第二章 灰瞳の異邦人
最初に感じたのは、冷たさだった。
背中を押しつける硬い感触。肌を刺すような空気の質感。それから、鼻腔の奥を掻くような消毒薬に似た匂い――いや、違う。もっと粗く、薬草を煮詰めたような、嗅いだことのない匂いだった。
御影晃は、そこで意識が浮上した。
瞼をこじ開けると、ぼやけた視界の中に灰色の天井があった。石だ。継ぎ目の粗い切石が並び、蝋燭の火らしき揺らめきが壁に影を落としている。眼鏡がない。いや――左のこめかみに何かが引っかかっている。手を伸ばすと、歪んだフレームに指先が触れた。眼鏡は外れかけたまま顔に残っていた。慌てて直し、レンズ越しに世界の輪郭を取り戻す。
見えたのは、見知らぬ部屋だった。
石造りの壁。木枠の窓に嵌められた厚い硝子。使い込まれた木製の棚に並ぶ硝子瓶と布の束。自分が横たわっているのは、簡素な鉄枠のベッドだった。掛けられた毛布は粗い織りで、染料のむらがそのまま残っている。
軍医務室。言葉にすればそうなるのだろうが、晃がその単語を思い浮かべられたのは、もう少し後のことだった。
右腕を持ち上げようとして、制服の袖が肘のあたりで裂けていることに気づいた。紺色のブレザーの布地が無残にほつれ、その裂け目を粗い革紐のようなもので縛ってある。誰かが応急処置をしたのだ。自分ではない。
左鎖骨の下が、微かに熱い。
あの痣だ。幾何学的な形をした、生まれつきの痣。昨日まで何の意味もなかったそれが、今は皮膚の下から薄い燐光を放つように疼いていた。指先で触れると、熱は脈拍に合わせて明滅しているようだった。
――何が、起きた。
記憶が断片的に蘇る。朝の通学路。地下通路。足元を浸した白い光。そして赤錆色の荒野と、巨大な金属の膝。あの人型の機械に触れた瞬間、頭蓋の内側を情報の奔流が焼いて――。
石の壁に反響する足音が、回想を遮った。
重い。等間隔の、揺るぎのない足音。軍靴だ、と晃の頭の片隅が判断した。根拠はない。ただ、そう思わせるだけの圧があった。
扉が開いた。
入ってきたのは、大きな男だった。大きい、という表現では足りない。百八十を優に超える長身に、鎧の下でも明らかに分かる厚い筋肉の層。濃紺の軍服の上に革と金属の装甲板を重ね、腰には長剣と短剣を帯びている。髪は鉄錆色で短く刈り込まれ、顔の造作は精悍だが、どこか磨耗したような陰を帯びていた。
そして目。鉄灰色の瞳が、晃を射抜くように見据えていた。
その視線の冷たさに、晃は本能的に毛布を握り締めた。
男の半歩後ろに、もう一人。こちらは女性だった。プラチナブロンドの髪を固く編み上げ、軍服の上に灰白色の外套を纏っている。背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、翡翠色の目は感情を注意深く抑制した色を湛えていた。左袖の袖口に何か刺繍が施されているのが見えたが、晃にはその意味を読み取る余裕はなかった。
男が口を開いた。
聞こえた音は、晃の知るどの言語でもなかった。硬い子音と長い母音が交互に連なる、ゲルマン系の響きに似た、しかし明らかに異なる言葉。だが奇妙なことが起きた。音が耳に届いてから一瞬遅れて、その意味が頭の中に滲むように浮かび上がったのだ。完全ではない。単語の半分ほどが欠落し、抽象的な概念は霧がかかったように曖昧になる。それでも、骨格は理解できた。
――名を名乗れ。どこから来た。
それが男の第一声だった。
左鎖骨下の痣が、じわりと熱を帯えた。言語変換。昨夜、あの機械に触れたとき流れ込んだ情報の一部が、翻訳機能のように作動しているのだと、晃は後に理解することになる。しかしこの時点では、ただ「なぜか意味が分かる」という異常に混乱するばかりだった。
「み、御影。御影晃」
自分の声が震えていた。喉が干上がっている。何時間眠っていたのか分からない。
「ミカゲ・アキラ」
男がその音を反芻した。硬質な発音で繰り返されると、自分の名前が別の何かのように聞こえた。男は一つの単語を発した。それは「出自」あるいは「所属」に近い意味だと、遅れて脳が翻訳した。
