第14話 宵闇の吹雪
夜灯り市の二日前から、山の空気は妙に乾いていた。
朝は晴れているのに、昼を過ぎると風向きがくるりと変わる。尾根から下りてくる冷たい流れが、宿の軒先へ白い息のようにまとわりつき、行灯の火を細く揺らした。
「春の風じゃないね」
とアリーが言った。
帳場で銅貨を数えながらの声は軽かったが、視線は表の空を見ている。
「山の上で雪が残りすぎてると、たまに来る」
とソフィー。
「来るって、何がですか」
「季節外れの荒れ方」
答えたあと、ソフィーは薬草包みの口をきゅっと結んだ。大きく脅かす言い方ではないぶん、余計に現実味があった。
ジェルジは入口へ掛けた試作の花冠を見上げる。白い花弁のあいだから、小さな灯りがやわらかく滲んでいる。あれを本番用に仕上げるには、今日のうちに留め具をもう一段強くしなければならない。
だが昼前、作業場へ駆け込んできたティットマンが、その予定を吹き飛ばした。
「村道に馬車。三台。紋付き」
「旅人ではなさそうかい」
とアリー。
ティットマンは首を振った。
「速すぎる。見せるための走り方だ」
それだけで、誰の顔にも笑いは消えた。
モフャが壁際に立ててあった外套を取る。
「迎えに出る」
「私も行きます」
とジェルジが言うと、アリーがすぐに頷いた。
「行っといで。帳場はこっちで見る。アラシュ、鍋は絶やさないで。ソフィー、冷えた人が出たときの支度を」
「まだ誰も冷えてないぞ」
「だから先に言ってるんだよ」
短いやりとりのあいだに、食堂の空気が仕事の顔へ変わる。ジェルジは外套の紐を結びながら、胸の内で静かく息を整えた。
村の入口近くまで出ると、馬車はちょうど石橋を渡り切ったところだった。
黒塗りの側板。雨避けを兼ねた厚布の覆い。扉に入った紋章は、王都で何度も見たことがある。リセラの実家と近しい商会の印だった。
先頭の馬車が止まり、従者が扉を開く。
降りてきたのは、薄灰の外套をまとった女だった。裾に泥一つ付けず、手袋の指先にさえ乱れがない。顔を上げた瞬間、ジェルジの背筋へ古い冷たさが走った。
リセラ。
王都の大広間で、火の上がった花冠を見上げながら、あまりに綺麗な顔で眉をひそめていた女だ。
「まあ」
リセラは扇を持たない代わりに、口元だけで笑った。
「本当にここにいたのね、ジェルジ。噂よりずっと、田舎に馴染んでいて驚いたわ」
その声に、馬車の後ろから数人の男たちが降りてくる。役人風の者、商会の帳面持ち、護衛。皆、ここを人の暮らす村ではなく、値札を付ける土地として見ている目だった。
ジェルジは歩み出た。
「何の御用でしょう」
「話し合いよ」
リセラは山肌を一瞥し、つまらなさそうに続けた。
「このあたりの湧水と鉱脈について、正式な調査結果が出たの。王都の商会が道を整え、採掘と集積の拠点を置く。その代わり、村には雇い口と援助が入る。悪い話ではないでしょう」
「宿場はどうなります」
「必要なら一部は残すわ。でも、いまのようなやり方は非効率ね。旅人相手に汁物と行灯で細々やるより、資源を動かしたほうがずっと利益が出るもの」
言葉の端々に、踏みつける癖が滲んでいた。
モフャが一歩前へ出る。
「断る」
「あなたに決める権利はなくてよ」
リセラは視線だけでモフャを測り、すぐジェルジへ戻した。
「村長を呼んでちょうだい。今日ここで返答をもらうわ。もし拒むなら、道の補修も冬越えの援助も見直しになる。王都は慈善で山を支えたりしないもの」
その一言は、脅しとして十分だった。
カラモリの道は、雪崩と崩れのたびに直さなければならない。外からの資材が減れば、次の冬に困る家は出る。理屈ではなく、暮らしの喉元を掴む言い方だ。
やがて村長も呼ばれ、宿の食堂で話し合いが始まった。
外から入ってきた冷気のせいで、いつもの食堂が少し狭く見える。アラシュは大鍋をあえて奥で煮立たせ、湯気を絶やさなかった。アリーは帳場脇に立ち、売上表や宿泊帳をすぐ取り出せるよう並べている。
リセラは椅子へ座るなり、羊皮紙を広げた。
「条件は簡単です。村の西斜面と北の湧水地一帯の使用権を商会へ譲渡。代替として、村道の補修費、冬期の保存食、労働賃金の保証」
「西斜面を切れば、獣道が崩れます」
とティットマン。
「北の水は産婆小屋でも使うんだよ」
とソフィー。
「採掘の土が流れたら、宿の沢も濁る」
とモフャ。
リセラは小さく肩をすくめた。
「それは調整すれば済む話でしょう。田舎の方は、いつも感情で反対するのね」
その瞬間、ジェルジの中で何かが静かに定まった。
