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追放令嬢ジェルジの山あい行灯店 ――宵闇の村でもふ獣人と灯す、ぬくもりごはんと旅の夜――  作者: 乾為天女


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第4話 宵霧に消えない灯り

 案内板を立てた翌日、谷の空は朝から白かった。


 雪ではない。雲でもない。山の中腹から下へ、薄い乳色のものがゆっくり流れ落ちてきて、家々の屋根のあいだを這っている。昼前だというのに、遠くの柵は輪郭が曖昧で、三軒先の煙突が少し滲んで見えた。


 ジェルジは戸口へ出て、腕を伸ばした。指先がひやりと湿る。


 「これが宵霧……」


 昨夜も見たが、明るいうちに眺めると気味の悪さがよく分かった。風に流されるというより、谷そのものがゆっくり白くなる。地面から湧いてくるようでもあり、沢沿いへ溜まっていくようでもある。


 背後で荷を動かす音がした。振り向くと、モフャが古い行灯を二つ抱えて食堂へ入ってくるところだった。耳の先に細かな木屑が乗っている。


 「朝から拾ってきたんですか」

 「壊れてても枠は使える」

 「拾うのが趣味なんですか」

 「捨てるのが嫌い」


 短いやりとりのあと、モフャは行灯を卓の上へ置いた。その一つは煤で真っ黒になっていたが、骨組みだけはまだしっかりしている。もう一つは紙が破れ、底皿が歪んでいた。


 ジェルジは思わず近寄った。

 「これ、底を打ち直せば使えます」

 「だと思った」


 最初からその返事を期待していた顔だったので、少しだけ悔しい。


 「でも、今朝は修理だけじゃ足りませんね」

 「分かってる」

 「分かってる顔には見えません」

 「霧のことなら」


 モフャは戸口の外を顎で示した。

 「今日は浅い。夜はもっと濃くなる。沢の音が近い日は特に」


 言いながら、彼は破れた紙を剥がし、骨組みの継ぎ目を確かめる。手つきが無駄なく、壊れかけの物に触るときだけ妙に丁寧だった。


 「昨夜、案内板を見て寄ってきた人は?」

 ジェルジが聞く。

 「昼に一人、塩を売る行商が見に来た。夜道は嫌だって戻った」

 「やっぱり」

 「灯りが弱いと、この辺は近いようで遠い」


 その言葉は、宿のいちばん痛いところを突いていた。板で道を示せても、夜そのものを越えられなければ、宿へ人は来ない。食堂に明かりが戻り、地図ができても、それだけではまだ足りない。


 ジェルジは卓に置かれた古行灯へ手を伸ばした。紙の縁をなぞり、油皿の深さを見て、芯孔の大きさを指で測る。


 「普通の芯では揺らぎます」

 「だろうな」

 「だろうな、で済ませないでください」


 モフャは少しだけ尾を揺らした。笑ったのかもしれない。


 ちょうどそのとき、アリーが裏口から入ってきた。肩に野菜籠、片手に帳面を抱えている。

 「おはよう。ああ、今日はもう白いねぇ」

 「夜はもっと濃くなるそうです」

 ジェルジが答える。

 「なるよ。だから皆、夕方を過ぎると余計な行き来をしない。前に一度、隣村の親子が道を外してね。朝まで沢の石陰にうずくまってた」


 さらりと言ったが、重い話だった。


 アリーは籠を置くと、卓上の行灯を見た。

 「新しいの作るの?」

 「作るというか、今あるものを生かして、霧でも火が安定するように」

 「それができれば、宿は変わるね」

 「やってみます」


 アリーは頷いたものの、すぐ現実的な顔になる。

 「ただ、油は無駄遣いできないよ。今ある分じゃ、豪勢に試すとあっという間に底が見える」

 「分かっています。だから芯の側を工夫します」


 言いながら、ジェルジの視線は自然とモフャへ向かった。彼の上着の袖口に、灰色がかった短い毛がついている。昨夜、屋根裏から獣毛の束を運び込んでいたのを思い出した。


 「そういえば、この前の寝具用の毛、まだありますか」

 「ある」

 「種類は」

 「山羊、狼、雪兎、混ぜもの少し」

 「ずいぶん色々」

 「冬越しの端材」


 ジェルジは一瞬考え込む。普通の木綿芯は油を吸いやすいが、霧の夜は火の先が湿気に負けやすい。なら、外側へ油の上がりやすい繊維、内側へ燃え持ちのよい繊維を寄せるか、あるいは逆か。獣毛はそのままでは焦げ臭くなりやすいが、混ぜ方によっては炎の形を保てるかもしれない。


