美しき白鳥の、愚かなる呟き
レレイス公女視点での『fluere fluorite』。
こちらへの投稿に際し、改題いたしました。
私がグラントと初めて出会ったのはまだ16歳の頃のことだったと思うけれど、実のところ本当に彼とその時に初めて出会ったのかどうかは覚えていない。
もともと彼は兄と年齢が近かったしわりと頻繁に城に出入りもしていたから、もしかしたらそれまでにもどこかで会っていた可能性もあるけれど、私が明確にその存在を意識したのは、16歳の夏の事だった。
自慢じゃないけれど事実として、私は子供時代から異性に人気がある方だったと思う。
私の『国の最高権力者の娘』であると言う立場を差し引くとしても、それは本当の事だ。
容姿には割と自信がある。
美人との誉れが高かったお母様よりも私の方が綺麗だと、お父様も仰っている。
まあ……親の言うことだから欲目も混ざっているだろうけれど、冷静に考えても鏡の中から覗き返してくる顔立ちにさほどの不服は覚えない。
白い肌に金の巻き毛、まぶしいほどに鮮やかな青い瞳と、わかりやすい美人の要素は全部そろえているし、目鼻の配置や形状のバランスだって悪くは見えないのだから、私は私を美人だと思う。
第一、周囲が小さい頃から私をそう褒めそやす。
詩人は私を讃える詩を書いたし、数えきれない恋文にも私の美しさを讃美する言葉がちりばめられている。
ただ、私は彼と出会うまでは自分の美しさにあまり頓着したりはしなかった。
自分を磨こうと思った事などないし、自分が他人からどう見えるかを意識せずに自然に振舞っていたと思う。
容姿は美しくても、物事をあまり考えない馬鹿な小娘だったのだ。
それは兄に言わせればごく最近まで続いていたのだそうだけど、自分ではグラントとの出会いをきっかけに随分と変わったつもりになっていた。
……いい方に向って変わったか、それとも逆だったのかは今もって謎だけれど……。
彼『グラント』は私の周りにいたどんな男性とも違っていた。
人をそらさない物腰の人間なら彼じゃなくともたくさんいる。
彼の暗色の瞳は素敵だと思うけれど、もっと美々しい男性はたくさんいるし、背の高いグラントよりももっと上背のある人だって何人も知っている。
彼よりも剣技に秀でた人間はまだいるだろうし、グラントよりもたくさんの難しい本を読んでいる学者だって私の周りにはいた。
……それなのに、なんだか私にはグラントの方が学者よりも本当に頭の良い人間に見えるし、剣術の競技会で優勝した人よりもいざと言う時には彼の方が頼れるような気がした。
彼は剣技の競技会には参加しなかったし、兄と一緒の学舎で何年か勉強した後はもう学舎へは来ていないと言う話だった。
私はグラントが帰った後、彼が一体何者で、どうしてこんなに気になる人間なのか知りたいと思い、相当しつこく兄に話を聞いた。
「なんだレレイス、あいつの事がそんなに気になるか?」
私の方を面白そうに見ながら兄は笑って言う。
「あまり見ないようなタイプの人なんですもの。何者なのか気になるだけよ」
「バルドリー侯爵家の長男だよ」
「……そんなことは知っているわ。そうじゃなくて、どういう人間なのかを私は聞いているの」
唇を尖らせる私に兄は肩をすくめ、読んでいた本に目線を戻した。
「2~3年前まではもっと……普通の奴だったな。暫く前に耳にした噂じゃ、グラントにはちょっとした放浪癖があるとか。ま……あいつの父親は諸国を放浪した詩人らしいし、その血を受け継いだんだろうと思ってたけど、お陰で今日はいろいろと外の国の面白い動向を聞かせてもらった。バルドリー家の血筋は変わり者も多いようだし、あいつもそういう血に目覚めたんだろう。ただ、変わり者だけど……グラントは有能だな。今日は雑談に紛れ込ませてブルジリア王家の内紛の情報を持ってきた。父上にどうやって報告するか、今考えているところだよ」
ブルジリア王家はお父様の姉君の嫁ぎ先の小国だ。
「ブルジリアって……アスマリナ伯母さまのいらっしゃるトコロじゃないの。王家の内紛が外に漏れるなんて相当に危ない状態と言うことでしょう? だったら兄さまがいちいち報告しなくても、きっと父上はご存じだわ」
「……レレイス、お前は本当の馬鹿ではないのだろうけど、少し頭の使い方を分かっていないトコロがあるな」
本の陰から兄が溜息をついた。
「あら? だって女は少しお馬鹿の方がいいって、みんな言うじゃない?」
「お前の言う『みんな』が誰で何人ぐらいいるか聞くのは止めておくけど、誰もが知っている情報なら僕が父上にどう言おうか悩む必要など無いとは思わないか? ……まったく……グラントの奴、なんだって隊商なんかに……」
兄の言うには、グラントは家をふらりと出て行ってから、大きな隊商の護衛めいた仕事をしながらあちこちの街や国を放浪していたのだと言う。
侯爵家の人間が、隊商の護衛……。
私はあまりにも現実感の無い話に、ただただ驚いてしまっていた。
どうして?
