ハイドアンド・シーク【6】
「先ほどの疑義につきまして、つけ加えたき事実がございます。お話し中、口をさしはさむこと、どうかお許しください」
ピーアはそっと半歩を後ずさり、フランツ王子の背に隠れた。進みでた魔道士より顔と魔力痕を隠した。遅いとはわかっている。つい先ほどまで、魔道士部隊の副官、副長、小隊長の指揮官クラス三人が固まってこちらを観察していたのだ。隊長であるアルニム少佐の命令があれば、……いや助けを求める目配せ一つがあれば彼らは動いていたはずだ。戦闘態勢をとりながら会場に散った残りの隊員の指揮をとり、フランツ王子の喉元に魔道刃の切っ先を突きつけていたはずだ。
暴挙と言うなかれ。戦争を売られた。奴らが椎反射に火蓋を切る理由ならそれで充分なのだ。
戦場あがりの軍人の頭なんてネジの一本や二本がぶっとんでいると身構えていてちょうどよい。
首を、狩る。物理的に斬りおとす。骨と肉のゴリゴリとした手応え。肉片混じりの返り血を当然と受け入れる。たとえ魔獣相手であったとしても。生き物にそれができる心理状態はあまりマトモではない。食べるための家畜ですら、分業化の進んだ皇都では命を奪う場面を見る機会は減ってきている。魔道士部隊は効率を試行錯誤する領域に達した専門家たちだ。
「なんだ」
尊大な口調に、主催者である王子が許可を与える。
ああ、彼らに弁明の機会を与えてしまった!
伝統にのっとり投げつけられた手袋を、これまた古式ゆかしく『よろしい、ならば戦争だ』と拾う軍人がこの場にいなかったことを、王子は全世界に、なによりアルニム少佐に感謝すべきだった。せめてここで引いておくべきだったのだ。
彼女一人に対する罵倒であればまだ、これは色恋沙汰の縺れと取り繕うこともできた。ピーアが狙ったとおり、どこにでもある三角関係、ただの浮気と開き直ることもできたと言うのに。
「有り難く存じます。第五王子殿下」
決意に満ちた不動の体勢。やるつもりだ。男は王子と伯爵令嬢の間に割り入った。上官からの、下がれの命を振りきった。不退転の姿勢を示すマルクス・ミュラーは王子からの喧嘩を買った。
仲間を庇う。その行動を、タリスマンの全員が是として見守っている。
つまり部隊をまきこんだ。出てくるのは軍部だ。ピーアの横手に片眼鏡を光らせる軍部尚書が出てくる。当代の軍務尚書である中将は人格者との評判だが、無能ではない以上、自身の権限が削られることを良しとはしないだろう。
とてもじゃないが恐ろしくて振り返れない。王族が相手であろうが、己の領分に手を突っこまれた軍隊が無抵抗であるなんて幸運はありえない。まぁまぁあとはお若い二人でどうぞ話し合って、なんて生ぬるい軟着陸はもはや期待できそうもない。
詰んだ。
「アルニム少佐率いる我々魔道士部隊タリスマンが後退したのは負傷兵の後送のためです。魔獣の攻勢に対し、遅滞防御を試みながらです。おっしゃるような敵前逃亡ではありません」
もちろん知っている。負傷兵のなかに彼自身が含まれていたこともだ。あの状態で前線に留め置かれていれば、マルクス・ミュラー大尉はこのような場に立つことなく、冷たい北方の大地に埋まっていただろう。怪我よりも、魔獣よりも、おそらく冬の寒さに食われていただろう。自然のまえに人は無力だ。戦うことすらできない。現場指揮官の迅速な判断、そして行動によって男は救われている。
問題なのは、ピーアですら知っていることを、王子が知らないということだ。
苦境にあった友軍、輜重隊への援護のために。単騎、吹雪の悪天候下、魔獣に襲われていた彼らのもとへ駆けつけた大尉の英雄的行為。彼が前線より下がる理由となったそれを、彼の胸に勲章をつける王子が知らないという大恥を、身内のみならず欧州各国外交官の前にさらしているという事実。
……喜べばいいのか? 恐れるべきなのか?
