第10話 世界で一番幸せな、食卓の響き
魔獣との決戦から数日が経ち、アークス領にはこれまでにない穏やかな時間が流れていました。
もはや空を覆う灰色の霧はなく、街のあちこちから、子供たちの笑い声や職人が槌を打つ音が、誇らしげに響いています。
一方で、隣国のソルスティス王国からは、驚くべき知らせが届きました。
王太子ジュリアン様が、魔獣を放った反動として、自らが愛した「完全なる静寂」に飲み込まれ、声を失ったというのです。
活力を失った王都はアークスの騎士団によって速やかに救い出されましたが、ジュリアン様は今、音のない塔に幽閉され、かつて自分が捨てた「命の響き」を思い知る日々を送っていると聞きました。
「エレナ、準備はできたか? 皆が待っているぞ」
扉をノックする音と共に、アラリック様の落ち着いた声が聞こえてきました。
鏡の中に映る私は、アークスの特産である『銀糸蚕』で織られた、白く輝くドレスを纏っています。
王都にいた頃の、申し訳なさそうに縮こまっていた私の姿は、もうどこにもありません。
「はい、お待たせいたしました」
私が扉を開けると、そこには正装に身を包んだアラリック様が立っていました。
その瞳には、私への深い信頼と愛しさが満ち溢れています。
彼は優しく私の手を取り、城の最上階にある大食堂へとエスコートしてくれました。
大食堂の扉が開くと、そこには騎士団のカイル様や、街の人々、そして厨房から腕を振るったギュンター様たちが揃っていました。
テーブルの上には、これまでの旅路で出会った最高の食材たちが、色鮮やかに並んでいます。
「さあ、始めましょう! アークスの新たな門出を祝う、『響食の祝宴』ですぞ!」
ギュンター様が声を張り上げ、最後の一皿をテーブルの中央に置きました。
それは、この日のために用意された『天輪果』のクロカンブッシュでした。
水晶のように透き通った硬い飴細工で、何層もの小さなシュー生地が固められています。
私は、アラリック様に促されて、その頂点にある一粒を手に取りました。
皆が息を呑んで見守る中、私は大きく口を開け、その『天輪果』を噛み締めました。
——パリンッ、カリカリッ、サクサクッ……!
飴細工が繊細に砕ける音と、中の生地が弾ける軽快な音が、食堂の隅々にまで染み渡りました。
それは、かつて私を苦しめた「呪いの音」などではありません。
聴く者全ての心を解きほぐし、明日への活力を与える、祝福の調べでした。
「……ああ、本当に良い音だ。エレナ様が噛み締める音を聞くと、戦いの疲れなんてどこかへ飛んでいってしまいますね」
カイル様が、幸せそうに自分のワイングラスを掲げました。
「わっはっは! その飴の厚み、完璧だったでしょう? お嬢さんの咀嚼音が最も美しく響くよう、百度の温度差で何度もかけ直した甲斐がありましたぞ!」
ギュンター様が鼻を高くし、隣の副料理長と肩を組んで笑っています。
「本当ですね……。この音があるから、私たちは今日も、美味しいご飯を美味しいと感じて生きていける。聖女様、アークスに来てくださって本当にありがとうございます」
給仕の娘さんも、目に涙を浮かべながら、私に感謝の言葉を述べてくれました。
私は胸がいっぱいになりながら、次にアラリック様が差し出してくれた『鋼殻蟹』の身を口にしました。
バリバリッという力強い音が、私の満足感と共に会場に響き渡ります。
「……エレナ。あんたはいつも、誰かのために音を立ててくれたな」
アラリック様が、皆の前で私の手を優しく握りました。
「だが、これからは俺のためだけじゃない。あんた自身の幸せのために、好きなだけ食べて、好きなだけ音を立ててほしい。俺が、その音を一生隣で聴き続けると誓おう」
アラリック様の真摯なプロポーズに、会場からは割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こりました。
「おめでとう!」「お幸せに、聖女様!」
あちこちで、食べ物を噛み砕く音と、笑い声が混ざり合い、最高の「音楽」となって夜空へ溶けていきました。
私は、少しだけ恥ずかしそうに、でも最高に幸せな笑顔で答えました。
「はい、アラリック様。私、これからも美味しいものをたくさん食べて、世界一幸せな音を奏で続けます!」
私は最後の一切れの『月晶くるみ』を口に放り込み、一番のお気に入りである「カリッ」という音を響かせました。
かつて、静寂を愛する国で「うるさい」と捨てられた少女は。
今、音を愛する国で、誰よりも愛される「響食の聖女」として、幸せな食卓の真ん中にいます。
美味しい音は、命の音。
私たちが奏でる幸せな咀嚼音は、これからもアークスの地を、そして私たちの未来を、温かく守り続けていくのでした。
(完)
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