どこか海外に行きたいのなら、バルドリー家の人間として優雅に旅を楽しむことだって簡単なのに、何の為にそんなヤクザな仕事などする必要があったのか、彼の行動は私の理解の範疇を越えている。
平民に紛れて労働するなんて、想像することすらできない。
だけど……もしかするとこの辺りの部分が彼を私の周囲にいる男性達と違う雰囲気にさせているのかもしれない。
兄はこの情報を父さまへ報告し、グラントはさらに情報の裏付けを取る為だとかでまた暫く国外へ出て行ったようだった。
詳しく何があったのか教えてもらわなかったから、私にはそれ以上の事は分からない。
よしんば説明されたところで、あの当時の私にそれが理解できたかどうかも怪しいところだろう。
容姿が美しくても、血筋が良くても、私がただの馬鹿な小娘であったことは確かな事実なのだから。
「戦は突然始まるわけじゃなく、それなりの前兆が必ずある。経済と戦の前兆は密接な関係があることはキミだって分かるだろう?」
ある日、兄とグラントとが難しい話をする場に同席していた私は、退屈な思いで二人の話を聞いていた。
彼は諸国をうろつき歩いては、国へ帰る度に足繁く城へ顔を出すようになっていた。
たいていの場合は兄と話をして去るのだが、最近では父さまや軍属の偉い年寄りに呼ばれて会議に参加することも多くなっている。
どうせなら私の顔を見に来ればいいのに。
ふくれっ面で言う私を、兄はいつも鼻先で笑う。
愚かな女など、グラントには興味の対象外だと言うことだろうか?
好ましいと思った男性に嫌われまいとして……そんな動機で自分を変えるのは馬鹿な娘のすることである気がしなくもないけれど、私は興味あり気な表情を作って二人の話に耳を傾ける。
戦になれば兵は移動する。
元々同じ数だけその場所に兵が存在していたのなら、消費する食糧は変わらないじゃないかと思っていたらどうやら違うらしい。
どうしてかしらと不思議に思ったけれど、私は賢し気な表情を作って黙って話を聞いていた。
移動する兵は新鮮な野菜を食べない? いえ、違うの? 持って歩かない?
ああ……そうね。
レタスもトマトも腐りやすい野菜だもの、持ち歩くには向かないでしょうね。
穀物や干した肉、疲労時には人間は普段よりも塩を多く欲しがる?
私は疲れ切ったことなんて殆ど無いから、そんな事は知らなかったわ。
だって仕方がないじゃない?
近隣の王家の歴史を覚えたり、貴族達の家系や出身について知ったり、流行りの踊りや歌を覚えたり、詩の暗唱をしたり刺繍を刺したりと、女は覚えなければいけないことが多いんだもの。
遠い異国の地理なんて知るはずがない。
山道を行くにはそれなりの装備を整える必要があるなんて言われても、その装備が一体なんなのか見当もつかないわ。
岩山から落石があった時に頭を守るために、頑丈な兜でも被るのかしら?
険しい山道を歩くより、山を避けて平地をぐるっと回って行けばいいのに……。
理解しがたい難しい話ではあったけれど、そんな話をしている時のグラントの横顔は素敵だった。
なよなよした優しいだけのその辺の殿方とは少し違う。
凛々しさと粗野さもあるけれど、育ちの良さは隠せない。
その辺が全部絶妙に混ざっている。
きっとこういう男らしい人は、とても女らしい女を好むに違いない。
賢くて女らしい……美しい女性こそが彼には相応しい。
別にグラント本人に女性の好み確認した訳ではないけれど、私は勝手にそう思い、そのような女になるべく努力と研鑽を重ねようと心に決めた。
公女である自分の嫁ぎ先としてバルドリー侯爵家は悪い相手ではないだろう。
先代……いえ、違ったわ。先々代のバルドリー卿だったわね。
当時のリアトーマ国との戦争において先々代バルドリー当主は活躍し、その後も父さまやお祖父さまに重用されて、『必要以上に』出世したと見られているから、私達が結婚すると決まれば現バルドリー家には過ぎた縁だと周囲からの風当たりが強くなるかもしれない。
けれどそんなの気にする必要もないだろう。
だって、彼だって既にその有能さで頭角を現している。
気づくとグラントは私の護衛を務めていた者を含め、何人かの人材を集めて周辺国での諜報活動などをする組織を作ったようだ。
一応それは彼の私兵の形をとってはいるけれど、父さまや兄さまもそれに助力していることは確か。
今の私兵集団を母体として、いずれ国の機関へと移行させる話も出ているくらいだ。
ブルジリア王国の内紛を未然に防ぎ、しかもそれによって我が国がブルジリア王室に『恩』を売ることが出来たのは、彼の情報と活躍の賜物。
長くアグナダ公国は平和に慣れ過ぎていたけれど、最近は少しずつ隣国、リアトーマとの関係が冷え込み始めていた。
諜報機関の弱体化が進み過ぎてしまった事を反省する時が来ているのだろう。
もっとアグナダ公国は周辺国の情勢に敏感になるべきなのだ。
───と言うのは、グラントからの受け売りだけれど……。
彼が言うのだからそうなのだろう。
私も、今はそう思う。
昔は兄のおまけのように思われていたに違いない私だったけれど、周辺の国への興味を持ち始め、少し物事を考えるようになってからはグラントと話をする機会が増えた。
随分前に兄が言ったように、私は確かに馬鹿な頭の持ち主ではなかったようだ。
今なら、グラントが父さまに直接ブルジリア王国の内紛の可能性を進言しなかった理由も分かる。
あの当時の彼は何の実績も無い若造だったからだ。
下手をすればこの国の軍事や諜報を指揮する人間に『無能』の烙印を押す結果にもなりかねない、とても微妙で繊細な問題でもあった。
だからこそ兄だって、あの事をどうやって父さまへ報告するか悩んでいた。
今は城内の一部の人間に、彼が貴重な人材であることは認識されている。
けれど、それを知らない人達がバルドリー侯爵家の現当主は放蕩息子であると思っているのが腹立たしい。
まあ……一年のうち何ヶ月間かはふらりと海外に出て不在なのだから、そう思われてもしかたがないことではある。
まさか彼自身が自ら諜報活動を行っているなんて、そんなことを私が言いふらすわけにも行かないもの。
グラントが実績を積んでいる間、私はと言えば素晴らしい女性になる野望を胸に、日々自分の美しさを磨いた。
綺麗に見える立ち居振る舞い。
似合うドレスの色と形。
優雅な笑い方。
自分のこの長い睫毛の上げ下げと、その影が作り出す効果などを実験し、研究した。
私の魅力の効果の程は絶大で、グラント以外の殿方を陥落させるのは簡単すぎるくらい簡単だった。
グラントはあまり社交界に顔を出さない。
私がモテている事を知らないのかしら?
