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追放令嬢ジェルジの山あい行灯店 ――宵闇の村でもふ獣人と灯す、ぬくもりごはんと旅の夜――  作者: 乾為天女


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3/10

第3話 絵が下手でも、道は描ける

 翌朝、宿の裏手で木を打つ音がした。


 まだ霧の名残が薄く残る時間だった。ジェルジは二階の窓を少しだけ開け、冷たい空気を吸い込んだ。昨夜は、途中で何度か目が覚めた。それでも、まったく眠れなかった初夜とは違う。胸の奥に重い石を抱えたままではあったが、朝が来たと分かったとき、ほんの少しだけ体が軽かった。


 下へ降りると、食堂の卓に小さな包みが置いてあった。戸の隙間から差し込まれていたらしい。中身は、まだ温もりの残る丸パンが二つ。紙切れも何もない。だが、隣の窓から見える裏庭では、モフャが脚立に乗って北側の屋根を見ていた。


 礼を言うと面倒な顔をされそうで、ジェルジは何も言わずに竈へ火を入れた。パンを軽くあぶり、昨夜の豆を温め直す。こうして朝の支度をしていると、この宿に必要なのは大きな奇跡ではなく、小さな手の数なのだと分かる。


 しばらくして、裏口が開いた。


 「豆、残ってる?」


 アリーだった。今日は大鍋を本当に持ってきている。片腕で抱えているのに、重さなど感じさせない顔をしていた。続いて、戸口の向こうから長い棒のようなものがぬっと入ってきた。いや、棒ではない。巻いた紙を何本も束ねて抱えた男だった。


 痩せぎすで、背は高い。髪は寝ぐせのまま片方へはね、着ている上着の袖口には墨らしい黒い染みがいくつもついている。目が合った途端、男はぴたりと足を止めた。


 「……あ」

 「何ですか、その第一声」

 「いや、その」


 男は束ねた紙を抱え直した。


 「新しい人だと思って」

 「新しい人です」

 「本当にいた」

 「幽霊だと思っていたんですか」

 「宿に煙が出てたから、てっきりアリーがまた勝手に鍋をかけてるのかと」

 「またって何だい」


 アリーが即座に睨む。


 男は首をすくめた。

 「ティットマンです」


 それだけ言って、彼は紙束を胸へぎゅっと抱いた。名乗ったのに、なぜか逃げ腰だ。


 アリーが呆れたように肩をすくめる。

 「この子、道だけは頭に入ってるんだけどね。それ以外はだいたい変」

 「それは説明として雑じゃないですか」

 「雑でだいたい合ってる」


 ティットマンは反論しかけ、やめた。その様子だけで、このやりとりが日常なのだと分かる。


 朝食のあと、モフャが屋根の応急修理を終えて中へ入ってきた。肩へ木屑が乗っている。ジェルジは卓へ茶を置いた。


 「北側は、今日の風なら持つ」

 「今日の、ということは」

 「次の雨までに本格的に直す」


 言いながら、モフャは食堂を見回した。昨日より卓が拭かれ、器が揃い、行灯の火も安定している。その変化をちゃんと見ている顔だった。


 アリーは鍋を火へかけると、卓の上を指で叩いた。

 「それで今日の本題。宿を開けるなら、道案内が要る」


 ジェルジは頷いた。

 「確かに。昨日も『ここ、もう食べられるの』と聞かれました。宿の入口も分かりにくいし、何を出す場所なのかも伝わっていません」

 「だろうね。昔の看板は割れてるし」

 「新しい板なら作れる」

 モフャが言う。

 「字は彫るとして、絵は?」


 その一言で、アリーとモフャの視線が同時にティットマンへ向いた。


 ティットマンは目をそらした。

 「え、僕?」

 「おまえ、前も看板頼まれてただろ」

 アリーが言う。

 「そのときは誤解があっただけで」

 「鍋を描いたら、なぜか怒った猪みたいになった」

 「湯気を勢いよく描いただけです」

 「鳥を描いたら、羽の生えた根菜だった」

 「角度の問題です」


 真顔で返すので、ジェルジは思わず吹き出しそうになった。


 「では、見せてください」


 言うと、ティットマンは嫌そうな顔をしたが、逃げられないと悟ったらしい。持ってきた紙束の中から一枚を取り出した。炭で描かれた下絵だった。


 ジェルジは受け取り、見た。


 しばらく無言になった。


 鍋らしき丸いものが中央にあり、その上から何かが飛び出している。湯気なのか獣耳なのか判別がつかない。脇に描かれた宿らしき建物は、なぜか片方へ大きく傾き、窓は怒った目のように見えた。さらに隅には、小さな行灯のつもりらしい物体があるのだが、脚が四本ついていて、虫にも見える。


