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追放令嬢ジェルジの山あい行灯店 ――宵闇の村でもふ獣人と灯す、ぬくもりごはんと旅の夜――  作者: 乾為天女


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第5話 似合う彼

 翌朝、霧が薄くなるころには、宿の裏手に木を運ぶ音がしていた。


 ジェルジが戸を開けると、冷えた空気の中で、モフャが丸太を肩から下ろすところだった。朝の光はまだ白く、息はどちらも薄く見える。けれど彼の動きだけは、朝靄の中でも妙に輪郭がはっきりしていた。


 「そんなに早くから、何を」

 「作業小屋の場所を決める」

 「もう?」

 「もうだ」


 言い切ってから、モフャは地面へ視線を落とした。宿の脇、少し開けた土の場所に、すでに縄が張ってある。四隅へ細い杭まで打たれていた。


 ジェルジは目を瞬いた。

 「私、聞いていません」

 「昨日の帰りに決めた」

 「相談というものは」

 「だから今してる」


 真顔で返されて、言い返す言葉が少し遅れた。その間に、アリーが裏口から顔を出し、両手を腰へ当てる。


 「朝から始まってるねえ。で、話はまとまったのかい」

 「今、まとまらせようとしているところです」

 ジェルジが言うと、アリーは面白そうに肩を揺らした。

 「なら大丈夫。まとまる前に木を集める男と、まとまってなくても寸法を測る女なんだから」


 その言い方に、ジェルジは不本意ながら反論しにくかった。


 食堂で簡単に朝食を済ませたあと、三人で宿の裏へ回った。遅れてティットマンも来て、地図ではなく今度は板切れに寸法を書きつける役を引き受ける。ソフィーは少し離れた場所で薬草を干しながら、必要なときだけ声を挟んだ。


 「雨が吹き込まない向きがいいよ」

 「屋根の勾配は急すぎると雪が落ちるから気をつけな」


 そうやって皆の声を重ねるうちに、作業小屋の形は少しずつ固まっていった。宿の修繕道具を置ける棚。灯芯を巻くための卓。油を扱う場所は火から離す。濡れた木を仮置きできる軒下も欲しい。


 「工房であり、倉庫でもある、ですね」

 ジェルジが板の上へ線を引く。

 「それと、前掛けを掛ける場所」

 アリーがさらりと言った。

 「前掛け?」

 「木を削るなら、服を守る布が要るだろう」


 確かにその通りだった。だが、その言葉が数刻後にああいう騒ぎを呼ぶとは、そのときのジェルジはまだ知らない。


 昼前になるころ、村の縫い物上手な年配の女性が、古布を重ねた厚手の前掛けを持ってきてくれた。山仕事用だから頑丈で、腰紐も太い。受け取ったモフャは、品物をひっくり返して縫い目を確かめ、無言で頷く。


 「ありがとう」

 「礼は働いて返しな」

 「返す」


 それだけのやり取りなのに、相手は満足そうに帰っていった。


 さて、とアリーが口元を押さえる。

 「着けてみな」


 促され、モフャはためらいなく前掛けを首へ通した。腰の後ろへ手を回したものの、太い紐がうまく留まらない。木の皮を裂く手は器用でも、自分の背で結ぶ紐には少し手こずるらしい。


 「貸してください」

 ほとんど反射でジェルジが言っていた。


 背後へ回る。紐を受け取る。指先に布の厚みと、体温を含んだわずかな熱が伝わる。肩幅の広さが近い。作業着越しでも、背に入った力が分かる。


 「きついですか」

 「平気」

 「緩いと危ないので、少しだけ」

 「任せる」


 その一言が妙に近く残った。任せる。簡単な言葉なのに、結び目を作る指先が少しだけ鈍る。


 ようやく紐を整え、前へ回ると、裏庭の柵の向こうにいた村の娘たちが、なぜか揃って目を輝かせていた。


 「ほら見なよ」

 「似合う彼だねえ」

 「分かる」

 「ものすごく分かる」


 口々に飛んでくる声へ、モフャは首をかしげた。

 「似合う、は分かる。彼って何だ」


 ティットマンが板を持ったまま固まり、アリーはとうとう吹き出した。ジェルジは事情を説明するべきか迷ったが、その一瞬で娘たちの勢いが勝つ。


 「そういうことだよ」

 「どういうことですか」

 ジェルジが問うと、娘の一人がにやりとした。

 「見ていて、ああ、これは似合う、ってなる男のこと」

 「説明になっていません」

 「でも本当だもの」


 モフャはまだ分からない顔で前掛けの胸元を見下ろしていた。

 「作業着だろ」

 「作業着だからいいんだよ」

 アリーが追い打ちをかける。

 「変に飾ってないのに、ちゃんと板につく。そういうのを言うのさ」


 ますます分からない、という顔のまま、モフャは小さく鼻を鳴らした。

 「変なの」


 その言い方が真面目すぎて、とうとうジェルジまで笑ってしまった。笑いながらも、自分がさっき結んだ紐へ視線が行く。前掛けの布はよく似合っていた。冗談ではなく、本当に。木の粉を浴びるためにある厚い布が、そのまま彼の生活の一部みたいに見える。


