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「知っていたか」
「概要のみですが」
第二王子妃、そして公爵夫人になるための教育の一環で学んだ記憶がある。レクティタ帝国とアルバ・ガリカ間にある唯一の交戦記録だ。
(いえ、あれは交戦とは言わないのかしら……?)
三日海戦は、交戦というほどの武力衝突をしていない。開戦直後、レクティタ帝国側から仕掛けられた海上からの精霊術による攻撃はあったが、アルバ・ガリカの防衛術式に阻まれ国土を傷つけることなく、また上陸どころか接岸すらも許さなかった。
当時のアルバ・ガリカの術器は現在ほどの精度があったわけではないが、防衛戦であること、そして何より両国の圧倒的な精霊術における技術差によりレクティタ帝国は戦線を進めることもできず、補給問題もあり早々に降伏を宣言した戦いだ。レクティタ帝国の宣戦布告からわずか三日で終息した海戦であるため、アルバ・ガリカでは『三日海戦』として有名な話でもある。
「精霊術が侵略に向かないという顕著な例として有名かと存じます」
それ以前からも精霊術は防衛特化だと西側諸国ではよく知られていた話ではあるが、端的な例ではある。
デボラの返答にわずか眉を寄せたルスランが小さく息をついた。
「そうであろうな。しかし当時のレクティタはそれを知らずに開戦し手痛い目にあった。それまで北の地でのみ争っていた為、こうも精霊術の威力に差がつこうとは思いもしなかったようだ」
何故あんなにも無謀な戦を仕掛けてきたのか、家庭教師に習った歴史の本の記述だけではわからなかった答えの一端に触れた気がしてデボラは得心した。
「統一前に存在していた北の地の国家や部族は、精霊陣を見る限りまったくの異文化というよりも、根元を同じくする多様に分岐した類似性を持つ文化、といった印象を受けました。その為さほど効果の違いはないように思えましたから、それを基準に西で陣を使われれば、確かに驚かれたでしょうね」
西と北では文化も言語も大きく違う。それでは確かにあっさりと阻まれたはずだ。
「丁度その頃は統一から間もなく、版図を広げることに意欲的だったため西に手を伸ばしたが、そこでの敗戦でようやく精霊術の特性に気付いたのだ」
しかし精霊術の発展には繋がらなかった。
なぜかと首を傾げるデボラの問いに答えたのは向かいで苦笑するニールだった。
「特性に気付いて、扱う地によって効果に差が出る精霊術を武力として恃みにするのはやめて、どこでも同じ効果を得られる兵器を開発することに方向を転換したんですよね」
「その結果、鉄鋼業は栄えて精霊術は百年前の水準からそれほど発達するでもなく、今でも地方では精霊術を使うのには札が主力となっております」
ニールの言葉を引き取って続けたヴラースの説明に頷く。
(版図拡大に重きを置かれた結果、防衛特化の精霊術を切り捨てたのね)
精霊術も相手国を特定すれば侵略時の攻撃主体として成り立つが、それも精霊術を熟知し、かつ各国の術式に精通しているものがいなければ難しい。そこに労力を裂くよりも、どこでも同じ効果が得られる兵器、例えば銃や砲などに切り替えたほうが効率的だと当時の皇帝は判断したのだろう。
アルバ・ガリカでは鉄や火薬がそこまで豊潤に得られるというわけではない為、もっぱら武器は精霊術を施術した術器や術具になる。要衝に施した大型の防衛術式もあるため、一般的な砲や銃はほぼ無力化できる程度の力はあるはずだが。
「北の地は豊かな土地なのですね」
「まあ、そうだな」
否定しないルスランにおおよその事情は察して頷いた。
銃や砲を主力にできるだけの資源があるのだろう。北の大地は広いから、それも頷ける話だ。
そして、一般的に軍事利用されない技術はされるそれよりも、著しい発展は見られないものだ。帝都や都市部では術式を付加した日用品や生活用具が富裕層を中心に使われているようだったから、レクティタ帝国での精霊術は、民間のみに任せたごくゆるやかな発展に留まっているのだろう。
「私個人といたしましては、せっかく多種多様な精霊陣がありますのに、少しもったいないような気もしてしまいますけれど」
国とまではいかなくとも、ディムフォレストのようにどこかの領主や経済的余裕がある支援者が後援すれば、精霊術はどこまでも枝広げ葉を茂らせる大樹のごとく成長する分野だ。恩恵も計り知れない。しかし、それは鉄鋼業にもいえることであり、そもそもデボラが口を挟むべき問題ではない。
「多様な発展の形がありますものね。今回のお役目の傍らに、北の地の生活に根付く生きた精霊陣を拝見できるだけでも嬉しく思っておりますもの」
村や町、そして都市部と帝都では普及している精霊陣も違いがあるだろう。今回の目的はいうまでもなく魔女から託された「おつかい」だが、道中目にする精霊陣も実に興味深い。
(それに、帝国の発展しているという鉄鋼業を目にする機会もあるかもしれませんし)
場合によっては祖国を攻めるかもしれない兵器やその技術の一端を知るのは、悪くない話に思えた。デボラ自身に理解はできなくても、目にしたものを理解できる人に伝えるだけでもまったく知らない状態よりはいくらか良いだろう。けれど。
(ああ、でも、駄目ね。間諜の真似事が私にできるとは思えないわ)
そもそも、万が一戦争が始まったとして、デボラが得た情報を祖国に渡す機会があるかどうかも怪しい。それは魔女の配慮という意味でも、デボラの生死という意味でも。それでも、知識も経験も思いもよらない場所で役に立つこともあるのだから、何も知らないでいるよりは知っておくことに越したことはない、というのがデボラの信条でもある。それゆえに、あちこち思考が向いてしまいがちでもあるのだが。
(万が一を思えば帝国の技術も気になるけれど、今回はきちんと「おつかい」をこなして、戦争を回避するのが最善ねえ)
知るのも大切だが、そちらにかまけて一番大きな役目をこなせなければ何の意味もない。
「まあ、三日海戦がこんなに尾を引くとは、当時の宮廷上層部も思わなかっただろうがな」
呟くようなそれに首を傾げる。いったい、何の尾を引いているというのか。
数瞬黙考するように口を閉ざしたルスランは、ややしてなんでもないのだと軽く手を上げることで会話を切り上げる。
「閣下、そろそろ……」
「ああ、そうだな。弟子殿、出発するが、よろしいか?」
ヴラースの声かけに頷いたルスランがこちらを窺う。それにデボラも首肯で返した。
「はい。大丈夫です」
今日中にあと二つ、村と町を越さねばならない。日は中天を過ぎ、やや西へ傾こうとしていた。