 「試してもいいですか」

 「いいけど、臭くなるぞ」

 「臭くならない混ぜ方を探します」

 「言い切るなあ」

 アリーが笑った。

 「そういう言い方、少し元気が戻ったね」


 言われて初めて、自分の声に張りが出ていたことに気づく。王都を追われた日から、何かを“やってみます”ではなく“できます”と言えたのは久しぶりだった。


 午前中いっぱい、食堂はまた作業場になった。


 ジェルジは毛の束を細かく分け、長さと油の吸い方を比べる。山羊毛は柔らかいが油を抱えすぎる。雪兎の毛は細くて火が立ちやすい反面、燃え尽きも早い。狼毛は弾力があり、形が崩れにくいが、そのぶん捻り方が難しい。


 モフャは卓の向かいで、黙々と小刀を動かしていた。古い行灯の芯孔をほんの少し削って広げたり、底皿の歪みを槌で戻したりするたび、金属が小さく鳴る。


 「狼毛、もう少し細く裂けますか」

 「やる」

 「雪兎は触らないでください。散ります」

 「分かった」

 「山羊毛は先に灰を払って」

 「分かった」


 口数は少ないのに、頼むときちんと動く。そのたび、食堂の空気が少しずつ整っていく。


 何度目かの試作で、ジェルジは細い芯を巻き上げた。中心に狼毛、外へ木綿、その上へ少量の雪兎をかませる。油皿へ落として火を入れると、最初はふつうに燃えた。だが、戸を開けて霧を少し入れると、炎がひどく痩せた。


 「駄目ですね」

 「見たままだな」

 「見たままを言わないでください」


 また尾が揺れる。やはり笑っているらしい。


 次は逆にした。中心に木綿、外へ狼毛を寄せ、先端だけ雪兎の細毛を混ぜる。すると炎は先ほどより太くなったが、先が大きく割れて煤が増えた。


 「惜しい」

 ジェルジが呟く。

 「どこが」

 「火は消えにくいです。ただ、これでは紙が黒くなる」


 アリーが鍋をかき回しながら言った。

 「旅人が真っ黒な顔で飯を食べる宿は、ちょっと嫌だね」

 「私も嫌です」

 ジェルジは即答した。


 昼を過ぎ、台所からは豆と根菜を煮る匂いが満ちてきた。窓の外は相変わらず白く、陽が高いはずなのに陰影が薄い。ティットマンも顔を出し、新しい地図の写しを届けながら試作品を覗き込んだ。


 「火って、こんなに違うんだ」

 「違います。見え方も、安心する感じも」

 「安心」

 「夜道で頼るなら、そこが大事です」


 ティットマンは頷き、ふと思いついたように言った。

 「沢沿いの石場、霧が濃い夜でも少し明るく見える場所があります」

 「明るく?」

 「月のある夜だけかもしれないけど……青っぽく」

 「沢沿いのどこですか」

 「古地図の、この折れた道の先」


 卓上の写しへ細い指が落ちた。昨日見た古地図の印と重なる場所だった。


 ジェルジは地図と行灯を見比べる。霧でも消えにくい灯りを作る。その試し場として、沢沿いほど適した場所はない。危なく、湿り、火が負けやすい。その条件を越えられれば、宿の夜道に使える。


 「今夜、見に行きます」

 言うと、アリーがすぐ顔を上げた。

 「一人では駄目」

 「分かっています」

 「三人でも駄目な日はある」

 「今日は」

 「今日は……浅い霧のままなら、沢の手前まで」


 判断は早かった。アリーは無茶を止めるときは止めるが、必要と見れば止めきらない。その代わり、条件を細かくつける。


 「モフャ、あんた行くんだろう」

 「行く」

 「ティットマンは」

 「沢の折れ道までは案内できます」

 「そこまで。奥は駄目だよ」

 「うん」


 話が決まると、ジェルジの胸は少し高鳴った。不安ではなく、試しに出る前の緊張だった。王都で灯具の改良をするとき、火を入れる直前に覚えていた感覚に似ている。


 昼食のあと、さらに二度試作を重ねた。


 五つ目でようやく、炎の形が安定した。芯の中心は木綿、外側へ薄く裂いた狼毛、先端にほんの少しだけ雪兎を混ぜる。巻きはきつすぎず、芯孔は半節広く。油皿の縁をほんのわずか高くして風を切る。火を入れると、炎は低く、しかし芯がある。戸を開け、湿った外気をあてても、先ほどまでのようにすぐ痩せない。


