

 ちなみに、メイド達の歳はシェーラとほとんど変わりがない。


 突然の質問にやや面食らった顔をしたリカームは、真意も分からないまま正直に答える。


「そうですねえ…しいて言えば…」

「しいて言えば…」


 ぐぐっと身を乗り出す。

 老執事はいたって真面目な顔で、


「可愛い孫娘のようなものですかな」


 がくりと肩を落すシェーラ。その肩が…小刻みに震えてくる。


「……ちょっと…散歩してきます。付いて来ないでね」


 それだけを言い残し、足早にドアと歩いてゆく。


「えっ…御嬢様お一人で?いや…その…シェ、シェーラ御嬢様ぁ…」


 老執事の情けない声が聞こえてきたが、無視して進む。

 自分のむくれた顔など、リカームに見せるわけにはいかなかった。






「もう~、リカームったら完全に老人になりきってるんだから。なんとかシオン様になってくれないかしら…」


 嫌がらせにリカームをまいてきたシェーラは、自分の部屋へと戻って来ていた。


 机に頬杖ついて考える。

 自分の仄かな想いを悟られないという意味では、今のリカームの方が好都合ではある。大好きな老執事に変わりないし。

 だがしか~し、乙女の気持ちとしてはシオン様に会いたい…なのである。それにこのままでは、リカームの老人化が本物になってしまいそうで不安だった。本人もこちらが本当の自分だと言っているくらいだから。


「はぁ~…」


 シェーラが大きな溜息を一つついた時、バタンッ!とドアが勢いよく開いた。


「御嬢様ぁ!」

「どうしたの?リカーム」

「どうしたの、じゃありません!私がちょっと目を離した隙にいなくなってしまわれて…御嬢様にもしものことがあったらと心配で心配で…ううう~」


 ハンカチを目にあててむせび泣く老執事。


「えっ?……泣かないでリカーム。私が悪かったから」


 少し罪悪感を感じたシェーラは、老執事の手をとって素直に謝った。


「分かってくれましたか、ありがとうございます!」


 打って変わって、顔一杯に喜びの表情を浮かべる老執事。

 さっきまで泣いていたはずなのに切り替わりが早過ぎる。世のベテラン執事の必殺技…泣き落としだった。


(う…とうとう泣き落としまで。心配してくれるのは嬉しいんだけど…)


 ますます老人化の進むリカームに、より一層の不安を覚えるシェーラだった。


 そんなある日。


コンコン…

「御父様、シェーラです」

「入りなさい」


 部屋の中から父アルカイドの声が返ってくる。

 ドアを開け、シェーラを見送ろうとしたリカームにも声がかかる。


「リカームにも話があるのだ。入ってくれ」

「はい」


 一礼して中に入り自然な動きでドアを閉める執事。動作に一片の無駄もない。このなにげない動作も、繰り返し練習を積み重ねた賜物であることは誰も知らない。


 アルカイドは椅子に深く腰掛け、机に肘をついて気難しい顔をしている。

 机の上に並んだ書類のためか、これから話すことについてか。


 机の前まで来たシェーラは緊張した面持ちで尋ねた。


「御父様、御用とはなんでしょうか?」

「うむ。シェーラよ、お前…剣は握ったことあるな」

「はい、学校で少々…けど、それが何か?」

「私はここ数日、いろいろなコネを使って腕の立つ戦士や冒険者を探してきた。しかし、どいつもこいつも妖魔と聞いた途端、怖じ気づきおった。やはり、リカームほどの使い手はなかなかいないようだ。……そこでだシェーラ。お前、リカームに剣を手ほどきしてもらえ」