今ではグラントは、城に来る度私のところに必ず顔を出してくれるようになっていた。
私も時々グラントが国内にいる時に、セ・セペンテスの屋敷に顔を出してみることもあり、うまい具合に彼の母上様であるサラフィナ夫人と仲良くなることも出来た。
彼は難しい話だけじゃなく旅先の面白い話だってしてくれるし、二人で楽しく談笑することもあるけれど、それではただの友達のようだ。
まさか彼は私の事を異性として意識していないと言うこと?
試しに適当な相手を見つくろって恋人にしてみたこともあるけれど、グラントの態度は以前と変わらない。
更に適当に何人かを見つくろって恋人を増やしてみたけれど、それでも彼は変わらない。
そうこうするうちに私の生活態度に父さまが怒り、縁談を持ってきた……。
浮かれた生活を送る私に、落ち着いた家庭を持てというのだ。
「レレイス様にはレレイス様の人生がございましょう。お好きなようにさせてあげてください」
そう言ったのは、私の継母にあたるセルシールド夫人だ。
兄と私を産んでくださった母さまは、私がまだ小さい頃に亡くなっている。
セルシールド夫人は父さまの後妻。
絶世の美女の誉れ高かった母さまと違い、セルシールド夫人は凡庸な容姿の詰らない地味な女性だけれど、父さまは彼女のその言葉を受け入れてくれたようだ。
縁談話は立ち消えになり、私は心底ホッとした。
胸をなでおろす私に、兄が言う。
「レレイス、お前は本当に馬鹿じゃないのか? グラントが好きだというなら本人にそう言えばいいじゃないか」
馬鹿?
昔の私よりも今の私は馬鹿じゃないと思うのに、どうしてそんなことを言うのかしら。
失礼だわ。
今の私は周辺国家の動静に興味を持っている。
政治にもかなり明るくなってきた。
そういう知識だけじゃなく女性として身につけるべき教養も深めたし、名実ともに社交界の花形でもある。
殿方は次々と私の魅力にひれ伏すし、女性達は私に嫉妬と羨望の目を向け、私が身につけたドレスから流行を拾い出すのに必死だ。
それなのに、私を馬鹿だと言うの?
しかも女性である私から、そんな告白など出来るとでも思っているのかしら?
あさましい。
なんてデリカシーの無いことを言うのか。
兄さまこそ、馬鹿じゃないのかしら。
私の心の中に兄が言った言葉への反駁と……かすかな不安が芽生えたのは、その頃のことだと思う。
愛されたい相手には通用しない魅力を身につけるために、小娘だった私は誰かれ構わず研究と実験を繰り返した。
その結果、どうやら私には『とりまき』は出来たけれど、気の置けない同性の友人は無くしてしまったらしい。
少女時代には仲良しもたくさんいたのに、彼女たちは早々に結婚して遠く離れ、今では便りも無くなった。
変わったのは彼女たちだと思っていたけれど、もしかしたら私の方が変わってしまったのかしら?
お馬鹿でちょっと我儘だけど気さくなレレイスは、いなくなってしまった。
今更どうしろと言うの……。
賢くて美しくて優雅で、華やかな私のどこがいけないの?