ピーアの立場としてはとにかく逃げたい。これ以上がまずいということだけはハッキリわかる。
「隣国の戦闘部隊と接触したのは国境線沿いでの戦闘となったためです。互いの領分を侵さないための協議でした」
隣国。王国をそうと言い換えたのは、敵国への情報漏えいとの指摘があったからだろう。隙のない言い回し。おまけに嘘は言っていない。このような状況にあっても、怒りに目をくらませることなく、逆に舞い上がってもいない。
抑制された、冷静な声と表情。マルクス・ミュラーの頭は素早く回転している。
「ローレンツ大佐の戦死は不幸な事故です。我々は護国のために最良を尽くしました。雪に視界を遮られる最前線にあって兵を鼓舞し続けたアルニム少佐の不屈の指揮があったからこそ、致命的となる部隊の離散を防ぐことができたのです」
不幸な事故。それは後ろから撃たれた横暴な上官の最期にも使われる便利な口前だ。治療所にてピーアの耳に聞こえてきたローレンツ大佐の評判は散々だった。位階を持っているだけのボンボンは兵の扱い方も知らないとの陰口を叩かれていたが、それは薬に溺れてからだ。当初はそう悪くもなかった。格段良くもなかったけれども、手堅い兵運用を行っていたはずだ。従来の戦法に拘りすぎ、魔道士に対する偏見を捨てることはできなかったとはいえ。
「犬に庇われるとは。悪役令嬢には似合いだな」
ひそり、伏せていた目を剥く。
歯噛みする。王子の腕をつかみ、さりげなく制止する。
王子。このやろう。
少し考えればわかるだろう。
戦場のイヌどもが集うこの場でそれだけは言っちゃいかん。
ポメラニアンがドーベルマンの群に喧嘩を売るんじゃない。
そして確信もした。王子が述べた疑義に対し、淡々と一つずつ、否定の言葉を述べていくマルクス・ミュラーはつまりミュラーだ。これだけの誹謗を受けて平然と眉一つ動かさないツラの皮の厚さときたら!
共和国、連邦との国境線を有する帝国辺境領に居を構える戦闘民族の一員。この髪色で、この容貌だ。最強伯と同じ血脈。最悪の場合として直系。へりくだっていると見せかけての不敵さ。不遜さ。慇懃無礼が魔道士の礼服を着ている。二十台半ばのはずだが、度胸の据わり具合はすでに歴戦のソレ。狡猾ですらある。先陣をきって場を掌握する。己の魅せ方を理解している。無実と正当性、なんなら敢闘精神を訴えるイメージ戦略までもを意識できる軍人は数少ない。
─── どうする。どうなる。どう対処すべきだ!?
脳内にかき鳴らされるレッドアラートが邪魔をして、うまく考えることができない。
「殿下。私が受けているのは刑事訴訟でしょうか」
惜しい。でも違う。アルニム少佐、あなたはちょっと黙ろうか。お口にチャックしててくれるかな?
わたしは今、あなたの隣に立つ怖いお兄さんをやり過ごす手段を考えるので頭がいっぱいだ。ボケに対するツッコミ比率の圧倒的不足をこれ以上痛感させないで欲しい。
「言い訳は見苦しいぞ。貴様との婚約を破棄し、俺は清廉潔白なピーア・ベッカーを王子妃とする!」
ホギャア。
声には出さぬ悲鳴をあげた。
後ろから刺された。そんな気分だ。
目的は達したのだ。あとのことなぞ考えず、即座に離脱を計るべきだった。状況さえ許せば、ピーアは素早く大きく腕をふって脱兎のごとく全速力にこの場を離れている。咎め、引きとめられれば「急に気分が悪くなり…」とでもしおらしく真っ赤な大嘘をついている。あるいは貧血を起こした素振りにでも担架で運ばれておくべきだった。諜報員のサガとして、状況を見定めようとしたばかりにタイミングを逃した。
……王子の背後に隠れつつ。ちらっと視線をやった前方には可憐と端整が禁欲的な軍服に身を包み並ぶ。こんな場合でなければ眼の保養と言いたいが。
右手には軍務尚書が。乾杯用だったグラスを手に、口角を上げている。戦争かな、って顔をしている。やめろ。
左手にはブラートフィッシュ侯爵家のご家族が勢ぞろい。夫人がねじりきらんばかりにギチギチと締め上げている扇がなにを模しているかは一目瞭然。わたしではなく王子の首であることがまだ救い。だが伯爵本人のこめかみに青筋が立っているのはここからでも見てとれる。長男からはうちの弟の晴れ舞台を台無しにしたのはコイツらかぁとの視線が飛ぶ。やめろ。
向き合った正面奥。全体を見渡す観の目にとまったご子息、ブレン・ブラートフィッシュ少尉は若き天才と名高く。放火魔とも名高く。…やめろ?