「ええっ!?」


 アルカイドの突飛な発言に、シェーラとリカームの素っ頓狂な声が重なった。


「だ、旦那様!御嬢様にそのようなことさせるわけにはまいりません。御嬢様は私とカノンが命に代えてもお守りします!」

「私は構いませんけど…何故?」


 シェーラが真意をはかりかねるという顔をする。自分が今さら剣を覚えたところで大して力にならないのだ。

 アルカイドはにやっと笑みを浮かべて言った。


「妖魔は花嫁となるお前には危害を加えないはずだ。ならば、さらわれる時に心臓を一突きするチャンスがあるかもしれんではないか。さらわれるのを待つだけのお姫様など物語の中だけでたくさんだろう?」

「そ、それはごもっともですが…」


 リカームが口ごもる。

 正当な言い分ではあるが、自ら危険を増やす行為でもある。やはり納得出来ないという複雑な顔をしていた。


「……事業の方はよろしいのですか?」

「ああ、お前の御蔭で大分安定したからな。もう大丈夫だ。それに可愛い娘の危機に事業だのなんだのと言ってられないさ」

「……分かりました。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」


 シェーラは柔らかに微笑んで承諾した。少し嬉しそうに。


 リカームはまだ渋い顔をしていたが、シェーラが納得したので何も言えなくなってしまった。


「うむ」


 部屋を出て行く娘と執事を、茶目っ気たっぷりな目で見送るアルカイドだった。

 



「それじゃあ、リカーム。剣の指導よろしくお願いしますね」


 先を歩きながら、物静かに語りかけるシェーラ。


「は…はあ」

「でね、リカーム。一つお願いがあるんだけど…いいかな?」


 くるっと振り返ったシェーラは、先程とは打って変わって子供のような表情でリカームの顔を覗き込んだ。

 やはり姉妹だ。お願いの仕方がメリーナにそっくりである。

 リカームは新しい発見に内心驚いていたが、顔には出さずいつもの落ち着き払った返事をした。


「なんなりと」


 シェーラはこの言葉を待ってましたとばかりに、ニマッと笑みを浮かべた。


「指導の時はシオン様になってね!」

「な!ななななな?!」


 拒否したいのだが、性格上前言を撤回出来ないリカーム。

 シェーラは吹き出しそうになるのを堪えながら、


「あら、だって老人相手に本気で打ちかかるわけにはいかないでしょ?いつものリカームだと甘えが出てしまうし」


 さも当たり前のように微笑みかける。老紳士の呻き声が聞こえたような気がした。

 リカームはこの鉄壁の理論に対する言い逃れを必死に考えた。しかし、


「み、見事な…敬老精神…です」


 声を絞り出すようにして敗北を認めた。

 老紳士として扱ってほしいと言ってあるだけに、嫌々ながらも納得するしかなかったのだ。力なく佇む今の老紳士にいつもの若々しさは感じられない。

 シェーラは跳び上がりたくなる衝動を抑えて、すました顔で言った。


「それじゃ、すぐに着替えて来るからリカームもお願いね」


 よっぽど待ち遠しいのか、うなだれるリカームをおいて廊下をぱたぱたと駆けて行くシェーラだった。





「なんで私がこんな格好…」


 素顔に戻ったリカームはぶつぶつと愚痴を零しながら屋敷を出た。


 燕尾服(タキシード)はいつもの通りだが、この暖かい季節に黒のマントはやや暑苦しいかもしれない。シェーラがどうしても、と言うので仕方がなくである。


 左に曲がり屋敷沿いに歩いて行くと、芝生の生えた庭に出る。


 そこには既にシェーラが来て準備運動を始めていた。上は動きやすそうな白いブラウス、下は茶色のラフなスラックスを掃いている。普段ワンピースかスカート、またはドレス姿のシェーラしか見たことがなかったリカームにはなかなか新鮮な光景だった。


