第一章 地下通路
四月の朝だった。
御影晃は六時十二分に目を覚ました。アラームが鳴る三分前。いつもそうだ。身体が時間を覚えてしまっている。布団の中でスマートフォンの画面を確認し、アラームを解除してから静かに起き上がる。カーテンの隙間から差し込む光が、六畳間の壁に細い筋を描いていた。
団地の四階、3DKの角部屋。御影家の朝はいつも静かだ。
晃は裸足のまま廊下に出て、リビングを覗いた。ソファの上に、母がいた。
御影沙織は夜勤明けの制服のまま、横向きに丸くなって眠っていた。介護施設の名札が首から下がったまま、右手が力なくソファの縁から垂れている。テーブルの上にはコンビニの袋が置かれていて、中身はおにぎり二つとペットボトルのお茶だった。晃の朝食用に買ってきてくれたのだろう。袋の口が丁寧に折り畳まれているのは、音を立てないようにという母なりの配慮だった。
晃はしばらくその寝顔を見ていた。
三十九歳。去年の誕生日に「三十代最後だから」と言って、晃が焼いたホットケーキを二人で食べた。あのとき母は笑っていたけれど、笑い皺の下にある疲労の色を、晃は見逃せなかった。見逃せないのに、何もできない。いつもそうだ。
音を立てないように台所に移動し、コンビニのおにぎりを一つだけ食べた。もう一つは冷蔵庫にしまう。お茶を一口飲んで、コップを洗い、水切りに伏せる。すべての動作が極限まで音量を絞った所作で行われる。小学三年生のときから、この家ではそうやって暮らしてきた。母が眠っている時間は神聖な時間だ。彼女が休めるわずかな時間を、自分が壊してはいけない。
リビングに戻り、ソファの背もたれにかけてあった薄手の毛布を取って、母の身体にそっとかけた。肩まで引き上げて、端を丁寧に折り込む。沙織は微かに眉を動かしたが、目は開かなかった。
晃は口を開きかけた。
行ってきます。
その四文字が喉の奥まで上がってきて、そこで止まった。声にすれば母が目を覚ますかもしれない。目を覚ませば「気をつけてね」と言うだろう。そうしたら母はもう二度寝できなくなる。だから言わない。いつも言わない。言えない、のではなく、言わないのだと自分に言い聞かせている。その違いに意味があるのかどうか、晃には分からなかった。
唇だけが動いた。音にならない四文字を空気に溶かして、晃は玄関に向かった。
紺色のブレザーに袖を通す。真新しい制服はまだ身体に馴染んでいなくて、肩の辺りが少しだけ窮屈だった。高校に入学して二週間。制服が身体に馴染む頃には、この生活にも慣れるのだろうか。靴紐を結び、鍵を握り、ドアを開ける。
振り返らなかった。振り返れば、言ってしまいそうだったから。
団地の階段を降りる。四階から一階まで、七十二段。この数も身体が覚えている。外に出ると四月の朝の空気が頬を撫でた。桜はもう散りかけていて、アスファルトの上に薄桃色の花弁が貼りついている。
イヤホンを耳に押し込み、スマートフォンの音楽アプリを起動した。再生リストの名前は「通学用」。中身はすべてゲームのBGMだった。リアルタイムストラテジー「GRID:VANGUARD」のサウンドトラックが、朝の通学路に静かに流れ出す。電子音の旋律が耳の中で戦場を描き、晃の足取りは無意識にそのテンポに合わせて速くなる。
この曲は第七ステージの突破戦で使われるやつだ。三方向から敵ユニットが迫る中、補給線を維持しながら中央拠点を確保する。初見クリア率が四パーセントを切る難関ステージ。晃は十一回目の挑戦で攻略した。あのときの手の震えと、クリア画面が表示されたときの静かな達成感を、今でも指先が覚えている。
現実の世界で、御影晃は何者でもない。成績は中の上、運動は下の中、友人は広く浅く、部活は帰宅部。クラスでの印象を一言で表すなら「いい人だけど、いなくても困らない人」だろう。自分でもそう思う。
けれど画面の向こうでは違った。「GRID:VANGUARD」のランキングボードに刻まれた名前、ハンドルネーム「Reticle」。全国ランカー上位三十二位。匿名の数字だけが、晃が確かに何かを成し遂げた証拠だった。
スマートフォンが振動した。
通知バーにメッセージが表示される。送信者は「Specter」。ギルドメンバーの一人で、晃が最も多く対戦を重ねた相手だった。顔も本名も知らない。声だけはボイスチャットで聞いたことがある。少しハスキーな声で、負けたときに必ず「あー、やられた」と笑う、その笑い方が好きだった。
メッセージはたった一行。
「明日も対戦しよう」
