名を呼ばない理由
◆ 精霊界/中層・調律の庭
(精霊視点)
精霊界において、“異変”という言葉はほとんど使われない。
秩序が崩れれば、即座に破綻として扱われる。
崩れないものは、すべて「流れの中」に分類される。
だが――
今回の件は、そのどちらでもなかった。
「境界は、安定している」
「歪みはない」
「だが、応じた」
調律の庭に集まった精霊たちは、同じ記録を何度も確認していた。
人界・王国アステル。
特定の個体に対し、境界が“拒絶を行わなかった”。
これは、極めて稀な事象。
「精霊契約ではない」
「加護でもない」
「干渉もしていない」
それでも、世界は整った。
それが問題だった。
⸻
◆ 精霊界/上層手前
(上位精霊)
「女王へ、報告すべきか」
その問いに、即答はなかった。
精霊女王は、秩序の象徴。
安易な報告は、世界を揺らす。
「まだだ」
「名を呼ぶ段階ではない」
観測対象は、力を行使していない。
意図的な介入も確認されていない。
ただ、“在る”だけ。
「……在り方が、秩序に近すぎる」
誰かが、そう漏らした。
近い。
だが、同一ではない。
それが、精霊たちを迷わせていた。
⸻
◆ 記録層
(精霊)
観測記録は、慎重に分類された。
危険:なし
干渉:なし
影響:なし
だが、備考欄には短い一文が追加される。
――境界が、調律を要さなかった。
それは、本来あり得ない評価だった。
⸻
◆ 精霊界/静域
(精霊)
精霊界は、結論を急がない。
急ぐ必要がないからだ。
精神体である彼らに、期限は存在しない。
世界が続く限り、観測は続く。
「見守る」
「触れない」
「名を呼ばない」
それが、今回の合意だった。
⸻
◆ 人界/王国アステル・同時刻
(遠景)
人界では、何も起きていない。
王都は平和で、
冒険者ギルドも、
教会も、
いつも通り。
観測対象――ミリアもまた、
その日を“普通”として過ごしている。
⸻
◆ 精霊界/最終判断
「もし、再び境界が応じたなら」
「その時は?」
「……女王へ」
精霊たちは、それ以上を語らなかった。
まだ、呼ばれていない。
だが、忘れられてもいない。
精霊界は、
静かに“注意”を向けたまま、
再び沈黙へ戻る。
――名を呼ばぬまま。




