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新連載です。よろしくお願いします。
氷のような疾風が、傷だらけの肌を刺す。
月明かりに照らされる黒い森の上空を、力の入らない身体を箒に預けながら、彼女はかろうじて飛行していた。
無数の傷口から噴き出す鮮血が黒いドレスを濡らす。指先の感覚はすでに消えかけている。それでも歯を食いしばり、必死に箒を握り続けていた。
「まだ……まだ飛べる……少しでも遠くに逃げなければ…… 」
追手はまだ近くにいるはずだが、なびく銀色の髪の後方には音も気配も感じられない。運よく逃げ切れたのかどうか、速度を緩めて確認する余裕もなかった。
視界がぼやけ、世界が揺れる。箒の速度が落ちていくのがわかった。魔力が底を尽きかけているのだ。
「……くそっ。だめか……」
呟いた瞬間、手から箒が滑り落ちた。伸ばした手は虚空を切り、無防備に夜空を落下する。木々の枝が身体を叩き、痛みを感じる間もなく地面に激突した。
「――カハッ!」
湿った土の感触が背中に伝わる。視界は歪み、辛うじて森の上に輝く星々がぼんやりと映っていた。呼吸をするたびに肺が痛み、冷えた鉄の味が口の中に広がる。
「ここまで……か……」
全身の骨が折れている。動くこともままならない。
胸にある致命傷のほか、ありとあらゆる傷口から出血し、魔力も枯渇している。エレンディラは己の死期が近いことを悟った。
「私に手に入れられないものなどなかったのに……この虚しさはなんだ? なにゆえ私は笑って死ねぬのだ?」
稀代の最強魔女と謳われたエレンディラ・ナイトレイに、こんな最期は似つかわしくない。
自由気ままに世界を渡り歩き、欲しいものはすべて手に入れ、大国の皇帝までもひれ伏させてきた。
満たされない欲などなかった。
幸せだったはずだった。豊かだったはずだった。
――それなのにこの心にぽっかりと空いた穴は何だ?
なぜ血にまみれて独りで死ななければならない?
「……私はどこで間違えた?」
荒い息をついていると、真夜中の森に似つかわしくない幼な声が響き渡る。
「嫌だ! こっちへ来るな! 誰か!」
エレンディラが顔を動かすと、十歳手前ほどの男児 が魔獣の群れに囲まれていた。
男児までの距離は離れていたが、エレンディラほどの魔女となれば、男児に何が起こっているのか正確に把握することができた。
(――ロードグリフォンか。あの子供の服には連中を刺激する薬草の匂いがつけられているな。哀れな子だ。口減らしのために連れてこられたか、誰かに嵌められたのか……)
唸り声を上げて飛びつこうとするロードグリフォン。悲鳴を上げながら逃げ惑う男児。
拙い魔法を乱打して追い払おうとしているが、力の差は一目瞭然だ。
グリフォン種は魔獣の中でも知能が高く、群れで連携して狩りをする。中でも『夜の王者』とも呼ばれるロードグリフォンは凶暴性が高く、暗闇を翔ぶその姿は死の前兆だと恐れられている。
経験を積んだ者でさえ、計画を立てて挑まなければ討伐は難しい。
「――うぁ゙っ!」
叫び声とともに男児は右肩を押さえて地面に倒れ込む。鉤爪にやられたようだ。
負傷しながらも彼は立ち上がろうとし、怪我をしていない方の腕で魔法を打ち出して必死に抵抗を続けていた。横顔が月光によってキラリと光ったが、それが汗なのか涙なのかは、エレンディラにもわからなかった。
(愚かだが……勇敢な子だ。あんなに弱い魔法で敵うはずもないのに、震えながらも立ち向かっている)
死を待つ自分と、生を求める男児。
エレンディラには、これが偶然だとは思えなかった。
思えば好き放題に生きてきたこの百年、誰かのために魔法を使ったことがあっただろうか?
(……残っている僅かな魔力を使えば、私は確実に息絶えるだろう。だが、グリフォンどもを仕留めるには充分)
贅沢な暮らしも、すべてが思いのままになるこの強大な魔力も、自分を幸せにはしなかった。
生まれてから今まで自分のためだけに使ってきた力を、他人のために使ったなら、幸せになれるのだろうか?
エレンディラは、死ぬ前にふと試してみたくなった。
(今日を生き延びたとして長くない。ならば私の明日を、あの男児に託してみようじゃないか)
満身創痍のエレンディラは、にやりと邪悪な笑みを浮かべる。
(派手に散ろう。それが私の最期にふさわしい)
体内に残っている僅かな魔力をかき集め、練り上げ、再び循環させる。
エレンディラが世界最強と謳われる理由は魔力の強大さだけではない。その扱いが群を抜いて熟達していたからだ。並の魔女にとっては取るに足らない一滴の魔力でも、彼女にかかれば岩をも砕く威力となる。
「身体強化」
魔力が崩れかけた肉体を駆け巡る。エレンディラは男児との間に素早く割って入った。
「闇の嵐」
世界で唯一彼女だけが使える、美しくも残酷な複合魔法。
詠唱と同時に天にまたたく星々は輝きを消し、森は闇の帷に包まれる。
エレンディラの左手には稲妻が帯電し、右手からは水でできたドラゴンが闇夜に向かって咆哮する。
「死ね」
ドラゴンは次々とロードグリフォンを呑み込み、まぶしい雷が一帯の大地を打つ。
一瞬のうちに魔獣は駆逐された。
丸焦げになった大地に、エレンディラはドッと膝から崩れ落ちる。
男児は呆然としていたが、我を取り戻すと慌ててエレンディラに駆け寄る。彼女の身体を見ると悲鳴を上げた。
「ひいっ! き、傷だらけだ……死なないで!」
涙を流しながら、必死にエレンディラにしがみつく。
しかしエレンディラの顔は蝋のように真っ白だ。魔女として生命を維持するために必要な魔力まで、すべて空っぽになるまで使い果たしていた。
それでも、彼女の表情は穏やかだった。力の入らない腕を持ち上げて、そっと男児の涙を拭う。
「助けたのに泣かれると困るな……。どちらにせよ死ぬ運命だったから、いいんだ」
「どうして僕なんかを助けたんだ! 助けたって良いことなんて無いのに……っ!」
「……ただの気まぐれだ……。良いとか悪いとか……私はそれすら考えることなく生きてきてしまったから……」
エレンディラのまぶたが落ち、全身からから力が抜けていく。
視界がだんだん狭くなり、闇が迎えに来ていることを感じる。
「ありがとう……ううっ…ありがとう……」
「……ああ、幸せとはこのような気持ちをいうのか……。……私こそ……ありがとう……」
すすり泣く男児の手の中から、エレンディラの白い手が滑り落ちる。
彼女の意識はゆっくりと深い闇へ沈んでいき――やがて息を引き取った。