 ジェルジは身を乗り出した。

 「これです」

 モフャが横から覗く。

 「まだ分からない」

 「分かります」

 「外へ持っていってから言え」

 「それは、そうですけど」


 認めたくないが、その通りだった。室内で耐える火と、夜道で耐える火は違う。


 夕方前、ソフィーが薬草籠を抱えてやって来た。事情を聞くと、ジェルジの手元の芯をしばらく眺め、それから小さな袋を差し出す。

 「乾いた薄荷を少し混ぜると、獣毛の焦げる匂いが和らぐことがあるよ」

 「芯にですか」

 「ほんの少し、油皿の縁へ。入れすぎると逆にむせる」


 ジェルジは目を丸くした。

 「そんな使い方が」

 「眠れない夜の薬草茶だけじゃないさ。匂いも人を落ち着かせるからね」


 ソフィーの言葉には、いつも急かしがない。けれど、必要な一歩だけはきちんと渡してくれる。


 試しに薄荷を砕いて油皿の縁へほんの少し置くと、火の熱で淡く香りが立った。獣毛の焦げの尖りが薄れ、冷えた空気にすっと通る匂いになる。


 「いい」

 ジェルジは小さく言った。

 「夜道でこれなら、息が楽です」

 ソフィーは満足そうに頷いた。

 「怖いとき、人は息が浅くなるからね」


 そうして、夜を待った。


 日暮れが近づくにつれて、谷の白さは深くなった。屋根の線が薄れ、柵の影が溶け、沢の音だけが近くなる。宿の表へ出ると、案内板の字も少し離れただけで柔らかくぼやけた。


 ジェルジは試作品の行灯を両手で持つ。紙は新しく張り直し、枠は古いまま。中では改良した芯が小さく燃えていた。派手ではない。けれど、見つめると不思議に目が落ち着く火だった。


 「行きます」

 言うと、アリーが厚手の肩掛けを押しつけてきた。

 「帰ってくるまでが試作だよ」

 「はい」

 「沢に近づきすぎたら蹴るからね」

 「はい」

 「私が?」

 とティットマンが小さく驚く。

 「蹴るのはモフャ」

 「分かった」

 モフャは本当に分かった顔で答えた。


 四人で宿を出た。


 先頭はティットマン、その後ろにジェルジ、左右へアリーとモフャがつく。ほんの少しの距離なのに、宿の灯りを離れると世界の輪郭が変わる。足元の土は湿り、草の先へ白い滴が溜まり、鈴の柵は二本先から見えづらくなった。


 ジェルジは行灯を胸の高さで持ち上げた。火は低く安定し、紙越しの明かりが地面を柔らかく照らす。松明ほど遠くは届かないが、白い霧に食われにくい。光が壁のように散らばらず、道の面を静かに拾う。


 「……消えない」

 思わず漏らすと、モフャが横で答えた。

 「まだな」

 「まだ、で十分です」


 ティットマンが振り返る。

 「いつもの灯りより、道の石が見えます」

 「光の色が少し暖かいからでしょうか」

 ジェルジは紙越しの明かりを見つめた。

 「白すぎる火は、霧の中で散りやすいことがあります」


 谷道を下り、沢へ近づくにつれ、霧はさらに濃くなった。息を吐くたび、自分の呼気まで白に混ざる。沢音が右から聞こえるのに、水面そのものは見えない。ティットマンが立ち止まり、足元を示した。


 「ここから先、石が多いです」

 「なら、ここで十分」

 アリーが言う。

 「試すなら、この辺まで」


 ジェルジは頷き、行灯を低く構え直した。火はまだ生きている。紙の内側へ薄く薄荷の香りが満ち、冷えた鼻の奥を少し楽にした。


 そのとき、モフャがすっと手を伸ばした。

 「足元」


 言われるより早く、ジェルジの靴先が濡れた石へ乗る。滑る、と思った瞬間、腕が引かれた。大きな手が肘を支え、体が斜めに戻る。行灯は揺れたが、火は消えない。


 「……すみません」

 「謝る前に立て」

 低い声が近い。霧の中で、その声だけが妙にはっきりした。


 ジェルジは立て直しながら、支えられた腕に残る熱を意識してしまった。厚手の上着越しなのに、指の位置が分かる気がする。


 「消えませんでした」

 彼女は火を見て言った。

 「まずそこを見るんだな」

 モフャの声に、かすかな呆れが混じる。

 「大事でしょう」

 「大事だけど、自分も見ろ」

 「……はい」


 素直に返したせいか、モフャはそれ以上何も言わなかった。ただ、肘から手が離れるまでの一瞬が、少し長かった。


 ティットマンは気づかないふりをして地図を握り直し、アリーは口元だけで笑ったようだったが、霧が濃くてよく分からない。


 沢沿いの石場へ目を凝らすと、白の奥に淡い色があった。


 「ジェルジ」

 ティットマンが小声で呼ぶ。

 「あれ」


 行灯を少し上げる。沢の岸辺、半ば土へ埋もれた石が、火を受けてわずかに青を返した。昼間に見る石の色ではない。乳白の中に、淡青が冷たく沈んでいる。ひとつだけではない。いくつか散っている。