「日本。神奈川県。……えっと、高校一年で――」
男の眉が僅かに寄った。晃の言葉がこちらの言語に変換されて届いているのかどうか、確信が持てなかった。いや、音としては届いているのだろう。だが「日本」も「神奈川県」も、この世界には存在しない固有名詞だ。変換のしようがない。男の隣の女性がわずかに首を傾げたのが見えた。
「ニホン。カナガワ。聖皇国の版図にはない地名だ」
男の声は低く、感情を削ぎ落としたようだった。
「聖皇国……? いや、だから俺は、この世界の人間じゃなくて――」
「スパイか」
遮るように、男が一歩前に出た。その一歩で部屋の空気が凝縮した。鉄灰色の瞳が晃の顔を、制服を、左鎖骨の下をなぞるように見た。
「隣国連合の間者が偽の刻印紋を刻み、ヴァルトラウテへの接触を図った。そう考えるのが最も合理的だ」
晃の口が乾いた。スパイ。間者。その意味は翻訳を待つまでもなく理解できた。声の裏に横たわる殺意に近い警戒が、肌を粟立たせた。
その時、女性が口を開いた。
「ダリウス団長」
声は静かだったが、男の言葉を確実に止める力があった。
「刻印紋の反応パターンを確認しました。あれは生得のものです。後天的な刻印や移植では再現できない波形が出ています。偽装は不可能です」
レーナ。その名が頭に浮かんだのは、晃自身の推測ではなく、刻印紋の言語変換が女性の階級と名を断片的に拾い上げたからだった。レーナ・フォン・ベルツ。副官。そして男の名は――ダリウス・ヘルムガルド。鉄槌旅団の団長。
ダリウスはレーナの報告を聞き、数秒の沈黙の後、視線を晃に戻した。疑いは解けていない。ただ、一つの可能性が排除されただけだ。その程度の猶予を、男の目は語っていた。
沈黙が部屋を満たした。
そして、晃の中で何かが決壊した。怖いときほど口数が増える。それは昔からの癖だった。黙っていると恐怖が膨張して自分を押し潰す。だから言葉で埋める。意味があるかどうかは関係ない。声を出し続けることで、辛うじて思考の輪郭を保つ。
「……待って。待ってくれ。整理させて」
眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてはいなかった。
「俺は昨日の朝、学校に行く途中で地面が光って、気がついたら荒野にいた。あの、でかい鉄の……機械みたいなのがあって、触ったら意識がなくなって、それで今ここにいる。スパイとか間者とか、そんなのじゃない。そもそも俺はこの世界のことを何も知らない。聖皇国も隣国連合も、今初めて聞いた。ヴァルトラウテっていうのがあの機械のことなら、昨日生まれて初めて見た。何がどうなってるのか、俺が一番分かってない」
一息に吐き出した。途中から声が裏返りかけたのを、唾を飲み込んで押し戻した。
ダリウスは微動だにしなかった。晃の言葉を聞いているのか、聞き流しているのか。鉄灰色の瞳は表情を映さない鏡のようだった。
だが次の言葉は、晃の予想を遥かに超える残酷さで落ちてきた。
「選択肢は二つだ」
ダリウスの声は静かだった。怒りでも脅しでもない。ただ事実を述べるように。
「ヴァルトラウテに乗り、戦力として機能しろ。あるいは——」
一拍の間があった。
「刻印紋適合者が敵に渡る可能性を排除する。それが軍規だ」
乗るか、死ぬか。
その二択が意味するところを、晃の脳は正確に理解した。言語変換の不備を超えて、言葉の温度と重さが直接骨に伝わった。
口が、閉じた。
声が出ない。つい数秒前まで溢れるように言葉を吐いていた口が、完全に凍りついた。心臓が速い。速すぎる。視界の端が暗くなりかけ、毛布を掴む指先が白くなった。
乗るか、死ぬか。
そんなの、選択肢じゃない。どちらも無理だ。巨大な鉄の塊に乗って戦争をしろ? 昨日まで学校に通っていた高校一年生に? 体力測定はクラスの下から数えた方が早い、喧嘩なんて一度もしたことのない人間に?
