第12話 そばにいるだけで
夜が更けても、帳場の紙は減らなかった。
昼のうちに書き出した一覧へ、さらに細かな書き込みが増えていく。貸し出し用の小型行灯は何基までなら宿で回せるか。薬草湯の桶は何人分を先に温めておくべきか。保存食の包みは一日で何個作れば無駄が出ないか。村長へ見せる資料の順はどうするか。
ひとつ片づけば、次が見える。
次が見えれば、また書く。
そうしているうちに、食堂の喧騒はひとつ、またひとつと消えていった。
最初にアラシュが欠伸を噛み殺しながら鍋を下げ、次にティットマンが地図を抱えて帰っていく。ソフィーは薬草袋の束を籠へ収めると、ジェルジの肩へそっと手を置いた。
「冷えてきたら、そこで終わりにするんだよ」
「はい」
返事はした。
だが、手は止めなかった。
アリーも最後まで残っていたが、閉める戸の確認を終えるころには、さすがに諦めたような顔で帳場を覗き込んだ。
「ジェルジ」
「はい」
「今の返事、何も聞いてない顔だね」
「聞いています」
「じゃあ言ってみな」
ジェルジは筆を持ったまま止まった。
「……冷えてきたら、終わりにする」
「よろしい」
アリーは満足げに頷いたあと、湯飲みをひとつ帳場へ置いた。
「その代わり、これを飲んでから」
湯気の上がる香草湯には、ほんのり甘い匂いが混じっていた。ソフィーが調えたものだろう。喉へ落とすと、胸の奥に張っていた細い糸がすこし緩んだ気がした。
「あなた、頑張ると急に静かになるから分かりやすいんだよ」
「……そうですか」
「そうだよ。泣く前より、そっちの方が危ない」
アリーはそれだけ言うと、帳場の隅へ毛布を一枚置いて立ち上がった。
「私は寝る。火は小さくしておきな」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
戸が閉まり、宿はようやく本当の夜の顔になった。
外では霧が深くなっているのか、風の音が低い。遠くで沢が鳴っているはずなのに、今夜はそれすら布をかぶせたように柔らかかった。食堂の中央に残した行灯が静かに燃え、帳場の上へ薄い金色を落としている。
ジェルジはもう一度紙へ向き直った。
――役人へ見せる順番。
――夜道案内の実績。
――宿泊者の増減。
――湧水の使用量。
――発光石の道標跡。
そこまで書いて、筆先が止まる。
役人に見せるべきことは、まだまだある。商会が欲しがっているのが石だけではなく、水も含めた土地そのものだと示すには、もっと整理が要る。夜会の発火と精製油の繋がりも、帳簿の抜けも、全部いずれ並べなければならない。
頭の中では、いくつもの線が伸びていた。
だが線が増えるほど、眠りは遠のく。
王都の夜会の光景が、不意に紙の白さへ重なった。
笑い声。楽師の弦。花冠へ仕込まれた飾り灯。誰かが息を呑んだ一瞬のあとに、揺れ上がった炎。自分へ集まった目。弁明しようと開いた口より早く、犯人だと断じられたあの場。
あの夜、何が燃えたのか。
灯具だけではない。
自分の居場所そのものが、一度まとめて焼かれたのだ。
ジェルジは無意識に肩を抱いた。
暖かいはずの宿の中で、そこだけ冷える。
眠れなくなる前触れを、もう彼女は知っていた。胸の奥が妙に冴え、耳だけが敏くなる。火の音、紙の擦れる音、柱の鳴る音。どれも小さいのに、やけに近い。
駄目だ、と思った。
こういうときは一度離れるべきだ。
それでも、帳場を離れきれない。
紙を重ね直し、筆を置き、また別の紙を引く。今度は灯芯の巻き方を書いてみる。宵霧に強い芯、長く燃える芯、子どもでも扱いやすい小型灯具用の芯。
指先を動かしていると、少しだけ落ち着く。
落ち着くから、止め時を失う。
どれぐらいそうしていただろう。
表で、戸の鳴る音がした。
はっとして顔を上げる。もう客は入れていない時刻だ。村の者なら裏口を使うことが多い。ジェルジはすぐに立ち上がり、帳場脇に置いた灯りを手に取った。
表の戸を開けると、冷えた霧がひとかたまり入り込んできた。
そこに立っていたのは、モフャだった。
肩へ夜露を乗せたまま、片手に木箱を持っている。耳の先まで湿っていて、尾がいつもより重そうに見えた。
「どうしたんですか」
「これ」