火炎術式の起動準備をやめろや。
チキッ、チキキッ。ブレン少尉体内の魔道回路が音なき音をたてているのがわかる。彼らが魔獣の専門家であるならば、ピーアは人体の専門家だ。回すな。練るな。どんな連立術式だ。喉が引き攣る。こんな場で。火事を起こすつもりか。人を焼き殺すつもりか。いくらスパイが相手でも、自国民に対しては仁義ってものがあるだろう。
しかし視線で人が殺せるならばとっくに、と。縦に引き絞られた瞳孔が言葉よりも雄弁だ。
燃やし、破壊し、進軍する魔道士たちは、手綱を握る隊長からの命令を待っている。
そこへ現れたアルニム伯爵はピーアにとっての救いでしかない。伯爵令嬢であるアルニム少佐こそ冷静だったが、あのまま睨みあっていれば何が起こっていたかわからない。王子も王子で、引き際を定めることもせず始めた騒動は彼ら魔道士部隊の退席によって終わった。長居は無用とばかり。あっさりしたものだ。
アルニム少佐は王子からの婚約破棄を受け入れた。
わたしでもそうする。
気が急いているピーアを引きとめ、フランツ王子は三曲も踊った。あまりにも余裕があるものだから、なんらかの根回し、用意があるのかと疑念を抱いたほどだ。
言うだけ言って、そのあとは?
まさかのノープラン!
お手上げだ。恐るべきことに、生徒会の学生たちはまったくの徒手空拳だった。大人の世界に手や頭を突っこんで、これで終わったつもりだった。
まさか。始まったばかりだろうと、ミュラーならば笑う。あの男は嗤っている。
化粧直しに、と王子から離れ、教会の連絡員とすれ違う。
「プランEへ」
短くそれだけを。軽く顎を引いて応えたフィッシャー伍長がまとうのは帝国軍の軍服だった。
プランE。AからDがあるわけでもなく。Escape、逃亡、脱出の頭文字というだけだ。
ただし、即日の離脱とはいかない。本国からの許可をとる必要があった。良くも悪くもピーアは帝国に根をはりすぎた。浅いものだが、これから深く潜るつもりで伸ばし続けた成果だ。切るには惜しいと考えるアホもいるだろう。どこの世界にも、損きりが不得手な者はいる。幸い諜報部では少数だが、教会との調整が問題だ。
だがこれはまずい。フランツ王子と軍部との対立。許容範囲ではあった。織り込みですらあった。王族と軍部の蜜月にヒビが入るならばけっこうなことだ。だがそれは色恋沙汰の範囲内だ。共和国とて戦争がしたいわけではない。表立った武力対決など誰も望んではいない。
おまけに引き抜きたかった魔道士部隊は警戒心マックスの臨戦態勢に入った。
アホ王子め。
一定の勢力を保つ戦争機関に個人が喧嘩を売るなど、腕っ節に自信がある程度ではまさしく自殺行為だ。
あまつさえ、個人的な恨みを買う?
自滅したいならば一人でやってくれ!