――無理だって、こんなの。
声にならなかった。唇が動いただけだった。
だが、その凍りついた視界の中で、晃はダリウスの目を見ていた。
鉄灰色の瞳。冷徹で、容赦がなく、一切の同情を排除した目。けれどその奥に、晃は何かを見た。正確に言語化できるものではなかった。ただ、疲弊している、と感じた。そして微かに、苦しんでいる、と。
あの男は、この言葉を言いたくて言っているのではない。
その直感がどこから来たのか、晃には分からなかった。けれど確かに感じた。ダリウスの目の奥に沈む、何かを押し殺したような暗い影を。
素人が戦えば死ぬ。
ダリウスはそれを知っている。知っていて、なお「乗れ」と言わなければならない。それが、この男の立場なのだ。
沈黙を破ったのはレーナだった。
「……最低限の説明をする。聞け」
翡翠色の目が晃を見据えた。そこにあるのは同情でも敵意でもなく、ただ状況を正確に伝えようとする意志だった。
「ここはヴァルケン聖皇国。前線城塞都市アイゼンヴァッヘだ。我々は現在、隣国連合——シュヴァルツ・ブントと戦争状態にある」
戦争。その単語は翻訳を介さずとも、音の響きだけで意味を伝えてきた。
「お前が触れた機体は古代機鋼騎兵ヴァルトラウテ。数百年前に建造された兵器だ。起動には特定の刻印紋——お前の左鎖骨下にある紋様と共鳴する核機関が必要となる。これまで複数の適合者が起動を試みたが、全て拒絶された」
レーナが一度言葉を切った。その沈黙には重みがあった。
「お前がこの世界のどこから来たのか、なぜ刻印紋を持つのか。それは現時点では不明だ。だが一つだけ確定している事実がある」
ヴァルトラウテを起動できる刻印紋適合者は、お前だけだ。
その一文が、晃の胸の中に石のように沈んだ。
俺だけ。
俺じゃなくてもよかっただろ——その言葉が喉元まで昇りかけて、飲み込んだ。言ったところで何も変わらない。この人たちは答えを持っていない。
ダリウスがもう一度だけ晃を見て、それから背を向けた。扉に向かう足音は来たときと同じ、重く等間隔だった。レーナがその後に続き、扉が閉まる直前に振り返って言った。
「休め。明日、格納庫に来い」
それだけだった。扉が閉じ、足音が遠ざかった。
一人になった。
石造りの部屋は静かだった。蝋燭の火が揺れるたびに壁の影が伸び縮みし、どこかで金属同士がぶつかるような遠い音が断続的に響いている。軍靴の足音。荷車の軋み。誰かの怒声。城塞都市は生きている。戦争の最中にある都市が、夜を通じて動き続けている。
晃はゆっくりとベッドから足を下ろし、窓に近づいた。
厚い硝子越しに見えたのは、夜空だった。二つの月。銀白の月と赤銅の月が、地球では決してありえない配置で空に浮かんでいる。その光に照らされて、城塞都市の石壁と鉄塔の輪郭が浮かび上がり、壁の向こうには荒野が広がっていた。赤錆色の大地。所々に突き出す金属の残骸。折れた巨大な腕。半ば土に埋もれた鋼の脚。あれらは全て、かつての機鋼騎兵の残骸なのだろう。兵器の墓場だ。
帰れない、と思った。
ここがどこなのかも分からない。帰り方も分からない。電話もない。インターネットもない。母さんは気づいているだろうか。息子が帰ってこないことに。夜勤明けで眠っていたあの人は、今頃――。
ポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、見慣れた長方形の感触。スマートフォン。取り出して画面を押したが、何も表示されない。電源が入らない。充電切れなのか、それともこの世界では電子機器自体が機能しないのか。どちらにしろ、結果は同じだった。
もう動かない。
それでも晃はスマートフォンをポケットに戻さなかった。両手で包むようにして握り、もう一度窓の外を見た。二つの月の光が、死んだ画面に反射して小さく光った。
Specterから来たメッセージ。「明日も対戦しよう」。あの返信を、まだ打っていない。
左鎖骨の下の痣が、脈拍に合わせて微かに熱を発し続けていた。その熱だけが、この冷たい石の部屋の中で、唯一自分と外界を繋ぐものだった。
晃はスマートフォンをポケットの奥に押し込み、毛布を引き寄せて、窓に背を向けた。
眠れるはずがなかった。けれど横にならなければ、明日動けない。格納庫に来い、とあの副官は言った。明日何が起きるのか分からない。自分がどうなるのかも分からない。分からないことだらけの世界で、確かなことは一つだけだった。
ここにいるのは、自分だけだ。
暗い医務室の中で、晃は眼鏡をかけたまま目を閉じた。