王都にいたころの自分なら、相手の肩書きと声の整い方に押されていたかもしれない。だが今は違う。この食堂で眠った旅人の顔を、道に迷って震えた子どもの手を、自分は知っている。
ジェルジは紙束を卓へ置いた。
「感情ではありません」
リセラの眉がわずかに動く。
「この冬三か月の宿泊帳です。吹雪で足止めされた旅人、荷馬車の中継、薬草湯の利用数、夜道地図の売れた枚数、携帯行灯の貸し出し記録。ここに残っているのは、山を削らなくてもこの村が人を迎え、稼ぎ、道を守れている証拠です」
アリーが横から別の帳面を開く。
「しかも、こっちは増えてる最中だよ。去年の冬と比べても、泊まり客は戻ってきてる」
アラシュが鍋の蓋を開け、食堂へ匂いを放った。
「飯を食いに来る連中もな」
場違いな言葉に聞こえるのに、不思議と笑う者はいなかった。鍋の匂いも、灯りも、地図も、ここでは全部が暮らしを支える数字の中に入っている。
リセラは羊皮紙を指先で弾いた。
「それでも、道の補修を止められたら終わりでは?」
答えたのは村長だった。
「終わりにはせんよ」
年老いた声だったが、椅子の脚ほども揺れない。
「助けが要らぬとは言わん。だが、喉を掴まれて生き延びるくらいなら、手間を分け合ってでも残る道を選ぶ」
食堂が静まり返った、そのときだった。
表の戸が激しく鳴った。
一度ではない。風の塊がぶつかるように、続けざまに二度、三度。誰かが開けるより早く、隙間から白いものが吹き込んでくる。
雪だった。
細かく乾いた粒が、まるで真冬のような勢いで床へ散る。
アリーが息を呑む。
「早すぎる……!」
モフャは戸口へ走り、外を一目見て顔色を変えた。
「尾根から来た。霧も混じってる」
ティットマンが窓の外へ身を寄せる。
「石橋から先、もう霞んでる。これ、暮れる前に道が消える」
さっきまで強気だった商会の男たちが、さすがにざわついた。馬がいななき、車輪止めの音が慌ただしく響く。
リセラが立ち上がる。
「すぐ戻るわ。馬車を寄せなさい」
だが従者が外へ出た瞬間、風に押し返されてよろめいた。開いた戸から吹き込む白と冷気で、食堂の灯りまで細くなる。
ジェルジは反射のように声を出していた。
「戸を閉めて。全員、今は外へ散らないで」
誰より先にモフャが戸を押さえ、アラシュが肩で閉める。どん、と木が鳴り、ようやく風が遮られた。
「ティットマン、地図を。いま使える避難筋を三本」
「ある」
「アリー、宿に入れる人数の確認を。座敷と食堂、作業小屋まで」
「すぐやる」
「ソフィー、冷えた人用の湯と布を。アラシュ、鍋を二つに増やせますか」
「増やす。豆も干し肉もある」
「モフャ」
呼ぶと、彼はもう動き出す寸前の顔でこちらを見た。
「表の行灯、どこまで点けられますか」
「宿前から石橋まではすぐ。沢沿いも、小型なら繋げられる」
「やりましょう。敵味方は後です。道が消える前に、人の筋を残します」
リセラが何か言いかけたが、言葉にならなかった。窓の外で、彼女の馬車の灯りがひとつ消えたからだ。
ジェルジは作業台へ駆け、花冠の脇へ積んであった携帯行灯の箱を開けた。宵霧に強い灯芯、浅い風除け、持ち手付きの小型枠。何度も手を動かしてきた形が、いま初めて村全体の命綱として並ぶ。
「これを石橋、納屋前、沢の曲がり角、座敷口へ。間は短く。見失わない距離で」
ティットマンが地図へ炭で印を打つ。
「橋から右へは危ない。崩れかけの縁がある。こっちへ寄せる」
「了解」
モフャは箱を半分抱えると、振り返った。
「ジェルジ」
「はい」
「中の火、頼む」
それは、必ず戻るという言い方に聞こえた。
ジェルジは頷き、行灯へ次々火を移した。小さな明かりが、卓の上でひとつ、またひとつと目を開ける。
やがて村の若者たちも呼ばれ、短い指示のあと、灯りは雪の中へ運び出された。石橋へ二つ。宿の前庭へ四つ。納屋へ三つ。沢沿いへ五つ。作業小屋の軒下にも二つ。
外はすでに、昼とは思えない薄暗さだった。
宵霧と雪が重なり、遠くの形を奪っていく。けれど新しい行灯は、風に煽られても完全には伏せない。低く、粘るように、道の高さで灯り続ける。
「見える……」
窓辺で誰かが呟いた。
白い荒れの中に、点々と続く小さな火の列。派手ではない。だが、次へ進むための距離だけは、確かに残している。
ジェルジはその列を見つめ、胸の奥で火を握り直した。
買う、奪う、脅す。
そういう手つきで触れられる前に、この村は自分たちのやり方で夜を越えられると示す。
まだ吹雪は始まったばかりだ。
だがもう、ただ怯えて待つ夜ではなかった。