『その時』の事は、自分では意識していなかっただけで、もしかしたら胸の中に既に覚悟が出来ていたのかもしれない。
兄から許可を得て、フドルツ閉鎖地区で老ラズロとの面会を果たした後、しばらくして帰国したグラントを見た瞬間に、私には彼の雰囲気の変化を敏感に察することが出来た。
十代の頃からの長い付き合い。
その間ずっと彼を見ていたんだもの、気づかない筈がない。
グラントの心の中を占める『誰か』の存在……。
それまでも彼には浮いた話が無かったわけじゃなかった。
侯爵家の若い当主という肩書や、男性的でありながら人を逸らさない巧みな話術や人当りの良さも備えたグラントは、もてて当たり前。
社交界にはさほど顔を出す方じゃないけれど、彼に夢中になった娘を私は何人も知っている。
グラントだって木石と言うわけじゃない。生身の男性だから、色々あって当然だと思う。
血気盛んな頃には、兄らとつるんで街の娼館や妓館に出入りしていた事も知っている。
純な小娘に手を出すような真似はしなかったけど、どこそこの国から来た未亡人や、アダっぽい年増の貴婦人と噂になったこともある。
きっと外国に行っている間にも、それなりに遊んだりしているのだろうとは思っていた。
自分の所有物でもない男の事で嫉妬するのは愚か過ぎる。
そんな真似は私には間違っても出来ない。
狭量な女など、醜いだけ。
それでもグラントはいつも私のトコロに帰ってきたのだもの。
人は私とグラントを何年も続く腐れ縁の恋人同士と噂していたし、彼にとっての私はごく親しい友達であるに過ぎないけれど、いつか特別な一人きりの女になると期待を持ち続けていた。
ボルキナ国から帰国した翌日、城へ報告に来たグラントはいつものように私のトコロへも帰国の挨拶に来てくれた。
自分の事ながら女の勘というのは凄いものだと思う。
彼が目の前から去ってすぐに、私はあらゆる伝手を使って彼の周辺の情報を集めはじめた。
自分の気持ちを伝えることをあさましいと思ったけれど、こんな事をしている自分はもっとあさましいと胸の奥で自覚しながら、私は彼の辿った道を調べる。
報告書にあった『amethyst rose』と言う船を調べた時点で、彼が伴って帰国したのが老ラズロの娘だけじゃないことが判明した。
誰だろう?
船の乗務員は彼女をグラントの妻だと紹介されたらしい……。
船内でボルキナ国の諜報員に襲われた際、どうやら彼女は怪我を負い、現在は療養が必要な体だと言う。
お城の会議室に軍事担当や情報関係の顧問が詰めて、連日話し合いが行われていた。
グラントのもたらした報告や資料が本当だとするなら、国にとっても大変な事態だもの当然のことだろう。
そんな折なのに、時間が空くたびにグラントはセ・セペンテスの屋敷に帰宅したがる。
……相当にその娘の事が心配なんだろうか?
どんな人なのか、とても気になる。
だけど、こんな時にグラントを呼びだして問い詰める訳にもゆかないだろう。
第一……私にはそんな権利なんてないもの。
ああ……それにしても情報が少ない。
いっそグラントの留守を狙って、サラフィナ夫人に会う名目でセ・セペンテスの屋敷に乗り込んでみようか?
それともグラントの部下のあの青年を捕まえて、いろいろと問い詰めてみる?
……どれもバカバカしいほどに現実的じゃない。
いらいらしてどうにもならない時には兄のトコロへ出向いた。
兄も父さまの補佐やこの一大事に忙しく疲れている様子だったけれど、黙って私とお酒を飲んでくれた。
父さまはセルシールド夫人と今年11歳になったばかりの義妹と、家族で睦まじく食事を摂られている事だろう。
兄にも婚約者がいて、近年中には大々的に結婚式が執り行われることになっている。
次期大公位継承権第一位にいる兄は、威厳を身につけるべく偉そうな口ひげなど生やして母さま譲りの金の髪を長く伸ばしている。
父さまはまだまだご健勝だけれど、年数を経て恰幅が良くなった頃この兄の頭に父大公の冠は良く似合う事だろう。
別に仲良し兄妹と言うわけではないけれど、同じ母から生まれた二人でお酒を飲んだり食事をしたりするのも、兄が妻を得ればそうそうあることじゃない。
私は……その時にどうしているだろう……?
孤独と不安の未来に思いを馳せると焦燥感が募る。
「レレイス、眉間に皺が寄っているよ。怖い顔だな」
疲れた声で兄が言う。
眉間だけじゃなく、最近は目元にも微かな皺を見つけてぞっとした。
私はいつまでも小娘のままじゃない。
「……私とて、考える事がたくさんあるのです」
冷たく答えて私は立ちあがる。
背中に兄の目線を感じながら扉に手を掛け、立ち止まって息をついた。
「ごめんなさいね、兄さま。この歳になってこういう事を言うのは馬鹿みたいですけど、私も少し大人になりたいとは思っているの。……疲れておいでなのに付き合ってくれたこと感謝してますわ。おやすみなさいませ」
兄がご自分の結婚を先延ばししているのは、私がいつまでもグズグズしているせいだと言うことに、私だって気が付いていた……。
グラントは暫くのあいだ都を離れ、フドルツ閉鎖地区への調査に出向いている。
以前に私の護衛を務めたこともあるレシタルから、その間に色々と情報を得ることに成功した。
グラントの連れてきた娘がリアトーマ国のエドーニア前領主の娘だという身元と、彼女の名前もその時に知った。
聞けばどんな状況下でかは分からないけれど、どうやらグラントは『その娘』を無理やり国元から連れ去ってきたらしい。
