サーカス
その子が団員に引っ張られるように馬車に戻ると周りのみんなはやっとガヤガヤと話始めました。
まるで、突然夢から覚めて現実に引き戻されたのに必死でその事を隠そうとしているような不自然さで。
その子が馬車に戻る前、最前列にいたリノとふいに目があいました。
その子はひどく驚いた表情でリノを見つめました。
あたりまえかもしれません、リノは声を出さず溺れるほど泣いていたのですから。
「おや!リノどうしたんだい?どこか痛いのか?おじちゃんがおウチまで送っていってあげようか?」
リノを前に呼んでくれた顔馴染みのおじさんは驚いて尋ねました。
リノは急いで涙を拭い取り微笑ました。
「ううん、大丈夫。さっき誰か知らない人に足を踏まれてしまって…もう痛くないの、びっくりしただけなの」
「そうかい、悪い奴だな。こんな可愛いお嬢ちゃんを踏むなんて。こんどそいつを見つけたらおじちゃんが懲らしめてやるからな」
そういうと顔馴染みのおじさんはリノの頭をぽんぽんと撫でました。
「ありがとう」
リノは実年齢より幼く見える少女です。
リノと同じ年頃の子供に頭を撫でたりする大人はあまりいません、子供達はそうされる事を嫌がりますし、それに「自分達は大人ではないけれど小さな子供でもないんだ」という独特の信号を無意識に発しているからです。
けれどもリノは小柄な体躯や幼い表情のせいか今だ小さな女の子であるように接せられます。
恐らくそれはある意味「擬態」なのではないかとリノは考えていました。赤ん坊が愛らしい様子で母親や大人に保護欲をそそらせるように、力のないリノは「まだまだ子供である」と大人達に思ってもらっていた方が都合がよかったのでしょう。
…既にこんな可愛らしさの欠片もない思考をしている私だけれども。
もちろん リノはそんな考えを口に出す事をしません。
大人達の前で居るリノも口に出さぬ思考の奥のリノもひどく引っ込み思案でありましたから。
…けれども、私はみんなが思っているよりも幼くはないわ。
涙を拭き腫れぼったくなった大きな両の目で足元よりも少し上を見つめ、リノは歩きだしました。
◆
チリン チリン
静かな草原に小さな、けれど耳に残る鈴の音が響きます。
肩にかかる亜麻色の髪をした少年がゆるやかな丘になっている草原を歩いています。
風の音
虫の声
チリン チリン
遮るもののない草原を覆う青空は果てしなく続いているように見えました。
育ての親を亡くした少年は小さな黄色い花を手に、ゆるやかな丘になっている草原を一人歩いて行きました。
真っ直ぐ前を向いて
唇をかたく結んで
静かな草原です。
けれど耳に残る鈴の音だけが常に
チリン チリン
と寂しげに響いていました。
リストムの葬式は速やかに行われました。
彼が息をひきとるのを一人で看取ったフォーは半時だけ黙って手を握っていましたが、ふいに顔をあげ村長の家へとむかいました。
その顔にはもう涙はありませんでした。
不吉とされている贄の子が来たことで村はひどくざわめきました。
石を投げられるような事はありませんが、母親が急いで子供を家にいれる姿や男達が小さな声で吐き捨てるような言葉を口にしているのを感じました。
村長はフォーを見ると露骨に嫌な顔をしました
そしてリストムの死を話すと苦渋に満ちた表情になり溜息をつきました。
…死を悼んでいる顔ではない。
ぼんやりとけれどそうフォーは確信しました。
…自分の処置に困っているんだ
…世話を押付ける後継人がいないから。
とにかく、といった調子で村長は2人の家に葬儀を行うだけの人でを集め簡易的な弔いの儀を行いました。
リストムの遺体は小屋から少し歩いた小高い丘の上に埋められました。
遺体を埋めた後は長老が弔い詩を唱える決まりです。
13年前の予言をした長老は既にこの世におらず、その長老の没後はリストムが最高齢でしたが今となっては異国から流れてきたという小さな老婆が長老という事になりました。
小さな老婆は真っ白な髪にすこしだけ赤毛が混じっていてしわしわの顔の中に小さな瞳が輝いておりました。
「辛いねぇ」
小さな瞳を少し潤ませながら、そう老婆はフォーに話しかけました。
葬儀の中、初めてフォーは人に声をかけられ少し驚きました。
老婆の声はかすれていて決して上手いものではありませんでしたが、彼女が以前住んでいたらしい異国独特の節回しで歌われ、
それはとても とても
純粋に人の死を悼んでいるのがわかりました。
そうして
フォーの永遠とも思える孤独が始まりました。
時間は瞬間の連続で 笑いかける相手がいない日々は一瞬ごとに笑顔を忘れていきました。
想う人がいなくなっても世界は過ぎていきます。
恐らく 自分がいなくなっても。
けれども孤独はフォーを殺してはくれません。
いくら精神を蝕んでも たとえ世界に意味を見出せなくても
ちっぽけな世界のちっぽけな村
風は草原を渡っていきます
空は苦しいほど蒼く高く
山に雲が薄くのびて
暗闇には白い月の光がとどき