 午後、作業は本格的に始まった。


 柱に使う木を選び、不要な節を落とし、組む位置へ運ぶ。モフャが墨を引き、切り、削る。木屑が足元へ溜まるたび、前掛けがちゃんと服を守っていた。時折、彼が片膝を立てて材へ体重をかけるたび、腰紐が少し動く。そのたびに、結んだのが自分だという事実を、ジェルジは意識しないわけにいかなかった。


 「ジェルジ」

 呼ばれて顔を上げる。

 「ここ、持って」


 材木の端を支えながら、彼女は尋ねた。

 「前掛け、邪魔ではありませんか」

 「むしろ楽」

 「それならよかったです」

 「紐もほどけない」


 そこで一拍おいてから、モフャが続ける。

 「結ぶの、うまいな」


 たったそれだけの言葉に、ジェルジの喉が軽く詰まった。何でもない評価だ。灯具の配線や油皿の調整を褒められたわけでもない。ただ紐を結んだ、そのことだけ。けれど、妙に耳へ残る。


 「……日常の結び目くらいは」

 どうにか返すと、モフャはそれで十分という顔をした。


 作業の合間、ティットマンが小屋の入口へ掛ける仮看板を木端で作ろうとして、また妙な形の獣を描いてしまい、皆の手が止まった。


 「それは何ですか」

 ジェルジが問う。

 「狼です」

 「どこが」

 「耳」


 板の上には、耳だけ立派で胴が湯飲みみたいな生き物がいた。アリーが膝を叩き、遠巻きに見ていた娘たちまで笑い転げる。モフャは仮看板を一瞥し、真顔で言った。


 「鍋に見える」


 ティットマンは肩を落としたが、次の瞬間には皆が声を出して笑っていた。からかわれているのに、昨日までのような沈んだ空気はない。笑いの中へ自分の失敗ごと混ざれるようになっている。


 夕方近く、ようやく柱が二本立った。まだ骨組みの入口にすぎないが、地面から垂直に伸びた木を見るだけで、ここに小屋ができるのだと分かる。


 ジェルジは少し離れて眺めた。宿の裏。壊れかけた納屋の陰。昨日までは、ただ風が抜けるだけの場所だった。そこへ今、手仕事のための場所が立ち上がろうとしている。


 「いいですね」

 彼女が言うと、アリーが頷いた。

 「いいねえ。形になるってのは、気が立つ」


 ソフィーが干しかごを抱えながら寄ってくる。

 「手を洗っておいで。木の粉だらけで鍋へ寄ると叱るよ」

 「叱られる前に行きます」


 水場で手を洗っていると、隣へモフャが来た。前掛けの表は木屑で白くなっている。彼は胸元を軽く払ってから、水をすくった。


 「その前掛け」

 ジェルジはなるべく普通の声で言った。

 「似合っています」


 モフャは少しだけ手を止めた。

 「そうか」

 「はい」

 「さっきの『彼』は、まだ分からない」


 思わず笑ってしまう。

 「分からなくていいと思います」

 「そういうものか」

 「そういうものです」


 返すと、彼は納得したのかしていないのか分からない顔で水気を切った。それから、ほんの少しだけ視線を逸らして言う。


 「でも、あんたが結んだ紐は、ほどけにくい」


 夕方の冷えた水より、その一言のほうがずっと手元を熱くした。


 食堂へ戻るころには、娘たちの冷やかしはさらに広がっていた。


 「明日も前掛けだよね」

 「洗い替え、縫おうか」

 「色を変えても似合いそう」


 モフャは本気で困った顔をし、ジェルジは湯飲みを置く手元へ意識を逃がした。アリーは面白がり、ティットマンは鍋の湯気の向こうでこっそり笑っている。


 けれど、その騒がしさは不思議と嫌ではなかった。誰か一人を笑いものにするのではなく、今日一日うまく働いたことへの弾みみたいな笑いだった。


 夜、帳面を開いたジェルジは、作業小屋の寸法と必要な材の数を書き込んだ。棚板四枚、柱あと二本、油置き場の区切り、雨除けの庇。ページの端には、小さくこう添える。


 ――前掛け、山仕事用。布厚く、木工に適す。使用者の動きを妨げず。


 そこで一度、ペン先が止まる。


 実用を書く帳面だ。そこへ余計なことを書く必要はない。必要はないのに、頭の中には午後の光景が残っていた。木を削る手。胸元に散る木屑。自分が結んだ紐。水場で聞いた、ほどけにくい、という短い言葉。


 ジェルジは息をつき、結局その下へ一行だけ足した。


 ――よく働く人には、丈夫な布がよく似合う。


 書いてから、誰に見せるでもないのに、少しだけ照れくさくなる。帳面を閉じ、灯りを見つめる。火は小さい。しかし、昼から今までの時間を思い返すには十分だった。


 宿の裏に小屋が立つ。

 そこからまた新しい灯りや道具が生まれる。

 そして、その木屑まみれの真ん中に、前掛けのよく似合う男が立っている。


 そんな明日の形が見える夜は、胸のどこかが少し静かだった。



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