晃は口元を緩めた。こういう何気ない一言が、一日の始まりを少しだけ軽くしてくれる。明日も対戦しよう。明日がある。当たり前のことを当たり前に約束できる相手がいる。それだけで通学路の景色が少しだけ明るく見えた。
返信を打とうとして、親指が画面の上で止まった。
何と返せばいいだろう。「了解」では素っ気ない。「楽しみにしてる」では重い。「おう」ではSpecterとの距離感に合わない。感情を言語化するのが苦手な自分が嫌になる。ゲームの中では的確に状況を伝達できるのに、たった一行の返信に迷う。
親指がフリック入力の「り」を押したところで、地下通路に差しかかった。
駅前に抜ける近道だった。コンクリートの壁に蛍光灯が等間隔に並び、足元にはタイル張りの床が続いている。朝の時間帯にしてはすれ違う人がいない。蛍光灯の一本が切れかけていて、不規則な明滅を繰り返している。
その明滅が、止まった。
すべての蛍光灯が同時に消え、地下通路が一瞬だけ完全な暗闇に沈んだ。
晃が足を止めるより先に、足元が光った。
タイルの継ぎ目に沿って、見たことのない紋様が浮かび上がっていた。幾何学的な線が円を描き、円が連なって格子を編み、格子がさらに複雑な図形を構成していく。蛍光灯とは違う、青白い光。冷たくて、それでいて脈動するように明滅する光が、足元から這い上がるように広がっていった。
何だこれ。
思考が追いつかない。足が動かない。動かないのではなく、動かせないのだと気づいたとき、左鎖骨の下が熱くなった。
生まれつきある痣。変な形のアザ。医者には「母斑の一種でしょう」と言われ、母には「パパにも似たようなのがあったよ」と言われ、それ以上気にしたことはなかった。その痣が、燃えるように熱い。シャツの下で何かが脈打っている。心臓の鼓動とは違うリズムで、痣そのものが呼吸しているような律動だった。
足元の幾何学紋様が一段階、輝度を増した。光が地面から柱状に立ち上がり、晃の身体を包み込んでいく。イヤホンからゲームのBGMがノイズに変わり、途切れ、沈黙した。スマートフォンの画面が激しく明滅して、Specterへの返信途中の文字が歪む。
声が出なかった。叫ぼうとしたのに、喉が凍りついたように動かない。光の柱が視界を白く塗り潰していく中で、晃の身体が浮き上がるような感覚があった。重力が消えたのではない。重力の方向が変わったのだ。足元ではなく、もっと遠くの、想像もつかないどこかに向かって、自分の存在そのものが引きずり込まれていく。
恐怖。純粋な恐怖が脊髄を駆け上がった。
混乱の中で、脳裏を一つの思考がよぎる。
母さんに行ってきますって言ったっけ。
言っていない。口の中で呟いただけだ。声にしなかった。いつものように、声にしなかった。
それが、途方もなく取り返しのつかないことのように思えた。
光が視界を完全に呑み込んだ。スマートフォンが手から滑り落ちる感覚が、指先にだけ残った。Specterの「明日も対戦しよう」という文字と、打ちかけの返信が、意識の最後の縁に張りついて消えた。
明日。
明日はあるのだろうか。
暗転。
最初に感じたのは、砂の匂いだった。
乾いた、鉄錆を含んだ砂の匂い。頬に触れる地面がざらついていて、コンクリートでもアスファルトでもタイルでもない。指先が砂利を掴み、それが赤みがかった色をしていることに気づいた。
晃は顔を上げた。
赤錆色の荒野が、果てしなく広がっていた。
地平線まで続く赤茶けた大地。風化した岩の柱が所々に突き立ち、その間を鉄粉混じりの風が吹き抜けている。地面には深い亀裂が走り、亀裂の縁が錆びた金属のように赤黒く変色していた。空気が乾いていて、喉の奥が一呼吸で痛んだ。
空を見上げて、息が止まった。
月が、二つあった。
夕暮れの空に、銀白の月と赤銅の月が並んで浮かんでいる。太陽は地平線の向こうに沈みかけていて、空の半分が深い紫色に染まり、もう半分がまだ燃えるような橙に残っていた。その境界線の上に、二つの月。大きさも色も異なる二つの天体が、地球の月とは比較にならない近さで天空に存在している。
ここは、どこだ。
身体を起こそうとして、全身が悲鳴を上げた。筋肉の一本一本が引き攣るような痛みが走り、関節がきしむ。制服のブレザーの右袖が肘のあたりから裂けていて、露出した腕に細かな擦り傷がいくつもあった。眼鏡は奇跡的に無事だったが、フレームが僅かに歪んでいる。
ポケットを探った。スマートフォンがあった。画面は真っ暗で、どのボタンを押しても反応しない。電源が切れたのか、壊れたのか。Specterへの返信は、送れたのだろうか。送れていないだろう。分かっている。分かっているのに、何度も電源ボタンを押してしまう。