学園に戻ったピーアはオレンジブラウンの髪から飾りを引き千切り、ベッドへと投げつけた。腹立たしい。ワインの一本もあけたいところだ。─── だが動けるのはおそらく今のうちだけだ。監視の網がかかるまでだ。一刻の猶予もない。勝利の美酒へのお誘いをかけてきた王子をやっとふりきったのだ。ピーアは今ゴールではなくスタート地点に立っている。それも、深刻なマイナス地点。早急なダメージコントロールが必要だ。各方面へ連絡をとばす。
逃亡後を考え、諜報員としての痕跡が残っていないかを部屋に念入りチェックしているピーアが失敗したとみるや、本国は指令をよこした。滑りこませた。学園にいるうちに、ということだ。パーティ翌日の夜、ピーアは学園の音楽室へ侵入し、グランドピアノの脚内部に『天球』を仕込んだ。コンサートホールでも存在感のあるサイズのグランドピアノは500キロ近い重量がある。身体強化の術式なしで持ち上げるのは困難だろうし、そもそもピアノの中が空洞だと知らない者もいる。仕込みが発見されるには時間がかかるだろう。
ピーア自身は朝には拘束された。
ただし、牢屋へ直行とはならなかった。
薄暗い尋問室でもなく、豪奢で清潔な要人接遇用の貴賓室へ。
口裏を合わせることを恐れているのだろう。やらかしたあとのフランツ王子とは顔を合わせていない。尋ねたメイドたちの様子を見る限り、おそらくはあちらも軟禁程度は受けている。
二週間。無為な時間を過ごしたところで。学園のチャプレンが面会に訪れた。音の認識阻害術式が刻まれた魔石加工品がテーブルへ。聖職者への懺悔には守秘義務がある。
互い、向かい合って紅茶をあおり、一息。
「しくった」
「ああ。これほどの暗愚とは」
同じ学園の生徒であるフランツ王子へもチャプレンは面会済みだった。当然ながら反省の弁などはなく。王子サマは何に失敗したのかを理解していない。
手早く素早い情報の共有。
アルニム少佐は。
魔道士部隊は。
地に堕ちた英雄、とはならなかった。
むしろ速やかな報復のために動きだしている。
いくつかの予定外。予想外。事態はすでにピーアたちの手を離れている。王国が動きだしたのだ。
麻薬と同様、王国ルートに持ちこまれた『天球』が作動し、ゲートが出現。グリフォンが皇都に現れたまではよい。だがキメラとは?
どいつもこいつも袖の内側にイカサマ用のカードを仕込んでいるらしい。
天使様は間違わない。無謬の存在である。ならば天使様と同等の存在であるゲートなどあるはずもない。以上の制約をもつ共和国では表立って進められなかった研究。
そして畑違いの分野ゆえ、宗教家たちが魔道士部隊の活躍を把握するまでには時間がかかった。
なにがどうしてそうなったのやら。昨日の新聞には次代のミュラー伯爵とその婚約者がカジノ・バーデンのハイローラールームにてナチュラルブラックを決めて大勝ちとの記事が踊る。『彼らの幸運に続け!』だと?
笑うしかない。愉快そうに口角をあげたピーアをよそに、チャプレンは渋い顔だ。
ヤブを突いて蛇を出すどころか。宿敵が出てきた。
アーデルハイト・アルニム少佐は、婚約破棄の場で己を庇った副官、マルクス・ミュラー大尉との婚姻を決めたのだ。
それでも良い面を探そうとしたのか。苦渋に寝言をほざく。
「……物理的な距離は近くなる」
「近くなったから? だからどうした。ミュラーだ。あの、ミュラーだぞ? あそこからなにをどうやって奪うつもりだ?」
王宮から宝物を盗むほうがまだ容易い。
ミュラーは先代も先々代も有能だった。だが今代は別格だった。
共和国が大金を払って雇った傭兵団をもぐりこませようとしたことはある。剣でも外交でも殺せない相手であれば毒蛇をしこむだけ。
何の役にも立たなかった。むしろ逃げ帰ってきた。大型種の討伐にマーロウ・ミュラー当人が登場したからだ。四十も半ばを超えた伯爵が最前線にでることは減ってきている。国境線も固定されて久しい。
だからこそ。フルオーダーされたウーツ鋼鎧をまとい、赤兎馬に跨ったミュラー伯爵が騎士団の前に現れたとき。
天を衝くような怒号の如き歓声があがったそうだ。
キャァアアアーなんて可愛らしいものではない。
ギャァアアアーである。ウオオオオォッである。
野太い声に雄叫びをあげ、拳を天へ突き上げる!
