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 ヴァリシエル王国、王都グランリーフ。冷たい雨が降るスラムの路地裏。

 崩れかけた建物の影、ゴミが散乱する地面に、エリーナ・スカイ伯爵令嬢は倒れていた。

 がたがたと震える身体は骨と皮にまで痩せ細り、赤茶色 の髪は埃と汚れが絡まっている。青い瞳は虚ろに開かれていたが、その光はすでに消えかけていた。

 継母と妹によって実家の伯爵家を追われてどれくらいが経つのか、エリーナは覚えていない。両手の指の数を越えてからは考えることを止めていた。


(……お義母様もドロシーも、わたしを好いていなかった。それは分かっていたのに……)


 それでも心を尽くしていれば、いつかは笑顔を向けてくれると信じていた。

 本当の家族のように親しく関係を築くことができれば、父も昔のように優しくしてくれると……。


 だが、現実は違った。

 騎士団に所属する父が長期間留守にしている間に、エリーナはとうとう追い出された。

 しかし父が在宅していたとしても、エリーナの運命は変わらなかっただろう。継母と妹による悪意に満ちた仕打ちを見て見ぬふりをしている父が、手を差し伸べてくれたとは到底思えなかった。


 逃げる場所も、頼れる人もいなかった。

 世間知らずのエリーナは、一人で生きる術を持たなかった。

 貧相な身体は娼館のスカウトにさえ見向きもされず、行き場を失くした末に流れ着いたのがスラム街だった。

 スラムの独特なしきたりや暗黙のルールに適応する前に、彼女の身体は限界を迎えた。

 虐げられ続けた十年間。とうに心身は蝕まれていた。


(……わたしはもう……立ち上がれない……)


 雨に打たれながら、エリーナは静かに目を閉じる。


(お母様。エリーナもすぐそちらに参ります……)


 いつだって抱きしめてくれて、優しく頭を撫ででくれた母。

 病気で看取ったときは悲しくてたまらなかったが、いつまでも泣いていたら天国の母に心配をかけてしまうと心を奮い立たせ、今日まで生きてきた。

 この苦しみからようやく解放されるのだと思うと、目の端から涙が流れ落ちる。


(……シュバルツ。あなたにもう一度会いたかった……。先に逝くことになってごめんね……)


 寒くてたまらなかったのに、不思議と今は感じなくなっていた。

 静かな気持ちで最期を待っていると、耳に女児の悲鳴が飛び込んできた。


「やめてっ! こないでっ!」


 薄くまぶたを持ち上げると、片足を引きずった銀髪の少女が見えた。懸命にエリーナが倒れている方向へ逃げてくる。

 その後ろから姿を現したのは、粗野な風貌の男たちだ。


「珍しい銀髪の子どもを見つけられるなんて、今日はツイてるな」

「高く売れるぞ。捕まえろ!」


 エリーナは驚きに目を見張る。


(――サラだわ!)


 サラとはスラムに流れ着いてから何度か言葉を交わしたことがあった。

「生まれつき右足が悪くてうまく歩けないんだ。でも平気だよ、みんな優しくしてくれるから!」

 無邪気な笑顔で、そう言っていた可愛らしい子。

 顔を合わせるたびに「お姉さん、だいじょうぶ?」と気に掛けてくれた、優しい子。ほんの一口分しかないカチカチのパンを、半分わけてくれたこともあった。

 エリーナは十歳も年下の彼女から勇気をもらっていた。

 ――そんな子が、人さらいに追われている。


(さらわれるということは、ある意味ではスラムを出られるのだろうけど……)


 しかし、人をさらう者も買う者も、まともであるはずがない。スラムを出られたとしても、その先に待つのは更なる地獄の可能性もある。

 なによりエリーナの存在に気付いたサラの双眸は「たすけて」と訴えていた。

 エリーナは、勇気と気力を振り絞った。


「おっ、やめくださいませ。このヴァリシエル王国で、人身売買は、いっ、違法 のはずです……っ!」


 がりがりの足で、なんとか立ち上がる。潤いを失った喉はうまく開かず、声は掠れる。

 エリーナの腕に飛び込んだサラは、震えながら泣きじゃくった。


「なんだぁ? 鶏ガラに用はねぇよ」

「そのガキを渡しな。じゃねえと、アンタごとやっちまうぞ」


 恐怖が心臓を締め付ける。

 久しく人の顔色だけを伺って生きてきたエリーナにとって、大の男に口答えをするなどあり得ないことだった。

 ――それでも。


(お母様だったら、こうして守ってくれたはずだから……!)