周囲を見回して、二度目の呼吸が止まった。
金属の残骸が散乱していた。巨大な、人の背丈を遥かに超える金属の塊。腕のような形状、脚のような構造、頭部のようなシルエット。それらが赤錆に覆われ、砂に半ば埋もれ、荒野のそこかしこに打ち捨てられている。墓場だ。機械の墓場だ。何十体、いや何百体もの人型の機械が、朽ち果てた姿で大地に横たわっている。
そして、その墓場の中心に、それは在った。
全高十二メートル。
片膝をつき、頭を垂れるように前傾した姿勢で沈黙する人型機械。周囲の残骸が赤錆に蝕まれているのに対し、その機体だけは装甲の表面に鈍い銀灰色の光沢を残していた。傷だらけだった。装甲板のあちこちに斬撃や衝突の痕跡があり、左肩の装甲は大きく欠損している。それでもなお、この機体だけが「死んでいない」ことが直感的に分かった。
墓場の中で、ただ一機だけ、眠っている。
晃は立ち上がった。膝が笑っていた。恐怖で視界がぐらぐら揺れている。逃げたい。どこに逃げればいいのかも分からないけれど、この場所から離れたい。けれど足が、その機体に向かって歩いていた。
近づくにつれて、その巨大さが実感として迫ってきた。膝をついた状態でも、頭部は三階建ての建物に相当する高さにある。装甲の一枚一枚が晃の身体より大きく、関節部の構造は精密な機械工学の産物であることが一目で分かった。ゲームの中で見慣れたロボットとは違う。これは本物の金属であり、本物の質量であり、本物の存在感だった。
胸部装甲が、開いていた。
まるで扉のように左右に展開した装甲板の奥に、空洞が覗いている。人一人がちょうど座れるほどの空間。座席のようなものがあり、その周囲に配管やケーブルが這い回っている。コックピット。その言葉が頭に浮かんだ。開いた胸部が、晃を見下ろしている。待っている、と思った。理由もなくそう思った。この空洞は、ずっと誰かを待っていて、そしてその誰かが来たことを知っている。
左鎖骨の下が、再び熱を持った。
痣が光っていた。シャツの布地を透かして、幾何学的な紋様が青白く浮かび上がっている。生まれてから十六年間、ただの痣だと思っていたものが、脈動し、発光し、足元の地面すら微かに照らしている。その光のリズムが、目の前の機体の胸部装甲の奥から漏れる微光と、完全に同期していた。
機体の頭部で、何かが灯った。
センサーアイ。頭部の装甲の奥に埋め込まれたレンズ状の構造物が、淡い光を宿して瞬いた。一度、二度、三度。まるで長い眠りから目を覚ますように、まるで晃の存在を確認するように、光が明滅を繰り返した。
怖い。怖い。何がどうなっているのか分からない。ここがどこなのか分からない。帰り方が分からない。母の顔が浮かぶ。ソファで眠る母の横顔。かけてやった毛布。声にしなかった四文字。
それでも手が伸びた。
自分の意志なのか、それとも痣が——刻印紋が導いているのか、その境界が分からないまま、晃の右手が機体の装甲に触れた。
指先が冷たい金属に接触した瞬間、世界が弾けた。
膨大な情報が流れ込んできた。映像ではない。音声でもない。言語ですらない。構造、回路、動力、履歴、記憶——機体のすべてが同時に晃の神経に押し寄せ、脳が処理しきれない情報量に悲鳴を上げた。頭の中で何千ものウインドウが同時に開くような感覚。ゲームのHUDが過負荷でフリーズする直前の、あの一瞬に似ていた。
視界が白く染まっていく。意識が遠のく。指先の感覚だけが最後まで残っていて、金属の冷たさと、その奥にある微かな温もりを感じていた。
機体が。
この機体が。
名前を。
意識が闇に落ちる寸前、流れ込んだ情報の奔流の中に、一つだけ明確に読み取れたものがあった。文字ではない。概念に近い何かが、痣を通じて直接脳に刻まれた。
ヴァルトラウテ。
それがこの機体の名前なのだと、理解する間もなく、御影晃の意識は途絶えた。
赤錆色の荒野に、少年の身体が崩れ落ちる。二つの月が静かにその光景を照らしていた。銀白のゼルダと赤銅のカルマ。異質な天体が見守る大地の上で、目覚めた機体のセンサーアイだけが、倒れた少年に向けて光を灯し続けている。
ポケットの中で、死んだスマートフォンが沈黙していた。画面には何も映らない。Specterの「明日も対戦しよう」という言葉も、打ちかけの返信も、もう表示されることはない。
言えなかった「行ってきます」と、届かなかった返信。
二つの言葉が宙に浮いたまま、少年の日常は断ち切られた。




