第一話 朝起きたら、知らない女がいた
朝、三上直人は胸の重みで目を覚ました。
八年も一緒に暮らしていれば、飼い猫の寝相くらいでは驚かない。
こはくは自分のベッドより直人の布団を好み、機嫌のいい朝には胸の上で丸くなった。
今日もそうだと思った。
ただ、妙に重い。
「……こはく、お前ちょっと太ったか?」
寝ぼけたまま手を伸ばす。
いつもなら毛に沈むはずの指が、温かく滑らかな肌に触れた。
直人は違和感に眉を寄せながら目を開けた。
胸の上には、薄い茶色の長い髪と白い肩をした見知らぬ女がいる。
年齢は二十五歳前後に見え、しかも髪の間から茶色と白の猫耳が覗き、布団の端からは見慣れた色の尻尾まで伸びていた。
「うわっ!」
直人が跳ね起きると、女は横へ転がり、不満そうに眉を寄せた。
「……なおと、うるさい」
「何で俺の名前知ってるんだよ!」
女は不思議そうにゆっくり目を開け、琥珀色の瞳で直人を見た。
「何してるの?」
「それは俺の台詞だ。誰だよ!」
「知らない女?」
「知らないよ!」
「私だよ」
「誰だよ!」
女は面倒そうに口を開きかけた。
その途中で、自分の声に気づいたらしい。
喉へ手を当て、次に両手を目の前へ持ち上げる。
「……声」
女は目の前の指を、確かめるように開いては閉じた。
布団の中で身体を確かめ、今度は本当に驚いた顔になった。
「人間になってる!」
「は?」
「やった~! 人間になってる!」
勢いよく立ち上がり、その場で飛び跳ねる。
飛び跳ねるたび、豊かな胸まで大きく揺れる。
直人は一瞬、そこへ目を奪われた。
慌てて視線を逸らし、直人はすぐに我に返った。
「待て待て待て!」
布団をひっつかみ、女へ掛けた。
「何?」
「隠せ!」
「なんで?」
「服着てないだろ!」
「昨日まで着てなかったよ」
予想外の返事に、直人の動きが止まった。
「昨日まで? 何の話だよ」
女は布団から顔だけ出して答えた。
「こはく」
部屋が静かになった。
「……うちの猫の?」
「うん」
「証拠」
「証拠?」
直人は半信半疑のまま問い詰めた。
女は、八年前の雨の日に小さな稲荷神社で拾われたことも、傘を自分の側へ傾けたせいで直人の右肩だけが濡れていたことも、抱き上げようとした直人の手を引っかき、そのせいで大学に遅れたことまで覚えていた。
それだけではない。
直人が失恋した夜、猫相手だと思って「お前だけは俺を裏切らないな」とこぼしたことも、仕事で腹を立てて誰にも言えない愚痴を延々と聞かせたことも覚えていた。
「それ、忘れてくれない?」
「やだ」
返し方まで、妙にこはくらしい。
「怖くないのか?」
「何が?」
「急に身体変わったんだぞ」
こはくは考えてから当然のように答えた。
「直人いるし」
直人が返事に困ったところで、枕元のスマートフォンが震えた。
時計は七時二十三分を示している。
会社のグループチャットに仕事の連絡が入り、普段なら七時五十分には家を出なければならない。
「やばい」
「お腹すいた」
「今?」
「朝だから」
さらに、服も下着もなく、人間のトイレの使い方さえ分からない。
尻尾があるせいで自分のスウェットをそのまま履かせるのも難しい。
直人は会社への連絡画面を開いた。
《家庭の事情で、本日午前休をいただけないでしょうか》
送信してから、クローゼットの前で頭を抱える。
その間にも、こはくは直人の大きなTシャツへ頭を通そうとして前後を間違えた。
直人が直していると、キッチンから焦げた匂いが流れてくる。
寝起きに入れたトーストを完全に忘れていた。
「直人、焦げてる」
「分かってる!」
黒くなったパンを取り出し、冷蔵庫を開ける。
こはくはすぐ隣までついてきた。
「何食べる?」
「かつおぶし」
「人間になって最初の朝飯がそれでいいの?」
「多めがいい」
猫耳がぴんと立った。
直人はため息をつきながら、かつおぶしの袋を取り出した。
平凡だったはずの朝は、もう戻ってきそうになかった。




