第6幕 平和になった世界で――
静寂が、崩壊した魔王城の玉座の間を深く満たしていた。
先ほどまでの天地を揺るがすような魔力の激突も、空間を削り取るほどの禍々しい閃光も、今はもう跡形もない。倒れ伏した魔王ヴァルゼラムの体は光の粒子となってゆっくりと風に溶け、残されたのはただ静まり返った瓦礫の山と、大理石の床に力なく横たわる俺の小さな身体だけだった。
(……これで、終わりか……)
黄身と白身で構成された生身の身体は、魔王との激闘による摩擦と熱気、そして最後の一撃に込めた全魔力の反動により、ほとんど原型を留めていない。
『……アルツ』
脳裏に、静かな声が染み渡るように響く。
それは、これまでのポンコツめいた慌てぶりが嘘のように、慈愛と深い感謝が込められた、神聖な女神アストライアの声だった。
『あなたのおかげで、この世界は救われました……。本当に、よく頑張ってくれましたね』
(……感謝してくれるなら……もう少しマシな体に……召喚してほしかったけどな……)
心の中で軽口を叩こうとしたが、不思議と声に毒は籠もらなかった。
理不尽極まりない卵の肉体に、絶望的な賞味期限のカウントダウン。散々な目に遭った冒険だったが、どうにか魔王を倒し、世界に平和をもたらすことはできた。そんな達成感と、心地よい疲労感が胸を満たしていく。
『ふふっ……本当に、最後まであなたらしいですね』
アストライアは優しく微笑むような気配を漂わせる。
『約束通り、あなたには次の生で最大限の恩恵をお贈りします。……神として、そしてあなたをこのような姿で戦わせてしまった不甲斐ない者として、せめてもの償いです。……アルツ、次の人生で望むものはありますか?』
(望むもの、か……)
俺は薄れゆく意識の中で、短かった「卵」としての時間を振り返った。
誕生した瞬間から始まった賞味期限との戦い。破撃の魔法で魔物たちを蹴散らした爽快感と、殻を失ってからの泥臭い焦燥感。破片を乗り物にして必死に駆け抜けた道中。そして、己の全てを投げ打って掴み取った魔王との決着。
むちゃくちゃな冒険だった。理不尽ではあったが、紛れもなく全力で駆け抜けた人生だった。
(……そうだな。次は……平和な世界でのんびりと暮らしたい)
俺はふっと、心の中で苦笑した。
(時間に追われず、手足があって、美味しいものを食べて……ただ当たり前に笑って過ごせる、そんな普通の人生がいいな)
『……承知いたしました』
アストライアの声が、温かな涙を含んだように滲む。
『あなたの望むままに。……その素晴らしい魂に、祝福があらんことを』
その言葉を最後に、俺の視界は完全な暗闇へと包まれた。
全身を縛り付けていたかすかな感覚すら消え去り、生命力の最後の1滴が弾けて消える。こうして、賞味期限が尽き、勇者アルツはその生を終えたのだった。
◇
――あたたかい。
暗闇の中、あたたかな液体に包まれている感覚で目を覚ますアルツ。そこは母親の胎内だった。
(ここは……どこだ……?)
まだ生まれていないにもかかわらず、アルツはどこか懐かしい気配を感じる。
目を開けようとしても瞼は重く閉ざされたままだが、手足を動かそうとすると、小さな手足の存在を確かに感じる。それは短く頼りないけれど、紛れもない「人間の体」の感触だった。
(手も足もある……。それに、この安心感は……)
耳を澄ますと、トックン、トックンと規則正しく力強い鼓動の音が響いてくる。かすかに聴こえるのは、優しく柔らかい女性の歌声。どこか愛おしそうにお腹を撫でながら口ずさまれている子守唄だった。
本来であれば世界のことどころか意識があるのもおかしいのだが、アルツにはわかった。
皮膚を通して伝わってくる空気の匂い、満ちあふれる生命の気配、そしてどこまでも穏やかな世界の呼吸。
そこは、自分が命懸けで魔王を倒し、平和を取り戻した世界だと。
『そう、あなたが救った世界です。この地で今度は人として、ゆっくりと生を謳歌してください』
女神の最後の声が頭の中に響く。
(粋なことをしてくれるじゃないか。ありがとうよ、女神様……)
アルツは心の中でそっと感謝を告げた。
手足を少しだけ動かすと、お腹の外から「あら、元気に動いているわ」という温かい声と、それを愛おしそうに受ける父親の笑い声が伝わってきた。
もう、急ぐ必要はない。すり減る命の数字に怯える必要も、誰かと戦う必要もないのだ。
(平和になった世界、か……見て回るのが楽しみだ……な……)
アルツの意識は安堵とともに、新たな人生へ思いを馳せながら、ゆっくりと微睡の中にとけていった。