片脚が少し不自由であると言う。
グラントの部下のダイタルを捕まえて彼女の容姿について聞いてみた。
一度しか会ったことは無いが、まあ、普通程度の十人並みで、私の方が遥かに美しいと彼は言った。
私より美しい女は、自分に対する贔屓目を差し引いたとしてもそうはいないだろう。
だからと言ってそれが何の心の救いにもならないことを知っているけれど……。
ダイタルとレシタルとが口をそろえて言うには、そのフローティアと言う娘は、とても精巧に人の似顔を描くと言う話だ。
後日にグラントが訪れた時に、私は彼女の話と絵の事について触れてみた。
別段、グラントは私に彼女の事を伏すつもりはないようで、ただ少しだけその情報の早さを驚きつつもいつになく朗らか……。
いいえ、はっきりと『やにさがった表情』で、ごそごそと懐中からその娘が描いたと言うグラントの似姿を取り出して私へと見せてくれた。
怪我をしていたと言う彼女だけれど、彼の様子にその回復の程が量れた。
「……もしかして、いつもこれを持ち歩いているの?」
「いや、偶々だよ」
と、否定はしたけれど、きっと彼はこれをお守りのように後生大事に持ち歩いているに違いないと思った。
なんなの、そのだらしない顔は。
目の前にいるグラントは、今までに私が知っている彼とは別の人間のようだった。
彼のその様子を前に、初めてちりちりと焦げるような痛みを胸に覚えた。
内心で唇を噛みながら開いて見たその娘の描いたと言う絵は……言いたくないが素晴らしい出来。
ごく短時間で描いたと言う話だけれど、グラントの特徴を余すところなくとらえていて、見ほれてしまうくらいだ。
「エドーニアでフローの描いた油彩の人物画を見たけど、それはもう……いい絵だった」
褒めそやす言葉。
……まあ、この絵を見るだけでも彼女の絵の才能の一端は伺える。
グラントは商人としての顔も持ち、美しい工芸美術に触れる機会が多い人間だから、彼が言うなら本当に彼女の描く絵は素晴らしいのだろう。
彼が私に持ち帰ってくれた『土産』はどれも素敵でセンスの良いものばかりだったから、いくら惚れた相手とはいえその点での目は曇っていないに違いない。
「フロー……と、彼女の事を呼んでいるのね?」
「出会った時に彼女がそう名乗ったからね」
いつ出会ったのか、どんな状況で出会ったのか、知りたいようで知りたくない……。
それは私の知らない『外の世界』でのグラントの歴史の一部だからだ。
「どんな人?」
短い言葉なのに、後半は胸が詰まって上手く声が出せず上ずった言い方になったかも知れない。
だけど彼はそんなことに気がつかなかったよう。
窓の外の空を眺めながら少し考え込むような横顔を見せる。
「必死に生きてる。レレイスは岩の間を割って小さな花が咲いてるのを見たことがあるか? フローを見ていてそんな光景を思い出したことがある……」
愛おしさの滲む声。
今、グラントの頭の中はフローと言う名の女以外に入り込む余地など一片も無いのが見て取れる。
私の抱いていた気持ちが報われることは永遠にないのだ……と、悟らずにはいられない。
十年越しの想いが絶望に変わった瞬間だったのに、何故か私は唇に笑みを刻んでそこにいた。
「私、彼女に肖像画を描いてもらおうかしら……?」
笑顔でそんなことを突然言い出した私を、グラントは不審そうな表情で見つめてきた。
フローと言う女性は上流階級の出であり、職業画家などではない。
私が彼女と親しい仲であればまだしも、趣味で絵を描いているに過ぎない彼女に自国ならず隣国とは言え、最高権力者の娘が絵を描いて欲しいなどと言いだしたら、きっと、とても断り難いことだろう。
私の立場は描きたくもない絵を強要する無言の圧力となる。
私は今とても失礼な事を言っているのだと自覚があった。
「ねえグラント。貴方、私と結婚する気はなくて? 貴方はご存じなかったかも知れないけど、私、ずっと貴方の事を好きだったのよ?」
言葉は思ったよりも簡単に、するすると私の口をついて出た。
グラントが絶句して暗色の瞳を見開くのを、面白がって見ている余裕すら私にはある。
「……済まないが、キミは俺にとって友人であっても『女』じゃない。だから、そういう意味で愛することは出来ない」
イエスかノーかと言えば、絶対にノーと答えが返ってくることは分かっていたけれど、彼がこの問いになんと答えるのかは気になっていた。
返ってきた返答は期待以上に彼らしい……絶対の拒絶。
変な希望を与えられるよりもこのくらい拒絶された方が、楽だ。
私は、彼にとって女じゃない……ですって?
フローと言う娘の存在の有る無しに関わらず、最初から恋愛対象ではなかったって事なのね。
本当に十年越し……勝手にグラントにふさわしい女性像を作りあげ、そうなるべく努力してきた自分が馬鹿みたいだ。
いいえ、みたいじゃなくて馬鹿そのもの。
こんな簡潔な振られ方が出来るならば、もっと早く彼に自分の気持ちを伝えるべきだった。
「そう、残念だけど仕方が無いわね。……それはそうと、近いうちに貴方のフローにお会いしたいと思うの。いいでしょう?」
私はいつものレレイスの表情で笑いながらグラントにそう言った。
忙しいグラントが去り、一人残された私は彼に恋い焦がれてきた10年を振り返る。
私、無駄な時を過ごしてきたのかしら?
女らしく美しく見える外見も、周囲を圧するような華やかさも、淑女らしい立ち居振る舞いも、政治だけじゃなく社交界でも役立つ観察眼や分析力も、グラントに愛されないのなら無駄になるの?
