第1話 処刑されたら朝が来た
刃が落ちてくる。
鈍く光るそれを、セレナはぼんやりと見上げていた。
逃げることはできない。
両手は拘束され、首は固定されている。
あと少し。
あれが落ちれば、すべて終わる。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、もう泣く気力も残っていなかった。
セレナは目を閉じた。
――痛いのかしら。
そんな、どうでもいいことを考えた。
風を切る音がした。
そして。
鋭い衝撃が――
来なかった。
柔らかい。
最初にそう思った。
頬に触れているものが、ひどく柔らかい。
次に感じたのは、温かさだった。
薄い布越しに朝の日差しが差し込んでいる。
鳥の声がする。
どこかでカーテンが揺れていた。
セレナはゆっくりと目を開けた。
「……?」
白い天蓋。
見覚えがある。
けれど、ずいぶん昔に見たような気もする。
身体を起こそうとして、また違和感を覚えた。
身体が軽い。
いや。
小さい。
シーツの上についた自分の手を見て、セレナは動きを止めた。
「……なに、これ」
小さな手だった。
指も、手のひらも。
どう見ても大人のものではない。
慌てて髪に触れる。
短い。
腰まで伸ばしていたはずの銀髪が、肩の少し下までしかない。
セレナはベッドから降りた。
足が床につくまでが遠い。
降りるというより、ほとんど飛び降りるような形になった。
裸足のまま鏡へ向かう。
そして、立ち尽くした。
鏡の中から、一人の少女がこちらを見ていた。
銀色の髪。
青い瞳。
まだ丸みの残る頬。
細い肩。
小さな身体。
「……私?」
頬に触れる。
鏡の中の少女も同じように頬へ触れた。
見間違えるはずがない。
何度も肖像画で見た。
幼い頃の、自分。
「どういう……」
夢だろうか。
けれど、夢にしては感触が鮮明すぎる。
それとも、死後というものはこういうものなのだろうか。
死ぬ直前に見るという走馬灯?
でも、走馬灯の中で自分の意思で動けるものなのだろうか。
分からない。
何一つ分からなかった。
さっきまで、自分は処刑台にいた。
刃が落ちた。
確かに落ちた。
なのに。
「セレナ? まだお支度していないの?」
声がした。
セレナの身体が固まった。
息が止まる。
知っている。
忘れるはずがない。
もう一度聞きたいと、何度願ったか分からない声。
ゆっくりと振り返る。
扉のところに、一人の女性が立っていた。
淡い銀色の髪。
優しい青い瞳。
記憶より若い。
頬には血色があり、病に痩せた面影などどこにもない。
「……お母、様?」
母が不思議そうに瞬きをした。
「どうしたの?」
次の瞬間には、セレナは走っていた。
「お母様……!」
「きゃっ。セレナ?」
抱きついた。
けれど腕が届くのは母の腰までだった。
小さな腕で、ドレスを掴む。
温かい。
その身体は温かかった。
ちゃんと息をしている。
頭の上から声がする。
「どうしたの、急に」
母の手が背中に触れる。
抱き返してくれる。
それだけで、もう駄目だった。
「お母様……っ」
「ええ」
「お母様……」
「ここにいるわよ」
何か言おうとした。
でも言葉にならなかった。
喉が詰まって、代わりに涙ばかりがこぼれる。
母のドレスに顔を押しつけた。
懐かしい香りがした。
幼い頃は当たり前すぎて、気にも留めなかった香り。
もう二度と嗅ぐことはないと思っていた。
母は何も聞かなかった。
ただ困ったように笑いながら、小さな背中を何度も撫でてくれた。
その手が動くたびに、セレナの涙は増えた。
◇
「少し落ち着いた?」
「……はい」
恥ずかしい。
あれだけ泣いたせいで、目元が熱い。母はそんなセレナの髪を梳かしながら、鏡越しにこちらを見ていた。
「怖い夢でも見たのかしら」
「……夢」
セレナは小さく繰り返した。
夢。
そうだったら、どちらが夢なのだろう。
処刑された人生?
それとも今?
視線を落とした先に、卓上暦があった。
書かれている年を見て、セレナは息を呑んだ。
もう一度見る。
間違いではない。
記憶を辿る。
自分は六歳。
処刑される十数年も前。
母が生きていた頃。
セレナは膝の上で小さな手を握った。
理由は分からない。
神の慈悲なのか。
死の間際に見ている夢なのか。
本当に時間が戻ったのか。
何も分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
振り返れば、母がいる。
生きている。
なら。
今度こそ。
今度こそ、お母様を失いたくない。
何ができるかなんて、まだ分からない。
それでも、前と同じ人生にはしたくなかった。
「さあ」
母がセレナの髪を整え終えた。
「いつまでも寝間着ではいられないわよ。今日は大切な日なのだから」
「……大切な日?」
母の手が止まった。
「あら」
不思議そうにセレナを見る。
「忘れてしまったの?」
「何を、ですか?」
「王宮へ伺う日でしょう?」
セレナの胸が、嫌な音を立てた。
「……王宮?」
「ええ」
母は何も知らずに笑っている。
「アルベルト殿下も、あなたにお会いするのを楽しみにしていらっしゃるそうよ」
セレナは動けなくなった。
アルベルト。
アルベルト・エルグラン。
この国、エルグラン王国の王太子だ。
その名前だけで、記憶が蘇る。
冷たい目。
リリアを毒殺しようとした。
そう決めつけられた。
何を言っても信じてもらえなかった。
そして最後には。
自分を処刑した男。
セレナはもう一度、日付を見た。
ようやく思い出す。
六歳の、この日。
母に連れられて王宮へ行った。
そして――
アルベルトと初めて会った。
「セレナ?」
「……なんでもありません」
鏡へ視線を戻す。
そこには六歳のセレナがいた。
その背後で、母が楽しそうに二着のドレスを並べている。
「どちらがいいかしら。アルベルト殿下との初めてのお顔合わせですもの」
セレナは鏡の中の自分を見つめた。
十数年後。
自分の処刑を見届けることになる男。
そのアルベルトと。
今日、初めて出会う。