「領主様!」
「領主様!」
「我らが最強伯!」
「マーロウ・ミュラー伯爵!」
「貴方に勝利を!」
「ミュラーの剣にかけて! 伯爵様!」
「ミュラー! ミュラー! ミュラー!」
……ヤクでもキめてんの?
報告書の文字にドン引く。
前線に将軍級が視察に現れ、激励し、士気をあげるというのはありふれた手段だ。だがこれほどドラマチックに効果的な場面はそうそうお目にかかれない。
最小限の労力で、最大限の効果。
ミュラー伯爵は、彼の騎士団に向かって手を振っただけだ。
「なぁに、いつもの仕事だ。そうだろ?」
重大な任務を任され、がちがちになっていた若い指揮官の胸鎧を、拳に、コツンと叩いただけだ。あざとい。むしろ見習いたいとピーアは思った。
指揮官に任命されたばかりの騎士は揮い立った。頬当ての下をバラ色に染めて。ピーアのような冷静な第三者の目で読んだ情報では狂ったと言い換えてもいい。
突撃、突貫。瘴気にのまれたケモノを前にして。爛々と目を光らせ、我先にと襲いかかるバケモノたちの集団がミュラー騎士団だった。
その間、雇われたばかりの新参者であった傭兵団へミュラー伯は一瞥をくれただけ。近付けるはずもない。磨きぬかれた牙である直卒騎士どもに隙などあろうはずもない。
マーロウ・ミュラーの伝説は18歳より始まっている。王立学園の卒業間際に勃発した王国との戦争へと赴き、柏葉・剣付きの突撃勲章を授与される武勲をあげた。豪雨と寒波から始まった飢えと魔獣被害に苦しんでいたミュラー伯爵領のため、隣領クラウゼの令嬢と結婚し援助を引き出した。自然災害によって打ちのめされた領地を再建した滅私奉公の功績に加え、騎士団の弱体化により領内ではびこった魔獣討伐に数々の武勇伝を打ち立てた。なかでも狼の幻獣種、フェンリルとの三日三晩にわたる死闘は吟遊詩人たちの手によって歌となった。爵位と共に父親より継承した両刃の片手剣、カラドボルグにマーロウが特定討伐対象フェンリルの首を斬りおとしたその日はミュラーの祝日となり、祭りが行われるようになった。
能力だけではない。容姿、容貌、所作の繊細な麗しさもまた、ミュラー領地民が己の領主に誇りをもつには充分だった。血肉をあびてなお、男は美しかった。暴力的なまでにミュラーを体現していた。
ミュラー伯爵領におけるマーロウ・ミュラーは偶像であり、王様であった。ミュラー騎士団にとっての最強伯は剣を捧げ、祈りを捧げる信仰の対象ですらあった。
斯様な次第で、無理でした。
報告書の最後をそう結んできた傭兵団とてやり手と名高く、民間とはいえ本国としてはそれなりの期待をかけていたのだが…。
危機管理が働いたからこそ早期撤退を選んだ。移動費用だけを差引いた依頼料の全額を返金してきた。なお、裏切りは二回やると誰からも信用されなくなるので、共和国からの依頼は二度と受けません。との但し書き付きだった。賢い。
また、剣を振りまわすだけの連中はもれなくミュラーに取り込まれている。
国境線沿いの戦いに何人が死んでも、魔獣との戦いに何十人が食い殺されても。ミュラーは増え続けている。流入による人口の増加だけではなく。それらを生活させ、戦わせ、維持できる国力を増し続けている。
この戦闘民族と接しているのだ。天使真教の総本山である共和国が脅威を感じないわけがない。
救いはミュラー辺境領が帝国の一部であることだ。自治権を認められているとはいえ、帝国の旗を掲げている。単独に共和国へと攻め込んでくることはなく、国境線沿いの森林地帯での魔獣討伐に手を抜くこともないのだから。