百万の星が世界を見下ろしています
美しい世界です
「綺麗」
ぽそりとこぼれる言葉に 答えてくれる人がいたら
『うん』
その一言が
今どんなに願ったとしても
チリン チリン
身体を動かしていなくても
風が吹いていなくても
耳を手できつく塞いでも
チリン チリン
鈴の音がずっとずっと響いています
置いていかれる冷たい食事を
温めることすらどうでもよくなって
味もろくにわからないまま飲み下す日々がもう何日になるでしょう
…いつまで自分は生きなければいけないのだろう
小屋の壁に背をあずけ、床にぺたりと座り身体をまるめ顔を覆い
何度も何度も考えている疑問を飽きずに思考します
村長はフォーが10才になった位から二月にいっぺん程小屋に訪れフォーの背を測っていきました。
その様子をリストムが静かな怒りをはらんだ瞳で見ていた事を覚えています。
そして村長が帰ると決まって
『ゆっくり大人におなり、時間をかけて』
そう呟くのです
その言葉がどう作用したか。
はたまた、まったく関係はなかったのかもしれませんが
12才になるかならないかぐらいから、フォーの身体は成長をとめました。
子供は今が一番目に見えて大きくなる時期です
村長はいぶかしみ
リストムは、けれど率直に喜べないでいました
食事は普通にとっています
病気もしません
手足の大きさからすれば もっともっと成長するはずなのです
…未練なんてないのに
心の底からそんなふうに思ってしまう自分が悲しくなりました
本当に もう どうでもいいのに
チリン チリン
耳の奥では 今も鈴が鳴り止みません
ある日、リストムの墓に行こうと丘を歩いているといつも摘んでいく小さな黄色い花が閉じていました。
いつのまにか季節が移り花は種をつくる為の準備にはいったのです。
…もうそんな季節に
何をしていても何もしなくても時は過ぎます
何を感じても何も感じなくても時は動きます
風の匂いも変わっています
空の色も変わっています
フォーはぐるりと世界を仰ぎ
まるで独りだけ取り残されたような気分に沈みました
…明日は何か他の供える物を持ってこよう
少しだけ寒くなりはじめたこの時期、丘の上の墓はなんだかとても寂しげに見えました。
ですからフォーは一層そう思ったのでした
墓の前で跪き
そっと地面に触れ 声をかけます
…寂しい
風がゴワッと丘をかけていきました
…自分は花を捧げることすらできない
自分を責めるようにしか考えることができない
優しかった人に安らぎ眠ってもらうような言葉が出てこない
もう涙すら
ふいに、リストムの葬式で老婆が詠っていた歌がよみがえりました
死を悼み けれど祝福し いつかの再会を願う
あの歌
曲は覚えています
もちろん歌詞もすべて
フォーは自然と口をひらきました
歌うことなどほとんだとしたことがないのに
驚くほど自然に
完璧な発声で
それは「歌う」ことを宿命づけられていたかの如く
少年の小さな身体から発せられているとは
とても考えられないような
透き通る
天へとつき抜ける
どこまでもどこまでも響きわたり
隠し通してきた世界の真理をさらけだしてしまうように
気付けば泣いていた
本当はもっと早く壊れてしまってもおかしくなかった
本当はもっと早く壊れてしまいたかった
けれどフォーは壊れてしまえるほど弱い人間ではなかったので
延々と鈍く鋭い痛みを与えられ続ける拷問の日々に倒れることすらできないでいた
誰もいない風のとおる丘の上
絞めつけられるような
硝子細工のような
声
たった一人の人間から生まれるその旋律は
風にかき消されることもなく
気付く者は誰一人いないであろうが
密やかにけれども確かに
世界を震わせていた
それから毎日フォーはリストムに歌をおくりました。
生前、一度歌ったきりでしたがその時リストムはとても喜んでくれていたから。
フォーの歌は歌うたびに上達していきました。
俗世から一線を駕した
ある種戦慄すらおぼえる天上の歌声
そうして
歌声は掻き消えることなく
風にのり 村へと届いていたのです。
「神様の声が聴こえるよ」
はじめ、小川で遊んでいた子供達が言い出しました。
「幻聴じゃあない、精霊の歌声だ」
村外れに住む老人も証言しました。
「あの声が天使ではないのならなんだっていうの?」
糸を紡ぐ女達も口々に噂します。
その歌を聞くと、人々は視線を遠くになげ、深い暖かな闇をさ迷う感覚に陥ります。
その感覚は不快ではありませんでしたが何かとても大事なものを必死で探しているような
けれどそれを見つけるのが恐ろしいような不思議な気持ちになるのでした。
不思議な歌声が村に届くようになって一ヶ月。
山奥にあり旅人も滅多に訪れないちっぽけなこの村に、どういう導きがあってか巡業のサーカスが訪れました。
巡業サーカスは村人達に歓迎され、村にとって精一杯のもてなしをうけました。
そうしてご馳走を食べ、酒をふるまわれていた時例のあの歌 が聞こえてきました。