 「……これは」

 「宿です」

 「どこが」

 アリーが即答した。


 モフャが紙をのぞき込み、率直に言った。

 「夜道で見たら避ける」

 「そんなに?」

 「そんなにだよ」


 アリーはとうとう腹を抱えて笑い出した。つられてジェルジも肩を震わせる。ティットマンは耳まで赤くなり、紙を取り返そうとした。


 「やっぱり駄目です。字だけにしましょう」

 「待って」


 ジェルジは笑いをこらえながら紙を押さえた。


 「絵が駄目なら、別のものにすればいいんです」

 「別のもの?」

 「地図です」


 ティットマンが瞬いた。


 「地図?」

 「あなた、道が頭に入っているんでしょう」

 「入ってますけど」

 「なら、宿までの道、水場、危ない崖道、夜に避ける場所、そういうものを描いてください」


 ティットマンはすぐには返事をしなかった。紙束を抱く指先に力が入る。期待されることに慣れていない人間の顔だった。


 モフャが横から口を挟む。

 「それは役に立つ」

 アリーも頷いた。

 「役に立つどころじゃないね。旅人にも、村の年寄りにもいる」


 ティットマンはまだ半信半疑のようだったが、やがて紙束の中から別の紙を抜いた。


 それを卓に広げた瞬間、空気が変わった。


 山の稜線。沢の流れ。獣道と人の通る道の分かれ目。どこに霧が溜まりやすく、どこが風を避けられるかまで、線の太さや記号の置き方だけで読み取れる。絵というより、地面そのものを薄く剥いで紙へ貼りつけたような正確さだった。


 ジェルジは思わず身を乗り出した。

 「すごい」


 ティットマンが目を上げる。


 「本当に?」

 「本当にです。ここまで見やすい地図、王都の役所でもなかなかありません」


 嘘ではなかった。王都の地図は大きく美しいが、実際に足を運ぶ者の目線で描かれていないことが多い。だが、この紙には、濡れた石に足を取られる位置まで想像できる生々しさがあった。


 モフャが指先で沢沿いの線をなぞる。

 「この迂回路まで入れてるのか」

 「雪のあとだけ使える道だから、小さくしてあります」


 途端にティットマンの声が少しだけ滑らかになった。知っている話になると、言葉が出るらしい。


 「こっちは春先に土がゆるむので、荷馬車は通さないほうがいいです。逆に、この尾根筋は風は強いけど足元が乾きやすい。夜に歩くなら、沢よりこっち」


 アリーが感心したように鼻を鳴らした。

 「その頭の良さを、どうして鍋の絵に使えないんだろうね」

 「鍋は動かないからです」

 「道も動かないだろ」

 「動かなくても、様子があるんです」


 理屈になっているようで、なっていない。


 だが、ジェルジには少し分かった。ティットマンは物の形より、場所の関係を見ているのだ。だから顔や鍋は崩れるが、道のつながりは外さない。


 「これを宿の案内板にしましょう」

 ジェルジは言った。

 「宿の場所を赤く、湧水を青く、危ない道には印を。夜に歩く人のために、行灯を置いてある場所も記しましょう」


 モフャがすぐ反応する。

 「行灯の位置は、俺が見て回る」

 「帳場に置く小さい写しも作れる?」とアリー。

 「できます」とティットマン。


 話は一気に進み始めた。


 その日の昼から、食堂は半分が作業場になった。モフャが薄い板を削り、アリーが紙の寸法を決め、ジェルジは色をどう分けるか帳面へ書きつける。ティットマンは最初こそおどおどしていたが、地図の線を引くときだけ別人のように集中した。


