空と雲と地上と君と
蛇にでも絡まれたのかと思い、彼女が恐る恐る振り返ると、足元には、この場所にはまったくそぐわない一人の赤ん坊がいた。
ヒメルは、一瞬面食らった。
そしてその場にしゃがみこみ、その赤ん坊の顔を覗き込むと、赤ん坊は無邪気な笑い声をあげた。
ヒメルは、夢を見ているのではないかと思って、肩を震わせた。
自分が知っていた頃よりも顔つきや体つきが微妙に違っていたが、その子は、紛れもなくノインだった。自分の子を見間違えるはずもなかった。
恐る恐る抱き上げると、ずっしりとその重みを腕全体で感じた。そして、相変わらずとても温かかった。手放すと、すぐに消えてしまいそうな気がして、ヒメルは必死にノインを全身で抱きしめていた。ノインが、自分の腕の中でもぞもぞと動いている。首筋に彼の呼吸の音を感じる。心臓の拍動の音を感じる。
これは幻ではないと知って、彼女は訳も分からずに大声で泣いていた。全身で、ノインのことが大切だと叫んでいた。
これからは絶対に手放したりなどしない。自分の人生を振り返って、後悔することも決してしない。この愛しくてたまらない子を、一生をかけて愛していこうと、そう心に誓った。
ヒメルが涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔を拭っていると、ノインがヒメルの肩から身を乗り出して、「パパ」と言葉を発した。
ヒメルはただの喃語かと思っていたが、ノインがしきりに「パパ、パパ」と背後に手を伸ばそうとするので、不思議に思って振り返ると、そこには少々バツの悪そうな顔をした少年が立っていた。
「パパはやめてくれって、ずっと言ってるんだけどな……」
ヒメルは、声を発することができなかった。
ずっと会いたかった、夢にまで見た人物がそこにいた。彼は、呆然としているヒメルからノインを抱き上げると、ノインの額を軽くつついて言った。
「こら、勝手にこんなところまで動いたらだめじゃないか。万が一ここから落っこちたりなんてしたら、俺の今までの苦労は一体どうなるんだ? まったく、これだから子どもってやつは、大人の都合なんてまるで無視なんだからな」
「エルデ……」
ヒメルが名前を呼ぶと、エルデは恥ずかしそうに、彼女から目をそらした。
「悪い。遅くなった。もっと早くに帰るつもりだったのに……」
「エルデ、エルデ! 本当に、本物のエルデなの? 幻じゃない? ノインと一緒に消えてしまったりしない?」
ヒメルは無我夢中でエルデに抱きついた。
もう、一人で完全に座ることができるようになっていたノインが、その様子を見上げて、きょとんとしている。
「幻じゃないよ。ほら、ちゃんと触れるだろう」
「でも……だって……!」
ヒメルがあまりにも必死にしがみつくので、最初は戸惑っていたエルデも、もう観念して、恐々といった具合で彼女をやんわりと抱きしめ返していた。
しばらくずっとそのままで泣いていたヒメルだったが、ノインの「パパ~」という声がして、はっとして我に返り、慌ててエルデから離れていた。
「ノイン、ごめんね。ほったらかしにしちゃってたね」
ヒメルは、そう言ってノインを抱き上げた。自分が記憶していたよりも、明らかにもうずいぶんと重くなっており、これではすぐに腕が疲れてしまうだろうなと考えて、そしてそれが嬉しかった。
「実は、少し前にはもうイーストスフィアに帰っていたんだ。でも、俺がまた高度障害にかかって体調を崩して、しばらく病院に世話になっていた。すぐに連絡すれば良かったんだけど、今回はしばらく昏睡状態にまで陥っていたみたいで、回復して退院できたのも、つい昨日のことなんだ」
エルデは、申し訳なさそうに頭を掻いていた。
「俺が入院中に、ノインの面倒は院内の人たちが善意でみてくれていたみたいで、今度また落ち着いたらお礼に行こうと思う。……それにしても、こいつはこんなに小さい身体をしているくせに、恐ろしく頑丈な奴だよ。地上に行っても、イーストスフィアに帰ってきても、酸素酔いも高度障害も発症しないし、熱一つ出さずにけろっとしているんだからな。こっちが呆れるくらい将来有望なやつだ」
「そうだったのね。ノイン、強かったんだね。私も、今度その病院に一緒にお礼に行かせて」
ヒメルは嬉しそうに、ノインを精一杯抱きしめて言った。
それから、エルデからいろいろな事の経緯を聞いた。
ノインが誘拐されたあのとき、エルデは無我夢中で航空機で空の中を追いかけ、なんとか地上まで後ろに貼りついていくことが出来たのだという。そして、長い逃亡の末、相手の航空機が地上に降り立ち、中からフレーディンが出てきたときには、すぐに彼女を捕まえることができたのだそうだ。
実にあっけなかった、とエルデは語った。
「フレーディン先生は、地上に着いたとき、すでに体調を崩していたんだ。酸素酔いもあったのかもしれないけど、それ以外にも、彼女の肉体では慣れない空の長旅とか、地上の汚れきった空気とか、急激な気圧の変化とか、いろんな負担が身体にかかったんだろう。俺はもともと地上の人間だから、あそこの劣悪な環境にはまあまあ慣れていたけど、フレーディン先生は、純粋培養の空人だからな」
そうして、すぐにもノインを取り返すことができた、とエルデは話した。