 しかし、そんなことはおくびにも出さず、あくまで無表情で会釈する若者リカーム。


「御嬢様、リカームただいま参りました」

「もう~、シオン様になってって言ったでしょ?稽古の間は先生と生徒なんですから、執事であることは忘れて厳しくやって下さい」


 近寄ってきたシェーラが下から見上げてくる。


「………シオン参上!私の指導は厳しいぞ。それでもついて来れるかな?」

「はい、先生!」


 嬉しそうに、元気一杯の声で答えるシェーラ。少し頬が熱を帯びたが、筋金入りの朴念仁であるリカームが気付くはずはなかった。


「さて、まず初めにやってもらうことだが、基礎体力をつけるために屋敷の周りのランニングをしてもらおう。伴走にはカノンをつける」

「げっ!何で俺が?」


 芝生の上で日向ぼっこしていたカノンが、苦み切った口調で首を上げた。

 友の非難の声を聞いたリカームが、つかつかと歩み寄り息がかかるほど顔を近づける。


「毎日毎日、ふかふかの絨毯の上で寝転がっていい御身分ですねえ。絨毯についた誰かさんの毛を取るのに、私がどんなに苦労してるのか知ってます?」


 このカノンにはシェーラの護衛をしてもらっている。いかにリカームとて、年頃の娘のそばに始終いるわけにはいかないからだ。

 カノンの方も毎日暖かな部屋とふかふかな絨毯を満喫出来るのだ、悪い気はしない。ここ数日はシェーラの傍らで寝返りを打っているか、遊びに来たメリーナの相手をしているかのどちらかだった。


「あなたもたまには運動しないと、いざというとき妖魔にこてんぱんにされてしまいますよ」

「ぐ…」


 反論出来ないカノン。確かにこの頃、ぼーっとしすぎていた気もする。


「それじゃカノン、一緒に走りましょ。私もあなたと一緒なら心強いわ」

「…ちっ、仕方ねえな」


 煽てられて満更でもないのか、カノンは照れ臭そうに了承した。


「それではシェーラよ。始めてくれたまえ」


 びしっ!と西を指差したシオンは、マントを靡かせてポーズを取る。


「はい!」


 シェーラは指差す先へと駆けて行った。続いてカノンも飛び出して行く。

 一人と一匹を見送った若者は、彼らが屋敷の角に姿を消した途端、


「あ~、恥ずかしい…」


 地に戻った。やはりあの口調はやってられない。

 リカームはばさっとマントを翻すと、庭園の手入れをしているダイモの方へと歩いて行った。






 気持ちの良い天気に庭いじりは楽しいものだ。

 それが趣味ならなおさらであり、そしてそれを趣味としている人物がここにいる。ただ、庭いじりにはあまり適した格好とはいえない。燕尾服(タキシード)に黒マント、首もとの蝶ネクタイが泣いているように見えた。


「……なあ、リカームさん。御嬢様の練習に付き合わなくていいだか?」

「いいんですよ。御嬢様にはカノンが付いています。私はやることがないのですから、植木の刈り込みをやらせていただいているのですよ」

「でも、剣の稽古をするはずじゃあなかっただか?」

「物事には順序というものがありまして、御嬢様には逃げ足……げふん、こほん!え~っと…基礎体力をつけてもらわねばなりません。私も辛いのですよ」


 ダイモにジト目で見られ、リカームは三回ほど咳払いをしてから、また植木の刈り込みを再開した。


(やっぱり、若くなってもリカームさんは全然変わらないだな)