 昼過ぎ、近所の子どもがまた食堂をのぞきに来た。昨日の兄妹だった。


 「今日は何してるの」

 妹のほうが聞く。


 ティットマンは慌てて紙を隠そうとしたが、ジェルジが止めた。

 「見せてもいいですか」

 「え」

 「人が見て分かるかどうか、確かめたいので」


 ティットマンはしばらく口をぱくぱくさせたが、やがて観念して地図を広げた。


 兄が真っ先に指をさした。

 「これ、うちの沢だ」

 「そう」とティットマン。

 「で、こっちの丸が宿?」

 「そう」

 「じゃあ、ここからここへ下りて、鈴の柵を曲がれば近いんだ」


 そのやり取りだけで十分だった。子どもが一目で読めるなら、旅人にも伝わる。


 アリーがにやりと笑う。

 「ほら。役に立つ」


 ティットマンは顔を赤くしたまま、今度は少しだけ胸を張った。


 日が傾き始めたころ、ティットマンは荷物の中からさらに古びた紙を一枚取り出した。

 「これも、たぶん使えます」


 新しい地図よりずっと古い。端は擦り切れ、紙色は飴色に変わっている。だが線は残っていた。今は使われていない山道の写しらしい。


 ジェルジがそっと広げると、いくつかの道筋の脇に、小さな記号が並んでいるのが見えた。丸でも四角でもない、花弁のような印だった。


 「これは何ですか」


 ティットマンは紙をのぞき込む。

 「たぶん、昔の道標です。うちの祖父が言ってました。昔は夜道に、青く光る石が置いてあったって」


 モフャの耳がぴくりと動いた。

 「青い石?」

 「沢のそばで拾えるやつに似てます」


 ジェルジは第四章の伏線となる鉱石に軽く触れる感じで反応。 need no future mention. continue.


 昨夜、沢の近くで見た淡青色の石が脳裏によみがえった。灯りが当たったときだけ、わずかに返るような色だった。


 「それ、今はどこに」

 「分かりません。道が荒れて、持っていかれたのか、埋もれたのか」


 ジェルジは古地図の印を指で追った。もし本当に夜道を示す石だったなら、この村は昔から“夜を越えるための工夫”を持っていたことになる。ただの寒村ではない。宵霧の中を人が通うための知恵が、積み重なっていた場所だ。


 その事実が妙に胸を打った。


 自分だけではない。この宿も、この村も、いったん見捨てられたように見えて、まだ地下に火種を持っている。


 夕方、板へ写した案内図の一枚目ができあがった。宿の位置を示す印。水場。危険な崖道。霧の夜に避けるべき沢沿い。そして、食堂で灯を入れられる時間帯まで、簡単な文字で添えてある。


 入口へ仮に立てかけてみると、宿の顔つきが変わった。


 「看板っていうより、道の約束だね」

 アリーが言う。

 「そのほうが、この宿らしいです」

 ジェルジは答えた。


 鍋の絵や可愛らしい鳥は描けなくても、ここへ来たい者を迷わせない板なら作れる。それで十分どころか、そのほうがよかった。


 片づけのあと、ティットマンは帰り支度をしながら、そわそわと紙束を抱え直した。


 「その……」

 「はい」

 「もし要るなら、もう少し細かい地図も描けます。野営しやすい場所とか、荷車が休みやすい広さとか」


 ジェルジはすぐ頷いた。

 「お願いします。ぜひ」


 ティットマンの目が、わずかに明るくなった。大げさではない。本当に小さな変化だったが、彼が“また来てもいい理由”を受け取った顔だった。


 彼が帰ると、食堂には夕方の青さが満ち始めた。ジェルジは新しく立てた案内板を戸口から見つめる。風にあおられても倒れぬよう、モフャが脚を太く作ってくれている。


 「よかったな」


 低い声に振り向くと、モフャが板の横へ立っていた。


 「何がですか」

 「ティットマン」

 「ええ」


 ジェルジは少し笑った。

 「絵が下手でも、道は描けるんですね」


 モフャも、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

 「それを先に言う人、あまりいなかったと思う」


 言われて、ジェルジは胸の奥で静かに息をついた。


 王都では、役に立つかどうかより、見栄えがするかどうかで先に切られることが多かった。けれど、ここでは違うのかもしれない。鍋の絵が笑われても、道の線が人を助けるなら、そのほうが大事だと言える。


 灯りを直す手も、地図を描く手も、鍋をかき回す手も、同じように必要とされる。


 それは、ジェルジ自身に向けられた言葉でもある気がした。


 夜、戸口の外へ出ると、霧が谷の底をゆっくり這っていた。宿の中からは、行灯のやわらかな光が洩れている。その光の脇に、新しい案内板が立っている。


 まだたった一枚だ。だが、あれはこの宿へ人を連れてくる。迷った足へ、「こっちだ」と示す。


 ジェルジは板の端へ手を触れた。冷たい木肌の向こうに、人の手仕事の温度が残っている。


 道を描ける者がいて、灯りを直せる者がいて、鍋を温める者がいる。


 ならば、この宿はもっとちゃんと息を吹き返せる。


 その確信が、今夜の行灯の火を昨日より少しだけ明るく見せた。



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