ぐるぐると部屋の中を歩き回り、悲しみと、自分に対する怒りに身もだえて時折足を止める。
私の姿は狂人じみて見える事だろう。
ベッドを覆う天蓋の薄い紗幕が、なんとも抗いがたい誘惑を私の心に投げかける。
壁際の椅子の上のふっくら丸いクッションも、炉棚の上に飾られた青い硝子の壺も私の心に悪魔じみた魅力で語りかけてくる。
「しばらくの間、一人になりたいから下がっていてちょうだい」
私は私付きの使用人を部屋から追い出して、周囲を取り囲む誘惑物と対峙した。
今日はこの気持ちに抵抗しない。
抵抗する力がない。
凶悪なほど力強くみなぎる、この欲求。
私は小テーブルの上のレースに手を掛けて思い切り引いた。
薔薇を活けた白い器が空を飛び、敷物の上に水と薔薇とをまき散らす。
ついでに室内履きに包まれた足で容赦なくテーブルの猫足を蹴って壁に激突する音に、笑う。
天蓋は無残に引き裂かれ、壺は砕け散り、布団の羽根が部屋中にふわふわと漂い舞った。
読みかけの本も引きちぎられ、インクの瓶は倒れて敷物の上に無残な染みをこしらえるし、椅子と言う椅子はすべて脚を上や横に向けている。
それら無残な部屋の中が全部、涙で滲んでゆらゆら揺れた。
ヒステリーを起こしたのなんて、一体いつ以来の事だろう?
小さい頃は良く、思うに任せない出来事のたびに暴れたはずだ。
大人になった今は抑え込んでいたものと自分の力が強くなった分、破壊力が数段に増しているようだった。
暗がりの中、私は疲れ果てて床に伏した。
激しく動き回ったせいと、激しく泣きじゃくったせいで頭が痛む。
私はこれからどうすればいいだろう?
涙は既に乾いて、泣き過ぎた後のぼうっとした熱っぽさだけが残されている。
トントンと扉を叩く音がして、誰かが静かに室内に入ってくる気配がした。
使用人かしら?
灯りを手に入ってきたのが兄だと気付いて、私は少しだけバツの悪い気持ちで口を曲げた。
「酷いもんだな、レレイス」
どうして兄さまはここに、今、来なければいけないんだろう?
ああ……きっと私が部屋で暴れ回っているのを心配した使用人が、兄に告げ口しに行ったに違いない。
「見ての通り、酷いわよ。……グラントに振られたの。いいでしょう……こういう時くらい暴れたって、罰は当たらないと思うわ」
ふてくされて言う私を兄が容赦なく鼻で笑う。
「罰は当たるに決まってるだろう。お前の壊した部屋の物は一体だれが与えてくれたものだと思っているんだ?」
反駁したい気持ちはあっても私に言うべきことは無く、ただ口をつぐむしか出来なかった……。
私の身の回りのすべてのもの、それは……この国の民の血税から賄われているモノ。
黙り込む私に、兄は態度を和らげたようだ。
溜息をつきながら少し優しい声で言う。
「お前は……いつまでたっても馬鹿だな……」
そう、私は愚かなレレイスだ。
自分を利口な女になったと自惚れていた、極めつけに愚かな女なのだ。
「……今、自分の馬鹿さ加減を心底噛みしめているトコロよ……。お願いだから、これ以上私を責めないで頂戴……」
「責めてはいないよ。少しばかり呆れているだけだ。見ろレレイスこの部屋を。どんな悪魔が暴れまわったらこんなことになるんだ?」
兄が手にしたランプを高い位置に差し上げると、私の周囲を取り巻く惨憺たる様相が仄かな橙色の灯りの元に照らしだされる。
「……躾のなっていない猟犬が10匹くらいいた跡みたいだわ。使用人に口止めしておかないと、私……この国じゃお嫁に行けないわ……」
ほろ苦い思いを噛みしめながら呟く私の頭を、兄がポンポンと叩くように撫でてくれた。
「明日、口の堅いメイドに片付けてもらえるように手配した。今日のところは別に部屋を用意させておいたから、少し温かいものでも食べてからぐっすりと眠るんだな」
兄の手に引き起こされて、私はのろのろと立ちあがる。
頭はぼうっとしていたけれど、その時、私の胸の奥には自分が今しがた口にした言葉がなぜか引っ掛かって残った。
深夜、私は眠りから目が覚めて暗闇を見つめながら、突然胸の中に訪れた『天啓』を受け止めた。
私が私と言う存在を無意味なものにしない為の、恐らくは最良の方法……。
私はリアトーマ国の王族へ嫁ぐべきなんだ……。
朝一番に、私は父さまの元へと行き、自分の思うトコロを話した。
思ったよりも父さまが冷静に話を聞いていたのは、たぶん、別の人間からも既にその案が出ていたからに違いない。
私の決意の固いのを見てとると、ただ、そのように手配する旨を父さまは私に告げた。
反対をしたのはセルシールド夫人だ。
後宮からはめったに出てこない彼女が私の住む離宮を訪れて、涙ながらに私に考えなおすよう訴えた。
「私はレレイス様にそんなお辛い思いをしていただきたくないのです。私はレレイス様や殿下の寛大なご厚情の賜物で、お慕いする大公と添うという分に過ぎた幸せをいただきました。出来る事ならレレイス様にも、心から好いた方と添う幸せを得ていただきたいと思っておりますのに……」