 ジェルジは息を呑んだ。

 「本当に……」


 モフャが石場を見たまま言う。

 「昔、道標に使ったって話は聞いたことがある。けど、光るって言うほどじゃないと思ってた」

 「自分から光っているわけではありません」

 ジェルジは慎重に言葉を選ぶ。

 「たぶん、灯りを返しているんです。石の質が、普通の岩と違う」


 しゃがみ込みたかったが、アリーが先に止めた。

 「触るのは昼」

 「分かっています」

 「今は見るだけ」

 「はい」


 見えるだけでも十分だった。夜道のために置かれた石。霧でも見失いにくい、青を返す石。灯りと組み合わせれば、この村の夜道はもっと安全にできるかもしれない。


 頭の中で線が走る。案内板、地図、行灯、石。ばらばらだったものが、夜道という一本の問題へ向けて繋がり始める。


 そのとき、沢の向こうで何かが鳴いた。甲高く、短い獣の声。ティットマンが肩を跳ねさせる。


 「戻ろう」

 モフャが即座に言った。

 異論を挟む者はいない。十分だった。火は消えず、石は見えた。これ以上は欲張りになる。


 帰り道、霧は行きより少し深くなっていた。けれど、ジェルジの足取りは不思議なくらい落ち着いていた。手の中の行灯が頼もしい。灯りがあるからではない。自分の手で工夫した火が、この白さの中でも通じると分かったからだ。


 「すごいね」

 アリーがぽつりと言う。

 「これなら、お年寄りでも門から門くらいは歩けるかもしれない」

 「宿までの導線に置けます」

 ジェルジはすぐ答えた。

 「持ち運び用と、据え置き用を分けて。紙も替えたほうがいい。もう少し湿気に強いものが要るかもしれません」

 「もう次を考えてる」

 「考えます。今のうちに」


 前を歩くティットマンが振り向いた。

 「古地図の印の場所、明日、昼にちゃんと見に行きましょうか」

 「お願いできますか」

 「できます」


 その返事に、ジェルジは少し笑う。自分が言われて嬉しかった言葉を、いま別の人から受け取る番になっている気がした。


 宿の明かりが見えたとき、胸の奥がふっとほどけた。ほんの短い試し歩きだったのに、帰る場所の灯りがあるというだけで、人はこんなにも安心するのかと思う。


 戸口へ着くなり、アリーが言った。

 「さあ、冷える前に入る。報告は鍋の前で」

 「賛成」

 ジェルジは答えた。


 食堂へ戻ると、熱が頬へ戻ってきた。鍋の蓋を開けると湯気が立ち、薄荷とは違う、根菜の甘い匂いがする。ジェルジは行灯を卓上へ置いた。火はまだ静かに燃えていた。


 アリーがその火を見つめる。

 「名をつけたいくらいだね」

 「名」

 「売る物には、呼び名があったほうが覚えてもらえる」

 「では……宵霧灯」

 ティットマンが小さく言った。

 皆が見ると、彼は少し肩をすくめた。

 「その、霧の夜でも見えるから」

 「いいですね」

 ジェルジはすぐ頷いた。

 「宵霧灯。分かりやすいです」


 モフャが椅子へ腰を下ろしながら、低く繰り返す。

 「宵霧灯」

 その響きを口の中で確かめるような言い方だった。


 食事のあと、ジェルジは一人で行灯のそばに残った。皆が帰り、台所の音も静まると、紙越しの火だけが小さく揺れている。


 灯りは消えていない。霧の中でも、沢のそばでも、生きていた。


 王都で欲しかったのは、称賛だったのだろうか。いいえ、とジェルジは自分の胸へ答える。たぶん違う。欲しかったのは、自分の手で作ったものが、ちゃんと誰かを守ると分かる瞬間だった。