差し出されたのは、昼に話していた寝具の試しだった。二重袋にした獣毛入りの敷き布で、縫い目の位置が確かめやすいように糸の色まで変えてある。
ジェルジは思わず目を丸くした。
「もう仕上げたんですか」
「途中まで」
「途中……」
木箱を受け取ると、ずしりとした重みが手へ伝わった。途中と言うには、だいぶ出来上がっている。
「明日の朝でいいのに」
「起きてる気がした」
ジェルジは言葉を失った。
霧の向こうでは、宿の前札がぼんやり光っている。夜道案内あり。休み湯あり。持ち歩ける灯りと飯あり。その下へ、夜更けに木箱を抱えて立つ山の青年がひとり。
「……分かったんですか」
「灯りがついてた」
「それだけで」
「それだけで十分」
戸口で話し込ませるのも悪く、ジェルジは急いで彼を中へ招き入れた。戸を閉めると、湿った冷気が少し遠のく。
モフャは食堂へ入るなり、中央の行灯、帳場の紙束、湯飲み、開かれたままの筆記帳を一度に見た。何も言わない。だが、ああ見つかった、という顔をしている。
「まだ終わってなかったのか」
「終わらせようとはしていました」
「してない顔だ」
昼にも似たようなことを言われた気がする。ジェルジは少しだけ口元を緩めた。
「モフャさんも、人のことは言えないでしょう」
「僕は途中で持ってきた」
「つまり、途中まで作っていたんですよね」
「うん」
「夜に」
「うん」
言い返す言葉がなくなり、ジェルジは視線を落とした。モフャは自分の分が悪いと分かると、すぐに話を横へずらす癖がある。今も木箱の蓋を開き、敷き布の角をつまみ上げた。
「こっち、見て」
帳場脇の卓へ広げられた試作品は、外布がしっかりしているぶん見た目は素朴だったが、手で押すと中の獣毛が偏りすぎず、やわらかく戻る。
「中袋を細く区切った。毛が片寄らない」
「本当だ……」
ジェルジも端を押してみる。沈み方が均一で、寝返りを打っても冷たい底へ当たりにくそうだった。
「底の隙は」
「ここ」
モフャが縫い目の一部を示す。目立たないように作られた細い逃がし口があり、湿気だけが抜けるよう工夫してある。
「山小屋で試した?」
「一時間だけ」
「寝てないじゃないですか」
「横になった」
「それは試験であって睡眠ではありません」
彼の耳が一度、ぴくりと動いた。
「……怒ってる」
「怒ります」
「でも使えそう」
「そこは褒めます」
怒りきれずに言うと、モフャはほんの少しだけ肩の力を抜いた。こういうときの彼は、大きな犬のように見える。自分で持ってきた木箱より、こちらの機嫌の方を気にしているのが分かるからだ。
ジェルジは敷き布へ手を置いたまま、ふと息をついた。
「ありがとうございます」
「うん」
「助かります。本当に」
「知ってる」
さらりと返され、今度は別の意味で言葉が詰まる。
知っているのか。
そう言い切られると、嬉しいのに、何だか落ち着かない。
モフャは敷き布を畳み直しながら、何気ない声で訊いた。
「まだ何する」
「資料の順番を整えて、灯芯の巻き方をまとめて、それから」
言いかけたところで、彼は帳場の椅子をひとつ引いた。
「それ、持ってくる」
「え」
「芯」
ジェルジが置きっぱなしにしていた灯芯用の綿束と獣毛の細繊維、それに細い糸巻きを、モフャは勝手を知った手つきで卓へ運ぶ。さらに自分も椅子へ座ると、当たり前のように片手で芯をより始めた。
「……どうして」
「手が空いてる」
「今、さっきまで寝具を作っていた方の台詞ですか、それ」
「今は空いた」
屁理屈だった。
だが、その屁理屈に救われる。
ジェルジも諦めたように向かいへ座り、綿束を取った。二人分の手が、静かな卓上で同じ動きを始める。巻いて、撚って、長さを揃える。必要な作業は単純で、単純だからこそ、余計なことを考えずにいられる。
しばらく、火の音と糸の擦れる音だけが続いた。
宿の中は静かだ。
けれど、ひとりのときの静けさとは違う。
向かいに誰かがいて、同じ明かりの下で同じ作業をしている。
それだけで、夜の輪郭が変わる。
ジェルジは手を動かしながら、ぽつりと言った。
「最近、また少し眠れなくて」
モフャの手は止まらなかった。ただ耳だけが、こちらへ向く。
「役人のこと?」
「それもあります」