私はこの時、初めて……驚きをもって、義母セルシールド夫人を一人の人間として見ることができたのだと思う。
では、彼女は政略的に大公位にある男に嫁いだのではなく、父さまの事を一人の男性として本当に愛しているのね。
地味で大人しいつまらない女だと馬鹿にしていたけれど、こういうヒトだからこそ父は彼女を大事にしているのか。
私はハンカチを握りしめて涙するセルシールド夫人の手を取る。
自然に温かな微笑みが自分の頬に浮かぶのを感じた。
「ねえ義母さま、私は見ての通りこんなにも美しいんですもの、きっと相手から愛されるのは簡単ですわ。私もリアトーマの王子を好きになろうと思ってますの。もしも王子が取るに足らない詰まらない人間だったなら、上手に躾けてひとかどの殿方に作り直してさしあげます。ゼロから築き上げる愛も素敵なんじゃないかと思いません?」
不安がないと言えば嘘になる。
でも、私は私の作り上げてきた賢くて美しいレレイスという武器を持っているもの。
それに、自分で自分の作り上げた意固地な型にはまって、無駄な時を過ごした事も教訓にすることが出来ると思う。
もっと素直で、可愛い女になるわ。
兄は私の決意を黙って受け止めたようだ。
一度だけ、本当にそれでいいのかと聞かれた事があるけれど、私はそうしたいのだと答えた。
グラントは……。
グラントには、誰かからこの事が耳に入るよりも先に、私から手紙を書いて伝えておいた。
少しだけ嘘を混ぜて、老ラズロの遺した資料によって今回の不正が分かった時から、私はその事を考えていたのだと。
それこそがこの国に養われてきた私の存在価値であり、存在理由なのだと……綺麗事を書いた。
彼に対しては、まだ、どうしても私が自分で作ったレレイスを演じてしまう癖が抜けない。
少しでも利口に見せたくて、少しでも魅力的な女に見せたくていい子のフリをしてしまう。
本当の私は、もっと馬鹿で勝手で愚かで我儘な女なのに、どこか取り繕ってしまうのだ。
思い切り、彼に対して馬鹿で勝手で愚かしい我儘なことをしようと私は決意する。
グラントの愛する『フロー』と言う娘に会いに行こう。
ユーシズの屋敷に今、彼女はいると言う話だ。
彼女にこのバカバカしい私の姿を描いてもらって、それでこの気持ちに区切りをつけてしまえ。
グラントにユーシズでフローに絵を描いてもらいたいと言う話と、ついでに私主催のパーティーを開いてこの国での最後の思い出を作りたいと言う話を持ちかけると、彼はこの時期にそんな目立ったことをするのは危険だと私を叱った。
ああ……そうか、ボルキナ国に買収されていた人間の中には上流階級……それも、上位貴族の残党もあるのだったわね。
だったら彼らを狩りだすことが出来るのは、グラントらにとっては願ってもない事じゃないの。
私の名前での夜会なら、私の存在によってリアトーマ国とアグナダ公国とが結びつきを強化させることを嫌う人間が、こぞってユーシズに足を運ぶに違いない。
いいじゃない?
ゴチャゴチャとしたもののすべてが、ユーシズで片づくわ。
ユーシズに行くのは何度めの事だっただろう。
狩りの季節に兄がユーシズのバルドリー家へ何度か滞在したことがあるけれど、そのたびに私も同行したから、殆ど毎シーズンごとの事だ。
『フロー』に初めて会った。
少しだけ意識的に意地悪い事をしてしまったけれど、どうしてか、彼女の目には被害者意識や私に対する嫉妬心が無い様に見える。
社交界で出会った女性達は、私に負けて服従するか、嫉妬の炎をその目に宿しながら接するかの二通りしかないのだけれど、彼女からは私に対する敵意は殆ど感じられない。
ただ、そこに強く、しっかりと自分の不自由な脚で立っていようと言う意志だけがあるような気がする。
芯が強いのか、それともグラントが前に言ったように必死に……真っ直ぐ生きようとしている娘なのか。
私のような馬鹿な娘では無いんだろうと思う。
やっぱり、私はグラントに選ばれる筈がない。
ユーシズに到着した翌日の早朝、私はいつものように剣術の稽古をするグラントを……未練がましく眺めていた。
窓の外には雪柳が白い噴水のように咲き誇っている。
花の作り出す影の向こうに、グラントが剣を振るう姿を透かし見ていた。
手の届かない夢のような光景だ。
あの腕も、あの胸も私の為の物ではない。
彼の心の中を占めるのが私じゃないのだと思うと、まだ胸が締め付けられるような感覚に襲われはしたけれど、考えてみれば私があの人の心を満たしたことなど一度も無いのだ。
そっと窓に手を掛けて私は自嘲を込めて呟いた。
「私は私が馬鹿だと言うことを忘れない……」
と。
フローと言う人が特殊な記憶力を持っていると言う話は聞いていたけれど、便利なものだとつくづく思う。
だって、諦めた想いとは言え恋敵と同じ部屋に籠って絵を描いてもらうなんて、どう考えても楽しい事ではないもの。
彼女が絵の対象として私を見つめている間、私は一体なにを考えて彼女と対峙していればいいというの?
