1話 黒の迷宮
よろしくお願いいたします。
プロローグ
そこは、小麦を育て、山で狩りをしながら暮らす、ごく普通の農家だった。
夜の帳が下りた家の中に、母親の叱る声が響く。
「こらー! レオン、ナタリー! もう寝なさい!」
「まだ眠くなーい!」
兄のレオンが不満そうに答える。
「眠くなーい!」
妹のナタリーも、兄の真似をして声を上げた。
「もう遅い時間よ! あっ……お母さんの言いつけを聞けない悪い子がいるわね」
「きゃーーー!」
ナタリーは悲鳴を上げると、慌ててベッドへ潜り込んだ。
「ちぇー……」
レオンも渋々、隣のベッドに入る。
「あら、いい子ね。これなら黒の魔女は来ないわ」
「本当に来ない?」
「ええ。いい子にしていればね」
「黒の魔女なんて、いるわけないさ!」
レオンが強がる。
「黒の魔女は本当にいるのよ!」
「嘘だー!」
「本当よ。明日、お父さんに聞いてみなさい」
父親は、山で仕留めた獲物を売るため、近くの町へ出かけていた。今夜は家にいない。
「お父さん、明日帰ってくる?」
「ええ。あなたたちがいい子にしていればね」
「うん!」
「それじゃあ、もう寝なさい。お休みなさい」
「お休みー!」
レオンとナタリーの声が重なる。
どこにでもある、穏やかな夜の光景。
そして——『黒の魔女』という言葉は、子どもたちにとって恐怖そのものだった。
湿り気を帯びた冷たい空気が、迷宮の奥から吹き寄せていた。
そこは、かつて栄華を誇った古代魔法王国が築いた地下迷宮の一つ。
王国が滅びてから幾百年が過ぎた今も、内部には当時生み出された魔獣が棲みついている。侵入者を待ち受ける罠も、闇のあちこちに潜んでいた。
危険な場所であることは、疑いようもない。
だが同時に、古代王国の遺産や財宝が眠っているのも事実だった。
だからこそ、一攫千金を夢見る冒険者たちは、今日も迷宮へ足を踏み入れる。
アレクスト王国の南東に位置する迷宮。
通称——黒の迷宮。
古代魔法王国の末期に暗躍したと伝えられる、黒の魔女マティルダ。その精神が封じられているという迷宮である。
冒険者チーム《夢見る羊》は、その第6階層を進んでいた。
剣士2人、魔法使い1人、神官1人、斥候1人。
誰も飛び抜けた実力者ではない。だが、それぞれの役割に不足はなかった。
どこにでもいる、中堅どころの冒険者たち。
彼らはつい先ほど、オーク2体をどうにかこうにか倒したばかりだった。
「今、何層目だっけ?」
先頭を歩いていた剣士のココが振り返る。彼は《夢見る羊》のリーダーでもある。
「あー……知らねえよ。俺に聞くな」
大剣を担いだトーニが、面倒そうに答えた。
「第6階層です」
僧侶のアーシャが、穏やかな声で告げる。
「もう引き返しませんか? これ以上進むと、私たちには荷が重すぎます」
魔法使いのペソットが、杖を握り直した。
「賛成。そこそこ稼げたし、潮時だわ」
盗賊のジーナが周囲を見回し、短く息を吐く。
「もう少し先まで行きたかったが……無理は禁物だな。少し休んでから戻ろう」
ココがそう決めると、ジーナが迷宮の奥を指差した。
「少し戻ったところに、休めそうな場所があるわ」
一行は来た道を50メートルほど引き返し、壁際の窪みに腰を下ろした。
水筒の栓を開ける音。
携帯食を噛み砕く音。
張り詰めていた空気が、わずかに緩んでいく。
やがて、自然と会話が始まった。
「なあ、黒の迷宮って、全部で何層あるんだ?」
トーニが干し肉を噛みながら尋ねた。
「正確な数は分かっていません。ただ、《マティルダの書》には、30階層まで存在すると記されていたはずです」
ペソットが答える。
「30階層かよ……。そいつは、とてもじゃねえが無理だな」
トーニは冗談めかして笑った。
「30階層に、黒の魔女の精神が封じられているんですよね?」
アーシャが確認する。
「書物の記述どおりなら、そういうことになります」
「じゃあ、そこには財宝も山ほどあるのかしら?」
ジーナの目が、かすかに輝いた。
「そこまでは記されていませんね」
ペソットは苦笑した。
「黒の魔女か……」
ココが、遠い記憶を探るように呟いた。
「悪いことをすると、黒の魔女がさらいに来るぞ——子どもの頃、親にそう言われたな」
「ああ、それな」
トーニも笑う。
「私は今でも、少し怖いです……」
アーシャが小さく身震いした。
「恐ろしい魔女だという話ばかりだが、そもそも、なぜ封印されたんだ?」
ココが尋ねると、ジーナも首を傾げた。
「そういえば、理由までは知らないわね」
「伝承はいくつもあります」
ペソットが、少し学者めいた口調で語り始める。
「その美貌で多くの男を惑わせ、国家転覆を企てたという話。あるいは、想いを寄せた男に婚約者がいたため、嫉妬に狂って禁呪を使い、その許嫁を殺したという話もあります」
「怖えな……」
トーニが顔をしかめた。
ペソットはしばらく黙り、迷宮の暗がりへ視線を向ける。
「ですが、もっとも有力なのは——古代魔法王国が滅びた原因そのものが、黒の魔女にあったという説です」
「まあ、とにかく、ろくでもない女ってことだな!」
トーニが吐き捨てるように言った。
「真実は分かりませんがね……」