「…この歌声は?」
サーカスの団長は呆気にとられた表情で村人に尋ねます。
「ああ、これは山神の声ですよ」
村人は誇らしげにそう答えました。
「数ヶ月前に村外れに住んでいた賢者が亡くなられて、それから聞こえてくるようになったのです。私達が賢者を手厚く葬ったので神がお褒めくださっているんですよ」
「そうですか…」
団長は納得したように頷きましたが実はまったく信じてはいませんでした。
…この声の感じ、どこかで似たものを聞いた覚えがある。
巡業で、ちっぽけではありますが世界中沢山の場所を訪れた団長は色々な神がかった現象を目にしてきました。
…たしかとても神聖な侵し難い空気の
団長の頭はすばやく過去に訪れた土地を思い出しています、彼の本能が先ほどからしきりに興奮を伝えているのです。
数秒後、酒のグラスを手に宙を見上げていた団長がニヤリと冷たく嗤いました。
村長は困惑していました。
先刻、サーカスの団長が一人で訪れ話しをしていったのです。
団長は単刀直入に切出しました。
「歌を歌っているのは少年ですね?」
村長はこの突然の言葉の意味がまったくわかりませんでした。
「なんのことですか?」
「隠さないでくださいよ、それともその少年はこの村の現神かなんかですか?余所者の私等には見せられないんですかな?」
「…なんことだか」
少し苛立ちを表情に出し村長が再度答えると団長は下卑た笑いを口元に浮かべました。
「この村についた時どこからか歌声が聞こえたんだがね村人に聞いてもてんで要領を得い。
神様だとか妖精だとか…でも私は知ってるんですよ?ありゃ『奇跡の声』だ。そうでしょう?」
「奇跡…?」
「村ぐるみでないとなりゃ村長、あんたが隠してるんでしょう?何千人に一人かの確率で生まれてくる『奇跡の声の子供』。私がちらりと聞いたのは確か中心街にある恐ろしく戒律の厳しい教会だったかな都市部ではそういう声を持って生まれてきた子供はいっきに位の高い僧になっちまうんでなかなか庶民にまでその歌声を聞かせてくれることはないんだが、たまたま盛大な100年祭だったんでね。白い僧服を着たまだ小さな男の子が歌うのを聞いたよ。信じられない高音、魂持ってかれちまうような陶酔感。まさに『奇跡』 だ」
サーカスの団長は興奮を抑え切れないといった風情でしきりに手を動かしています。
けれども村長には団長が何故そんなにも興奮しているのかわかりません。
ましてや『奇跡の声の子供』を自分が隠しているなんて。
「あいにくと村にはそんな子供はおりませんが…」
「何をおっしゃる、現に声がするじゃありませんか?」
たしかに最近村には不思議な歌声がする。
決まって一日に一回、風にのるように微かな歌声が。
はじめの頃はなんだろうといぶかしんでいたが耳障りなものでもないのでとくに気にしないでいたのだ。
「では『奇跡の声』だかなんだか知りませんがきっとどこかで子供が歌ってるんでしょう」
そう特に考える風でもなく村長が答えると
「その子供に是非会いたいんです」
団長は今にも掴みかからんばかりに叫んだ
「な 何故です?いや探すのは結構ですが、その 少しばかりご熱心すぎやしませんか?」
団長の激しい形相に驚き村長は尋ねました。
「私は是非その子供を引取りたいんです。もちろん親御さんを説得します、その子に不自由な思いはさせませんし…礼金にいとめはつけません。この村にも少々寄付をさせていただいてもいい」
サーカスの団長は必死で緩む頬を引き締めようと努力しているようでしたが、それは失敗に終わりました。
唇を舐め、上ずった声を低く吐き出しておりましそれも無駄でした。
村長は大きく目を開き、なにかとんでもない事がおきる予感に恐怖しておりました。
チリン チリン
チリン
リ
ン
今日も墓の前で歌を歌います。
もちろん拍手も賛辞もありませんが誰かが聴いていてくれる気がするのです。
リストムのいる死の国にこの声が届いているのでしょうか?
この世界の「神様」にもこの声は聞こえているのでしょうか?
フォーにはそれがわかりません
尋ねる人がいません
そっと 墓の上に置かれた石に触れました。
日が出ている日中でも肌寒くなってきたこの頃、冷たくなってきた指先が小さく震えます。
骨張っていて皺の深いあの手は優しく温かでした
その人下に眠っているのにその石に温もりは感じられませんでした。
チリン
チリン
チリン
誰もいないことがわかっている小屋に帰るのはいつまでたっても苦痛です。
いっそリストムの眠る場所にずっといたいと考えるのですがその場所はあまりに村から離れているので戒めの鈴の音が届かないでしょう。
重い闇を抱え、それでも絶望にのまれずフォーは小屋に戻ります。
するといつもはまったくない「人の気配」が小屋から感じられたのです。
…また村長が背を測りに来たのだろうか
チリン
フォーは逃げることをしません。
けれどだからといって
立ち向かっているわけではないことをフォーが一番理解っているのでした。