「王都のことも」
「……あります」
嘘はつかなかった。
この人は、無理に聞き出さない代わりに、見えているものを見えていると言う。
「昼は平気なんです」
ジェルジは細い芯を揃えながら続けた。
「やることが多いと、考える前に手が動くから。でも夜になると、あのとき言えなかったこととか、間に合わなかったこととか、そういうのが急に近くなるんです」
「うん」
「今さら思い返しても変わらないのに、頭だけ起きてしまって」
巻いた芯を一本、卓へ置く。真っ直ぐではあるが、少し撚りが甘い。ジェルジはそれを脇へ避けた。
「止まったら、負ける気がして」
言ってから、自分でも何に負けるのか分からないと思った。
王都にか。商会にか。濡れ衣を着せた者たちにか。それとも、もう一度居場所を失うかもしれないという、自分の恐れそのものにか。
モフャは一本巻き終えた芯を揃え、少し考えるように視線を落とした。
「山でも、ある」
「何がですか」
「止まったら駄目だって思うとき」
彼は言葉を探しながら話す。焦らず、だが誤魔化しもせず。
「吹雪の前とか。足跡が消えそうなときとか。先に進まないと死ぬかもしれないときは、確かにある。でも」
そこで一度、指先の芯を撚り直した。
「小屋に入ったあとは、止まらないと死ぬ」
ジェルジは顔を上げた。
「動きすぎると、熱が逃げる。火の場所を決めて、湯を飲んで、体を丸める。外で生きるためには、止まるのも仕事」
それは、山の暮らしから切り出された、ひどく実感のある言葉だった。
ジェルジは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
「止まるのも……仕事」
「うん」
「それ、もっと早く聞きたかったです」
「今、言った」
「そうですね」
少し笑うと、モフャもわずかに口元を緩めた。ほんの一瞬だったが、それだけで灯りの色まで柔らかく見える。
またしばらく、手を動かす。
ジェルジの呼吸はいつの間にか整っていた。肩のあたりに張りついていた冷えも薄れ、紙へ向かっていたときの鋭すぎる冴え方がなくなっている。向かいの手元では、モフャが規則正しく芯を巻いていた。長く、均一に、無駄なく。
その手を見ていると、不意に言葉がこぼれた。
「どうして来たんですか」
彼は一瞬だけ手を止めた。
「木箱を届けるため、だけじゃないですよね」
沈黙が落ちる。
火が、小さく鳴った。
モフャはすぐには答えなかった。答えを隠すというより、ちゃんと探している顔だった。こういうとき、彼は雑に言葉を置かない。
だからこそ、待つ時間が少し怖い。
やがて彼は、巻きかけの芯を卓へ置き、低く言った。
「そばにいるだけで」
そこでまた間が空く。
ジェルジは息を潜めた。
「火が、安定するから」
何を言われたのか、最初の一拍は分からなかった。
火が安定する。
それは灯具の話のようでいて、今この場では明らかにそれだけではない。
ジェルジは目を見開いたまま、瞬きも忘れた。
モフャの方は言い切ったあとで、ようやく自分の台詞の重さに気づいたらしい。耳の先がじわりと赤くなる。尾も椅子の陰で一度だけ大きく揺れた。
「……変な言い方だった」
「いえ」
声が少し裏返った。慌てて言い直す。
「いえ、変じゃないです」
「そうか」
「はい」
「なら、いい」
全然よくない。
よくないというのは、困るという意味ではなく、胸の中が静かにしてくれないという意味だった。
ジェルジは咄嗟に手元の綿束を掴み、必要以上に真剣な顔で芯を巻き始めた。けれど指先が少し震えて、さっきまでより撚りが緩い。
向かいから、ぼそりと声がした。
「曲がってる」
「分かっています」
「やり直す?」
「……やり直します」
なんとも言えない沈黙のあと、二人同時に小さく笑ってしまった。夜更けの宿で、行灯ひとつを挟んで、芯が曲がっただのやり直すだので笑う。王都の頃の自分が見たら、ずいぶん地味な光景だと思うだろう。
けれど今のジェルジには、それがたまらなく愛おしかった。
もう少しだけ作業を続けたあと、モフャは束ねた芯を卓の端へ寄せた。
「今日はこれで十分」
「でも、まだ」
「十分」
山で道を切るときのような、きっぱりした声だった。