ペソットが苦笑する。
「そうね。女性に対する偏見もあるわね」
ジーナが嫌味を込めて言う。
「えー、そんなことねえよ」
「はいはい、そこまで。休憩は終わりだ。出発——」
ココが立ち上がりかけた、そのときだった。
ふと、彼は壁の異変に気づいた。
石の一つが、鈍い光を放っている。
まるで何かに導かれるように、ココはその石へ手を伸ばした。
「ダメよ! 何かの罠かもしれない!」
ジーナが叫ぶ。
だが、警告は一瞬遅かった。
ココの指が石に触れた瞬間——
まばゆい光が辺りを照らし、大きな音が迷宮に響き渡った。
組み込まれていた壁そのものが、崩れ落ちたのだ。
頭を覆う者。
武器を構える者。
身を伏せる者。
仲間たちの反応は、それぞれだった。
やがて土煙が晴れる。
崩れた壁の向こうには、暗い通路が続いていた。
「隠し通路……?」
ココが呟く。
「うへえ! びっくりしたぜ!」
トーニが声を上げた。
「……」
アーシャとペソットは、言葉を失っている。
「こんなところに……」
ジーナが目を細めた。
そして次の瞬間、彼女はぱっと顔を輝かせる。
「ココ、お手柄だわ!」
「えっ……?」
「隠し通路ってことは、まだ誰も探索していない可能性が高いのよ!」
「ってことは?」
ココが間の抜けた声で尋ねる。
「未発見の財宝があるかもしれないってこと!」
「おおおおおお! ココ、でかした!」
トーニが大喜びで叫ぶ。
「隠してあるということは、その可能性も高いですね」
ペソットも嬉しそうに言った。
「……」
アーシャは周囲を見回している。まだ状況を完全には呑み込めていないようだった。
「はは……そっか……」
ココは呆然と呟いた。
だが、すぐに自分の頬を叩き、気合を入れ直す。
「予定変更だ! この通路を探索する!」
仲間たちの視線が集まる。
「第6階層の隠し通路なら問題ないと思うが、危険と判断したら即座に撤退する。皆、それでいいな?」
全員が大きく頷いた。
「それでは、ジーナ。索敵をしながら先行してくれ!」
「了解したわ」
ジーナは飛ぶように前へ出た。
通路の各所には、永遠に光を灯し続ける魔晶石が設置されていた。
その淡い光に照らされながら、一行は慎重に進んでいく。
しばらく歩いた。
だが、魔獣の姿も、罠の気配もない。
やがて彼らは、大きな扉の前に到着した。
扉には、精緻ながらもどこか不気味な紋様が刻まれている。
「ペソット、魔法的な罠がないか確認してくれ。その後、ジーナは物理的な罠を調べてくれ」
「了解」
「分かったわ」
「アーシャは防護魔法の準備を」
アーシャは黙って頷いた。
「俺とトーニは、扉が開いたら皆を守れるよう前衛に立つ」
「はいよ」
ココは、よどみなく指示を出していった。
「魔法の罠も、魔法による施錠もありません」
ペソットが告げる。
「こちらも同じね。鍵すらかかっていないわ」
ジーナも確認を終えた。
「罠なしか……よし、開けよう」
ココが扉に手をかける。
重々しい外見とは裏腹に、扉は軽く力を入れただけで、音もなく開いた。
その先にあったのは、飾り気のない小さな部屋だった。
魔晶石の明かりに照らされた室内には、中央に置かれた祭壇以外、目立ったものは何もない。
魔獣の姿もなかった。
「ジーナ、部屋の中を調べてくれ」
「了解」
「なんだよ……金銀財宝が、山のように積まれてると思ったのによ」
トーニが不満そうに呟く。
「祭壇が気になりますね……」
ペソットが視線を向けた。
「祭壇のようですが、神様は祀られていないようです」
アーシャが言う。
「祭壇の上にあるのは……棺か?」
ココが目を凝らした。
「棺にしては小さいが……」
ジーナは長い時間をかけ、部屋の隅々まで慎重に調べた。
やがて、彼女は小さく息を吐く。
「この部屋にも罠はなさそうね。気味が悪いくらいだわ」
「残るのは、祭壇の上にある小さな棺だけか……」
それは、簡素な造りの小さな棺だった。
表面には、幾重にも魔法陣が描かれた紙が貼り付けられている。
「まさか、黒の魔女の精神が封じられているんじゃないだろうな?」
ココが言った。
「ありえません」
ペソットは即座に否定する。
「こんな浅い階層に封じられているはずがない。書物には、30階層に封印されていると記されています」
「そうね。隠し通路の先とはいえ、その可能性は低いと思うわ」
ジーナも同意した。
「……」
アーシャは不安そうに、小さな棺を見つめている。
「んじゃ、開けてみようぜ!」
トーニが棺へ近づこうとした。
「待て。まずは調べるのが先だ」
ココが制止し、ペソットとアーシャが棺の様子を窺う。
「魔法陣はありますが、魔力はまったく感じません」
ペソットが告げる。
「邪悪な気配もありません……」
アーシャもそう言った。
「よし、なら決まりだ。開けるぜ!」
トーニは棺に貼られた紙を、一気に引き剥がした。
「あ……」
ココが声を漏らす。
「ちょっと!」
ジーナが叫んだ。
だが、止める間もなかった。
トーニは小さな棺の蓋に手をかけ——そのまま勢いよく開いた。
「鏡……」
小さな棺の中には、美しい装飾を施された手鏡が一つ。
それだけが、静かに収められていた。
ありがとうございました。