 嬉しいけど、やっぱり呆れてしまうダイモだった。



           *



 幾日かの日々が流れた。

 使用人達はいつもと同じ自分の仕事に追われ、屋敷の主達もそれぞれの用事で忙しい現在。


 最も頑張っている主をよそに、リカームは今日もまた植木の刈り込みに熱中していた。

 また、というと本人は否定するかもしれない。なんでも、今日は新しい試みに挑戦しているとかで、いままで以上に熱心に植木を睨んでいる。


 そして、主のシェーラというと、相変わらず走っていた。あれから二週間、メニューにダッシュが加わったくらいでやはり走ってばかりだったのだ。


 屋敷の周りを走り始めて既に十周目に入ろうかという時、視界に入った黒マントを見てシェーラは脚を止めた。

 一緒に走っていたカノンは、もう芝生に寝転がっている。


「はあ、はあ、はあ…」


 生徒として口は出すまい…と思っていたシェーラだが、既に二週間が経っている。シェーラの練習にも、ほとんど付き合ったことなどない。いや、そんなことは些細なことだ。

 シェーラにはもっと切実な願いがあったのだ。


 意を決してリカームの背後までやって来たシェーラは、おずおずと話しかけた。


「ね…ねえ、リカーム。あなたは練習しなくてもいいの?」


 植木を刈る手を休めて、リカームが振り向く。


「練習など私には必要ありません。御嬢様は気にせずトレーニングにお励み下さい」


 やはりリカームには先生口調は合わないらしく、普段通りの喋り方で落ち着いていた。


「……はい」


 渋々頷き、シェーラはまたトレーニングを再開すべく庭園を出て行った。


「う~ん…前衛芸術的な観点から見て、ここは切った方が…」


 力作に挑むリカームは、シェーラの物憂げな表情にも気付かなかった。


 溜息をつきながら帰って来たシェーラは、芝生の上で寝そべっている黒い友達に声もかけず、またいつものコースを走り始めた。後ろからカノンがついて行く。

 しかし、何を遠慮してか、今度は決して並んで走ろうとはしなかった。


 そして、それを二階の窓から覗く者達がいた。


「シェーラ御嬢様、リカームさんが素顔になってるのに走ってばかり…お可哀想…」

「そんなこと言って、あんたさっきからリカームさんの方しか見てないじゃない!」

「だって…素敵なんだもの」


 レーラの突っ込みに、頬を染めて答えるジルだった。


「でも、リカームさんらしくないです。いつもはシェーラ御嬢様最優先のはずなのに…」


 ミイナが附に落ちないという顔で言った。

 それを聞いたレーラが、


「ふむ…もしかしたら、執事として恋愛沙汰を起こさぬよう、御嬢様との距離を開けておこうというつもりかも……いえ、きっとそうよ!確かに御嬢様と執事では許されないわ。たとえ神が許しても、リカームさんの忠誠心と職業意識(プライド)が許さないのよ!」


 拳を突き出さんばかりに力説する。

 こういうことにはレーラのテンションは際限なく上昇する。

 その横では…


(執事とメイドが恋に落ちるのは、これ自然の成り行き。道徳上何の問題もないわ!)


 ジルがにんまりとほくそ笑む。

 二人ともリカームとの甘いロマンスを夢見て、ぽーっとした表情になっている。

 だが、そんな二人の熱を冷ますかのように、


「……違うと思います。リカームさんって乙女心には鈍感だから、御嬢様の気持ちにはまるっきり気付いてないと思いますよ。もっと他に理由があるんじゃないでしょうか…」


 ミイナの言葉に、さすがのレーラも慎重になる。


「……もう少し様子を見ましょう」

「……そうね」


 後輩の思惑に乗ったとも知らず、二人の先輩は注意深くリカームへと視線を移す。


(御嬢様…あまり長くは止めておけないですよ)


 ミイナは慕っているシェーラのために二人を牽制したのだ。


 しかし、そのミイナも、ほのぼのと植木を刈っている紳士を見る眼差しは、他の二人と同じく熱を帯びたものだったのだが。



          *



 夜、もうそろそろ皆がベッドに入ろうかという頃。

 寝間着姿のシェーラが、机に頬杖をついてカノンへと話しかけていた。


「もう~…リカームったら昼間は植木の刈り込みばかりやってて、自分の稽古もしないのよ。本当に私を守る気があるのかしら?」


 床に横たわるカノンに少し怒った調子で話しかけた。

 もちろん、本気で言っているわけではない。リカームの忠誠心は十分過ぎる程よくわかっている。ただ、ゼノケリウスを光らせたあの時の、自分を守ると言ってくれたリカームとつい比べてしまうだけだ。