どうせ私の浅はかな頭は彼女の顔を見ながら、どんな表情でグラントとキスするのかとか、そういうくだらないことを考えてしまうに違いない。
フローの能力を幸いに、私は狩りのシーズンを迎えて上級貴族で賑わう社交的な場に出向いては、この国を去る前の『お名残り』を楽しむことに時を費やした。
リアトーマのサザリドラム王子との縁談自体は、既に確定したと言っていい状態だった。
だって、先方としては私はとりあえず『人質』になるのだから、断る理由がないもの。
兄や父さまや国の要職を務める大臣達が、今頃はこの話の調整に忙しく過ごしていることだろう。
複雑な気持ちを抱きながらも、楽しい日々を私はユーシズで過ごすことが出来た。
だけど、もっとフローとお話をする機会を設ければ良かったと、私は後に少しだけこの時のことを悔やんだ。
ユーシズでの最後の夜、私は二心の無い必死さで彼女、フローに命を救われたからだ。
そして翌朝、あの素敵な一枚の肖像画を手にしてからは余計に、私は彼女ときちんと人間同士として向き合って話しをしなかった自分の不明を恥じた。
どうして彼女は、こんな嫌な女をあの素敵な絵にしてくれたんだろう……。
私が私の馬鹿さ加減を忘れないでいようと決意した瞬間の一枚。
見るたびに、私の胸を泣きたいような笑いたいような気持で満たす肖像は、まだ私の顔を知らなかったサザリドラム王子の元へと送った。
アグナダ公国へ残しておいては二度と見ることが出来なくなりそうだったからだ。
急いで描かせた絵は長く持たないと彼女に言われたから、油彩で写しを作らせることにしよう。
絵を受け取ったサザリドラム王子……ザザから、長い手紙が届いた。
あの絵を見た瞬間に、私の事が好きになったと彼が言う。
本当かしら?
あまりに素敵な恋文だから、一瞬代筆を疑ったけれど、よくよく見ると文字はどうやら下手くそなようだ。
所々に間違った綴りもみつけた。
ザザはなかなかに情熱的な人のようだ。
これで6歳も年下じゃなければもっといいのだけれど、女の方が男よりも長生きをするらしいからまあ、このくらいでつり合いがとれるのかもしれない。
もし仮に、彼からの恋文が嘘だとしても構わない。
きっと、私の事を好きにさせてみせるから。
女らしくて賢いレレイスも我儘で馬鹿なレレイスも、全部を好きになって貰うように、私も全力でザザ王子を愛するようにしよう……。
その後の事は、割と馬鹿馬鹿しい展開を見せる事になった。
いいえ、当事者達にとっては大変だったのだろうし、すべてが終わった後で振り返るならば第三者なんて気楽なものだ。
フローがユーシズを……グラントのもとを去り、リアトーマに行ってしまったと聞いた時には驚きもしたし、グラントや彼女の事を心配もした。
でもグラントは全くフローをあきらめた様子なんて無かったし、ああ言う強固な意志と行動力を持つ人間は最終的に自分の想いを通すものだ。
少しばかり私も彼に手を貸したりしたけれど、それも本当に少しだけ。
しかもちょっと意地悪なやり方だったかもしれない。
面白がる私にグラントは
「キミは性格が悪くなったな」
と、呆れて言ったけれど、違う。
だって私はもとから性格が悪いのだもの。
エドーニアの領主館でのあの場面は、思いだす度に吹き出しそうになる。
呆然としたフローのあの表情。
それまではずっと私の事をかしこまって
「レレイス様」
なんて呼んでいた癖に、あの後はずっと呼び捨てだった。
なんだかフローは呆れるくらいにクソ真面目で、可愛らしい。
……私は、彼女の事が好きかも知れない。
何もかもがすべて順調と言うわけではないけれど、私はなかなかにリアトーマの国でうまくやっていると思う。
ザザは良くなついた犬のように一心に、ただひたすらに私を愛してくれている。
多少躾けが必要なところもあるけど、大した問題はない。
若くて元気で、少し単純なザザを私は好きになった。
グラントを愛した時のように切なさを覚える深い気持ちはないかもしれないけど、女というものは愛するよりも愛された方が幸せであるというのはどうやら本当の事のようだ。
ノロケ半分と、多少の嫌がらせも込めて下品な内容の手紙を時々私はフローへと書き送る。
頭の固い年寄り連中に対する愚痴や、人様の醜聞も書いた。
グラントとフローはよその国の問題に巻き込まれたりしながらも、元気にしている様子だった。
ある日、届いた手紙の最後にフローからの追記があった。
自分が死亡した場合、私からの手紙は全て誰にも公開されぬウチに焼却処分されるよう、きちんと手続きをとった事を真面目な文面で伝えるものだった。
私は部屋の人払いをした後、一人寝椅子につっぷして大笑いをした。
次期リアトーマ王妃としては、人様に見せられない馬鹿丸出しの姿だと思う。
それに、そうだ、フローに書き送った手紙も人様に見せられない事をたくさん書いたんだった……。
人の醜聞や下ネタだらけの手紙を、あの真面目そうなフローがどんな顔で読んでいるのか気になって仕方が無い。
そのうちに、彼女だけでもこの城に遊びに来て貰おう。
手紙で書いたよりも凄い話を目の前でしたら、あの娘がどんな表情をするのか楽しみだ。
とりあえず私は笑いを収め、彼女を困らせるべくペンをとり手紙をしたためはじめた。
「親愛なる私の友達、フローへ……」
おしまい
fluere fluorite第一部終了につき『完結』としますが、第二部『琥珀の道と白い鳩』に続きます。