「俺がノインを取り返すと、フレーディン先生はすぐに正気に戻ったよ。一度病院にも連れて行ったんだけど、地上の病院は今はどこもしっちゃかめっちゃかで、病人や怪我人であふれかえっているから、結局そこまで重症じゃないフレーディン先生は、すぐに追い返されてしまったけど。それ以来、何日か避難シェルターで一緒に過ごしたけど、あのアーベントって奴がフレーディン先生から現れることは、もう一度もなかった。先生は、意識を乗っ取られていた間も、自分のしたことは覚えていたみたいで、めちゃくちゃ謝られた。先生が悪いわけじゃないとは言ったけど、『ヒメルに嫉妬する気持ちがまったくなかったわけじゃない』とも言っていた。たぶんそこをつけこまれて、アーベントの死霊に憑依されてしまったんだろうって。こんなことになってしまって、ヒメルにはもう顔向けができないから、しばらく地上で暮らすって言って聞かなかった」
「そう……」
フレーディンは、アーベントに都合よく利用されていたとはいえ、ヒメルには、フレーディンを完全に許すことはまだできなかったので、なんとも複雑な思いがした。
自分もそうだが、フレーディンもまた、アーベントに人生を振り回されたうちの一人―――被害者だったのではないかと思う。ヒメルはエルデにそう言った。そして、さらに続けた。
「でも、私は自分のことをもう被害者だなんて思ってはいないの。自分が生きてきた今までの道に、後悔なんてしないって決めたから」
「ヒメル、強くなったな」
エルデは、素直に本心からそう思ったことをヒメルに伝えた。
そして彼は、地上の混乱のせいもあって、ノインを取り戻してからも、なかなかすぐにはイーストスフィアに帰る手段がなかった、と話した。
地上には、太陽の光がほとんど届かないため、航空機のソーラーパネルは、なかなか電力を充填することができなかった。しかも、地上にたどり着くまでに、燃料もかなり消費してしまっていたので、地上でなんとか電力と燃料を調達しなければならなかったのだという。
大災害の真っ只中の地上では、様々な物資やエネルギーが非常に貴重で、物価もかなり高騰していたため、まずは地上で働くことから始めなければならなかった、とエルデは言った。
「ずいぶんと、大変な思いをさせてしまったわね……」
「まあ、大変じゃなかったと言えば、かなり嘘になる。実際に、いつ死んでもおかしくはない状況だったしな。でも俺は、地上に行って良かったと思っている」
エルデは、どうやら地上で自分の母に会ってきたらしい。
「俺の住んでいたエンデスっていうところも、大震災に見舞われたらしくてさ。奇跡的に母親も家も無事だったんだけど。でも、近隣の家や住民の被害状況はかなりひどい有り様だった。救出や復興作業もしばらくの間手伝ってきたけど、これから冬にも入っていくし、あそこで生きていくのはかなり厳しいだろうなと、正直なところ思ったよ。でも、彼らはこれからもあそこで生きていくしかないんだ」
エルデはそれから、「母親のことは、俺はやっぱり苦手だ」とヒメルに言った。
「でも、生きていてくれて良かったとも心底思った。ノインの面倒も、俺が働きに行っている間、しばらくはみてもらったりもしたし、前よりは多少は打ち解けられたような気はする。でも、それでもやっぱり苦手なものは苦手なんだ。……それで、今はそれでも良いかと思えるようになった。嫌いなら嫌いで、苦手なら苦手でも別に良いって。親子だからって、必ずしも気が合うとは限らない。近くにいることが一番良いとも言い切れないって。でも、生きていてくれるのは嬉しいし、これからも生きていてほしいと思ったんだ。それで十分だって」
そう言ったエルデの顔は、とても清々しかった。良い顔をするようになったな、とヒメルは嬉しく思った。
「地上は、これからどうなっていくのかしら」
「わからない。でも、空の人たちが言うように、地上はそんなすぐに滅んだりはしないと思う。そこまで、人間の生命力は弱いわけじゃない」
「じゃあ、アーベント先生の地上が滅ぶっていう予言は、外れたってこと?」
「さあな。そもそも、予言も未来史も、やっぱり俺には信じられないよ。結局未来なんて、自分たちが選択してきた道の中の一つの結果論でしかないんだから。全部先を見通すことができるなんて、最初からありえないことだ。ありえるって奴がいるとしたら、そいつはただ、未来の自分のことを全部他人任せにしているだけだと思う」
エルデの言い分を聞いて、ヒメルはたしかにその通りだと思った。
ノインがヒメルの腕の中で、再び「パパ」とエルデに手を伸ばした。
「よほど、エルデのことが好きなんだわ。きっと地上で、たくさんエルデに可愛がってもらえたからなんでしょうね」
「たしかにメインで世話をしていたのは俺だけど……。地上の仕事仲間たちが面白がって、俺のことをパパって呼んでいたら、そのままこいつが『パパ』っていう単語を覚えちゃったんだよ。初めて喋った言葉がそれだったから、なんとなくヒメルに申し訳ない気がしてさ。イーストスフィアに戻るまでに、なんとか直すように頑張ったんだけど……」
「直さなくちゃいけないの?」
意外なヒメルの問いかけに、エルデは少々面食らっていた。
「私は別に構わないし、嫌じゃないわ。エルデが嫌じゃなければ、だけれど」
「え……?」
「でも、エルデが嫌ならお互いに不毛なだけだし、ノインもこのまま知らずに喋り続けるのも、かわいそうよね。それなら、早いうちに直さなくっちゃ。ノイン、私のこともそのうち『ママ』って呼んでね」
ヒメルは笑顔でノインに語りかける。ノインもそれにきゃっきゃと笑って応えていた。
「嫌じゃ……ないよ」
エルデは、聞き取れないくらい小さな声でそう言うと、心底恥ずかしそうに、ヒメルから視線をそらしていた。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。