 今夜は、その一歩を確かに踏んだ。


 行灯へ油を少し足そうとして、ふと窓の外を見る。霧の向こう、宿の脇の柵あたりに、まだ人影があった。背の高さで分かる。モフャだった。


 帰ったのではなかったのかと思い、ジェルジは戸を開けた。

 「どうしたんですか」


 白い気配の中で、モフャが振り向く。

 「戸口の見え方を見てた」

 「試作品の?」

 「そう」


 彼は宿から洩れる灯りと、手元の小さな宵霧灯を見比べていたらしい。霧に馴染んだ目が、じっと道の線を測っている。


 「どう見えますか」

 ジェルジが隣へ立つと、モフャは少し考えてから答えた。

 「怖くない」

 「……え」

 「前の灯りは、遠くからだと時々消えたみたいに見えた。これは消えそうに見えない」


 それは、職人として何より欲しかった言葉かもしれなかった。明るい、綺麗だ、珍しいではなく、怖くない。夜道を歩く者が本当に必要とするのは、たぶんそこだ。


 ジェルジは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 「ありがとうございます」

 「礼を言われることじゃない」

 「でも、いちばん聞きたかった感想です」


 モフャは何か言いかけて、やめた。霧の中、耳が少しだけ後ろへ傾く。


 「……昔」

 やがて彼は低く続けた。

 「吹雪の夜に、道を外しかけたことがある。小さかったから、もう駄目だと思った。そのとき、行灯の灯りが見えた」


 ジェルジは黙って聞いた。


 「だから、捨てられた古い行灯を見ると持ち帰る。役に立たなくなったんじゃなくて、役に立ったことがある形だから」


 それだけ言うと、モフャは自分で少し困ったような顔をした。人へ昔話をするのに慣れていないのだろう。


 ジェルジは白い息を吐いたあと、静かに言う。

 「それなら、なおさら直さないといけませんね」

 「そうだな」

 「拾ってきて正解でした」

 「だろ」


 やっと少しだけ、対等に笑えた気がした。


 霧は濃いままだったが、宿の灯りと手元の宵霧灯が、道の境目をちゃんと残している。モフャはしばらくそれを見てから、ふいにジェルジの歩幅に合わせて一歩動いた。


 帰るわけでも、進むわけでもない。戸口の前の短い距離を、ただ並んで確かめるように。


 その沈黙が、不思議と居心地悪くなかった。


 「明日、昼に石場を見に行きましょう」

 ジェルジが言う。

 「行く」

 「また沢で滑りそうになったら」

 「引っ張る」

 「言い方」

 「本当だろ」

 「……そうですけど」


 返しながら、ジェルジは少しだけ笑った。霧の夜に誰かが歩幅を合わせてくれる、それだけのことが、思ったより心強い。


 寝る前、彼女は帳面を開いて試作の条件を書き留めた。芯の配合、油皿の深さ、薄荷の量、紙の張り。最後に、感想の欄へ短く記す。


 ――霧中にて、火安定。沢沿いでも消えず。同行者曰く「怖くない」。


 そこまで書いて、ペンが止まった。


 王都を追われてから、夜はいつも長かった。横になっても頭だけが冴え、耳の奥で誰かの断罪の声が何度も反響した。けれど今夜は、火の形を思い出すたび、胸のざわつきより先に手応えが来る。


 自分の作った灯りが、霧の中でちゃんと役に立った。


 その事実は、寝台へ入ったあとも毛布の中に小さな熱を残した。窓の外では白い気配がまだ谷を満たしている。それでも昨夜までの白さとは違った。向こう側に行ける白さだった。


 ジェルジは目を閉じる。沢の近くで青を返した石、紙越しの火、戸口の前で聞いた「怖くない」という声。そのどれもが、夜の底へ沈まず、やわらかな灯芯のように胸のどこかで燃え続けていた。


 今夜も完全に不安が消えるわけではない。王都で失ったものが急に戻るわけでもない。けれど、壊れた宿の中で一つずつ直してきたものの先に、確かに次の道が見え始めている。


 道を描ける者がいる。

 鍋を温める者がいる。

 薬草の知恵を貸す者がいる。

 そして、霧の夜に歩幅を合わせる者がいる。


 ならば、この村で作る灯りは、ただ夜を照らすだけでは終わらないのかもしれない。


 そんなことを考えながら、ジェルジは毛布の端を指でつまんだ。ふと、昨夜より息が深いことに気づく。


 眠りはまだ遠い。けれど、届かない場所ではなかった。


 その夜、行灯の火が小さくなっても、ジェルジは起き上がらなかった。消える前に足せる油の量も、明日の作業も、もう頭の中で整っている。


 宵霧に消えない灯りがある。


 そう思えたことが、眠りの入口を静かに開けてくれた。



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