 シェーラの言葉を聞いているのかいないのか、カノンは相変わらず床に寝そべって目を瞑っている。

 もしかしたら、もう眠ってしまったのかもしれない。


 だが、そんなことはどうでもいいのか、少女はさらに話しかける。


「それにあの植木を刈っているときの愉しそうな顔…あれじゃあ、わざわざ素顔になってもらったかいがないじゃない、あの時のリカームとは別人よ。ね、あなたもそう思うでしょ?」


 カノンはぴくりとも動かない。

 どうやら本当に眠ってしまったようだ。この新しい友達は妖魔の気配には敏感なくせに、人の話を聞いていると眠ってしまうという失礼な性格をしている。まあ、この部屋の絨毯がふかふかで気持ちがいいせいでもあるのだろう。


 返事のない友達を振り返り、すっかり眠ってしまったと判断したシェーラは大きな溜息をついて机に身を投げ出した。わずかに開けた窓から生温かな風が吹き込み、少女の栗色の髪を揺らす。

 腕枕に顔を埋めた少女から誰にも聞き取れないほど微かな呟きが洩れた。


「人の気も知らないで…」


 その時、眠っているはずのカノンの耳がぴくっと動いたのにシェーラは気付かなかった。もし、聞かれていたと知れば彼女は必死になってごまかすことだろう。

 今のが彼女の本音であり、抱えた悩みの深さだったのだから。


 シェーラは顔にこそ出さないが、日々苦悩していた。

 自分のために屋敷の者を危険に遭わせ、そして大好きな執事を死ぬかもしれない戦いに巻き込まねばならないのだから。 

 逃げ切れるかは分からないが、姿を隠しては…とも考えた。しかし、自分がいなくなったのを知れば、妖魔は魔力を受け継いでいる可能性があるメリーナを狙うだろう。妹に危険が及ぶのなら、まだ自分が狙われた方がましだった。練習に打ち込んでいるのも、そんな現実を忘れるためなのかもしれない。


 そして、大好きな執事は、いまや大切な存在となりつつあった。もちろん、シェーラの片想いだが。

 だからこそ、主というだけで自分のためにリカームが傷つくところなど見たくはなかった。無論、リカームにそんなこと言うわけにはいかないが、出来れば彼が少しでも傷つかぬために剣の修行を積ませたかったのだ。