 エリーナは足の裏に力を込めると、男たちの前に立ち塞がる。


「そっ、それはできません。お引き取りくださいませ!」

「……チッ」


 めんどくせえな、と男が呟いた瞬間、彼は手に持っていた木の棒を振り下ろした。


「――――ッッ!」


 エリーナの身体に強い衝撃が走り、視界がぐらつく。

 彼女はサラを腹の下に守りながら、ぬかるんだ地面にうずくまった。

 男たちは無精ひげの間から汚らしい笑い声を上げ、彼女の背中に幾度も角材を打ちおろす。


「スラムの女が一人死んだって、なーんも問題ねぇよ」

「ったく、手間をかけさせるな」


 エリーナの小さな背中からは、じわりと血が滲みだす。


(痛い……背中が焼けるようだわ……。ああサラ、わたしが死んだらその隙をついて逃げるのよ……)


 彼女は顔と身体を泥まみれにしながら、その瞬間までサラを守り続けた。

 伯爵令嬢、エリーナ・スカイ。

 彼女はスラムの裏路地で、十六年の人生を終えた。


 ◇


 エリーナの魂が肉体意識を離れた瞬間――。

 百年ものあいだ縛り付けられていた一つの魂が解放された。

 かつて大罪を犯したその魂は、肉体の内側から苦しみを味わい続ける輪廻を繰り返していた。

 貧困にあえぐ子ども、理不尽に痛ぶられる奴隷、搾取される娼婦、行きたくもない戦争で散った若い兵士……。

 彼女の魂はそれらの肉体の内側に縛り付けられ、両目に映る世界と感覚だけが共有され続けた。

 まさに生き地獄。

自ら身体を動かせないその状況は悪夢としか言いようがなかった。

 それが、女神が彼女に課した最低限の"禊"であった。

 生前の寿命ときっかり同じ百年が経ったこの瞬間、伯爵令嬢エリーナ・スカイの魂は召され、その肉体に閉じ込められていた最強にして最凶の魔女、エレンディラ・ナイトレイの魂が解放された。


『私はとうとう、自由になったのだな!』


 魂魄を縛り付けていた鎖が砕け散り、エレンディラは時が来たことを知る。

 空間に流れ込んできたエリーナの魂を、彼女は万感の思いで抱きしめる。


『よく頑張ったな、エリーナ。もう大丈夫だ。あとは私に任せて安らかに眠れ』


 エリーナが見てきたもの感じたものはエレンディラも知っている。もっと言えばエレンディラはエリーナ自身でもある。十六年間の壮絶な人生を、彼女は心から労った。


『あなたが生きた証を、これから私が命を懸けて刻もう』


 エレンディラが腕からエリーナの魂を解くと、それは嬉しそうに一際輝きを放ち、霧のように消えていった。


 ◇


 降りしきっていた雨は、いつの間にか上がっていた。

 動かなくなったエリーナの身体の下からは、すすり泣く声が漏れている。


「……おい、もういいんじゃねぇか?」

「動かなくなったな」

「放っておけ。ここじゃ誰か倒れていても気にやしない」

「いやあっ! エリーナおねえちゃん! うわぁ~~ん!!」


 男たちはエリーナの下からサラを引きずり出すと、縄で縛り上げて口に布を突っ込んだ。

 小さな身体を担ぎ上げ、さっさと路地を引き返す。

 かれらの頭の中はサラが何枚の金貨になるかということでいっぱいだ。打ちのめされたはずのエリーナが、ゆらりと立ち上がったことに気が付かない。


「身体強化」

「あ? なんか言ったか?」


 ぼそっと呟かれた言葉に、男の一人が仲間の方を向く。

 次の瞬間、


「へぶうっ!?」


 間抜けな声と共に男は宙を舞い、廃墟の壁に突き刺さった。


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う~ん? えっとこれは……かの鹿男小説のシカとネズミとキツネがやってる、自分と同じ種に乗せてもらってるみたいな感じなんだろうか。 それはそうと……こりゃあオーバーキルやな(`・ω・´)
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