ジェルジは反射的に言い返しそうになり、それから止まる。
止まるのも仕事。
さっき聞いたばかりの言葉が、胸の中でまだ温かい。
「……はい」
素直に頷くと、モフャは少しだけ目を細めた。
「湯、温める」
彼は立ち上がり、勝手知ったる足取りで台所へ向かう。しばらくして戻ってきた手には、湯気の立つ椀が二つあった。中身は白湯に近いが、ソフィーの香草をひとかけだけ入れたのだろう。鼻に刺さるほどではない、眠りを邪魔しない匂いがした。
「ありがとうございます」
「熱い」
「見れば分かります」
「前、すぐ飲んだ」
「それは……勢いで」
「今日は勢いで飲むな」
言われなくても、と思いながら椀を受け取る。両手で包むと、掌から腕へじわりと熱が移った。
モフャは自分の椀を持ったまま、帳場の上の紙束を一度見た。
「明日、またやる」
「はい」
「一人で全部やらない」
「……はい」
「僕もいる」
短い言葉だった。
けれど、それで十分だった。
いる。
その一語が、夜の底へ小さく、確かな重みを置く。
ジェルジは椀の縁へ口をつけた。熱すぎない温度の湯が喉を通り、胸の深いところへ沈んでいく。目を閉じると、今日一日の匂いがした。木、油、薬草、煎った豆、湿った土、獣毛、そして宵霧でも消えにくい灯りの匂い。
全部が混ざって、今の自分の居場所の匂いになっている。
「モフャさん」
「うん」
「さっきの」
「うん」
「……私も、そうです」
彼がこちらを見る。
ジェルジは少しだけ視線を伏せたまま続けた。
「そばに誰かいるだけで、火が安定すること、あります」
今度こそ、モフャは返事に困ったらしい。耳が立ち、下がり、また立つ。その忙しさが可笑しくて、でも可愛いと思ってしまって、ジェルジは自分の頬が熱くなるのを感じた。
「……そうか」
結局、彼はそれしか言えなかった。
「はい」
「なら、よかった」
どちらともなく、それ以上は言わなかった。言わなくても、今は足りていた。
椀の湯を飲み終えるころには、食堂の火もだいぶ小さくなっていた。帳場の紙は片づき、巻き終えた芯はきれいに束ねられ、寝具の試作品も椅子の背へ掛けられている。やりかけのまま散らかった夜ではない。明日へ渡せる形に整った夜だ。
ジェルジは立ち上がり、灯りを落とす前に戸締まりを見回した。
もう耳が冴えすぎてはいない。
胸の奥にあった細い痛みも、まだ消えてはいないが、ちゃんと名前のつく重さへ変わっている。
それは抱えきれない恐れではなく、誰かに半分持ってもらえる不安だった。
「もう寝ます」
「うん」
「モフャさんも」
「帰る」
「この時間に?」
「近い」
確かに彼の小屋は宿からそう遠くない。遠くないのだが、霧の深い夜であることに変わりはない。ジェルジが眉を寄せると、彼は少し考えてから言った。
「外の札、見て帰る」
「確認ですか」
「仕事」
その言い方があまりに真面目で、ジェルジはとうとう笑ってしまった。
「じゃあ、お願いします」
「うん」
表の戸を開けると、霧はまだ深かった。しかし宿の前札は、行灯の下で確かに読めた。夜道案内あり。休み湯あり。持ち歩ける灯りと飯あり。その文字が柔らかく浮かび、道へ小さな意思を立てている。
モフャは一枚ずつ目で確かめ、最後に入口の灯りを見上げた。
「安定してる」
「はい」
ジェルジも同じ灯りを見上げた。
たぶん、灯りだけの話ではない。
そう思ったが、今は胸の内へしまっておく。
モフャが霧の向こうへ消えていくまで見送り、戸を閉めたあと、ジェルジは二階の自室へ上がった。
窓の外には宿の灯りが小さく見える。夜会の炎とは違う。誰かを裁くための眩しさではなく、帰ってこられるように置かれた明かりだ。
寝台へ横になると、獣毛入りの掛け物の重さが心地よかった。
止まるのも仕事。
そばにいるだけで、火が安定する。
今夜も、全部が解決したわけではない。
役人はまた来るだろうし、王都の傷は簡単には消えない。
それでも、眠りへ向かう道がある。
そのことを知っている夜は、前よりずっと怖くない。
目を閉じる直前、ジェルジは小さく息を吐いた。
明日もまた、手を動かそう。
けれど今夜は、ちゃんと眠ろう。
行灯の火は、窓の向こうで静かに揺れていた。