 腕枕の中で少女の目に涙が溜まり始めた頃、ふいに背後の気配が動いた。

 シェーラは、急いで涙を拭き取って振り返る。

 そこには、豹の魔物が触手をピンと伸ばして立っていた。


「あら、カノン。起きてたの?」


 シェーラは何事もなかったかのように問いかける。


「見せたいものがある。ついて来い」


 カノンはそれだけを言うと、すたすたと歩き出してしまった。疑問符を浮かべていたシェーラだが、好奇心が勝り、後をついて行く。


 触手で器用に鍵を外したカノンが玄関の扉を開けたところで、心配になって聞いてみた。


「カノン。リカームは呼ばなくていいの?」

「奴は今、屋敷にはいない」

「えっ?」


 それ以上なにも言わず、カノンはすたすたと歩いて行く。少し躊躇したが、シェーラも玄関を出て行った。


 屋敷を出たシェーラは、カノンに導かれるまま裏の森へと歩き続けた。

 途中、犬達に道を塞がれたが、何とか宥めて通してもらった。それでもリーダー犬のベンだけは後ろからついて来る。おそらく、護衛をしてくれるのだろう。


 しばらく歩くと、塀が見えてきた。この塀までがマイエル家の敷地である。その向こうは森が拡がっており、奥に行くと魔物も現われるというので誰も住んでいない。


 シェーラが塀に辿り着いた時、何かバサッという音がした。

 ビクッと反応したシェーラだが、何故かカノンとベンは何の反応も示さなかった。

 敷地を囲う塀の向こうから音が聞こえてくる。誰かがいるようだ。強く地を蹴る音や風を斬り裂く音がする。

 シェーラは怖いながらも、持ち前の好奇心で壊れた塀の影から覗いてみた。


 暗闇の向こうでは一人の男が剣を振るって激しく動き回っていた。

 木々の間を走り抜け、枝を飛び移り、目に見えない敵と戦っているかのようだ。月明かりに照らされ男の顔が映し出された。


「リカーム!」


 思わず叫んでしまった。が、リカームは己の激しい呼吸でシェーラの小さな叫びなど打ち消してしまっている。

 シェーラは口に手を当てたまま、目を見開いていた。


 視線の先にいるリカームはシェーラの知っているリカームではなかった。シャツ一枚の上半身には力強い筋肉が躍動し、掃いているズボンはあちこち擦り切れてしまっている。そして、昼にも見たはずのその素顔には、別人のように鬼気迫る程の闘志が漲っていた。

 自分を守ってくれたあの時のように。


「はあ、はあ、はあ…」


 肩で息をしたリカームは一旦、剣を腰の鞘に納めた。

 そして、鞘ごと抜いて目の前に掲げる。


 あの時にも見たゼノケリウス発動の構えだ。一度鞘に戻すのは、鞘自体に増幅の魔術が込められているからだ。剣の発動には、光を維持するよりも莫大なエネルギーを必要とするため、鞘に戻し、気と精神力を増幅させなければならないのだ。


「………」


 剣を一文字に構えたまま動かないリカーム。しばし、そのままでいたが、何を思ったか見ていて分かる程あっさりと剣を抜いた。

 抜かれた白刃にあの輝く光はなかった。


(やっぱり、実戦でないと発動出来ないのかしら…)


 何故か、リカームは大事な鞘を後ろへと投げ捨てた。

 大木を前にして剣を真一文字にし、左手を刀身へと添える。

 鞘はないが、先程と同じ構えだった。


 いきなり、リカームはその激情を声に変換したかのように雄叫びをあげた。


「うおおおおおおおおっ!!」


 体の芯まで響くような咆哮。

 とても、昼間植木を刈っていた人間と同一人物とは思えなかった。


(まさか!?鞘なしでゼノケリウスを…?)


 シェーラはリカームが何をしようとしているのかを察し、驚愕していた。

 そんな話、御伽噺でも聞いたことがなかった。


 リカームはさらに気勢を上げ続け、シェーラにさえ身を竦ませるほどの凄まじさを見せる。ほとんど獣の咆哮だった。

 が、突然その咆哮が止む。

 一瞬の沈黙。


 リカームが誓いの言葉を叫んだ。


「御嬢様の未来のために!!」

「!!」


 心臓が止まったかと思った。それほどの…心を貫通するような絶叫だった。

 そして、その大音声とともに、白刃には神々しいばかりの輝きが。


 光り輝く聖剣を振りかぶったリカームは、信じられないような跳躍をして大木へと斬り降ろした。

 剣と溢れる光がやすやすと大木を斬り裂いていく。


バキバキバキッバキィ…バカアッ!!


 二つに裂かれた大木の前に立つのは、紛れもなく伝説の聖騎士だった。


 少女は口に手をあて、嗚咽を堪えていた。

 その目からはとめどなく涙が溢れている。


 カノンが淡々と言葉を紡ぎだした。


「奴には口止めされてたんだがな。執事とは己の努力を主に見せてはならないそうだ。それに…こんな修行を見せて心を荒ませたくないってな」


 涙ながらに気が付いた。自分はリカームを信頼しきっていればいいのだ。

 何も怖がる必要などない。主の平穏こそ彼の最も望むことであり、それに応えることこそ自分の務めなのだ。


 僅かな沈黙の後、目を伏せたままシェーラは言った。


「……帰ります」


 このままリカームの胸に飛び込んでしまいたかった。しかし、主として彼の気遣いを無にするわけにはいかない。


 シェーラは溢れる気持ちを抑えて、屋敷へと足を向けた。



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