二度目の面談はさらに一週間後だった。
「海沿いのルートで行く」
ため息をついたチャプレンの一言にピーアが首をかしげた。
ピーアら工作員は正体が発覚した場合の逃走経路を確保していた。
だが待った。三週間。ピーアは王宮という危険な場所に留まり続けた。
王室近衛師団による調査の手が迫るベッカー男爵夫妻の脱出を待っていたのだ。
「夫妻は毒をあおった。亡くなった」
ピーアの動きがとまった。
「亡く……?」
ティーカップを置いたチャプレンがうなずく。
ベッカー男爵夫妻は特段の訓練も受けていない。尋問に対し、信仰心によって少しは耐えるだろうが、長くは持つまい。だからさほどの情報も与えていない。彼らはピーアが工作員であることもはっきりとは知らない。ただ、娘として受け入れてくれた。
夫妻の本当の娘は冬の湖に沈んでいた。父親譲りのオレンジブラウンの髪色をして、笑うとえくぼのできる可愛らしい女の子だった。
男爵家には人形の部屋があった。娘を模して作られた人形のための部屋だ。けれどピーアが養子となった一年に、その部屋のドアが開けられる回数はぐっと減っていた。
失敗し、ピーアらが撤退するとなれば夫妻を共和国へと迎え入れる準備は整っていた。
そんな彼らが亡くなった。毒をあおった。何故か。逃れられないと悲観したから? そんな筈はない。まだ手ぬるい追跡だった。男爵領からならば余裕を持って逃げ切れたはずだ。逃げなかったのは何故だ。第三王子自らが王室近衛師団を率いる捜査の手が伸びているという事実に対し、必要以上に悲観した可能性はあるが…。
故郷を離れたくなかった?
裏切り者と指差されるのに耐え切れなかった?
それもあるだろう。けれど夫妻が、あの心の弱い二人が勇気をもって毒を飲んだのはピーアを逃がすためだ。
自分たちへ疑いの目を向けさせ。時間を稼ぎ。『娘』を逃がそうとした。今度こそ。『娘』を救おうとした。
オレンジブラウンの髪が氷に沈んでしまう前に。彼らは彼らが信じる最良を尽くそうとした。
おそらくは、とチャプレンは眼を伏せた。ピーアの視線から逃げた。
その夜。フランツ・フォン・フォルクヴァルツはピーアの元へと訪れた。チャプレンに伝言を頼んだのだ。彼女が王子に会いたがっている、不安がっている、と。意気揚々と部屋のドアをノックしたフランツ王子は二人の将来の展望を熱弁した。婚約者との破談が成立したこと。初陣が決まったことなど。ピーアを抱きしめながらだ。当然の如く人払いのされた部屋で久しぶりの抱擁、からのベッドへの移動。
ことが終われば眠らせた。猫の仔を水に沈めるよりも簡単だった。だがこの首を締めるのはピーアではない。
立ち上がり、動きやすい服を身にまとう。ペーパーナイフに魔力をまとわせ、豊かに波打つオレンジブラウンの髪を根元から切る。暖炉に放りこんだ髪は瞬く間に燃えあがる。ピーアの髪色は生来のものへ。濃い赤毛へと戻る。飾り窓を開けて、一度だけ振り返った。
ピーアのベッドに眠る王子がピーア・ベッカー逃亡幇助の疑いをもたれるのは間違いない。
─── で? それが?
窓枠に足をかけ、軽く蹴った。両手で庇に捕まり、懸垂の要領。グンッ。膝を曲げ、腹筋と腕の力だけで身体を引き上げる。狭い庇上に膝をつく。強化された視力、聴力に辺りをうかがう。
ピーア・ベッカーは癒し手だ。治癒師だった。人体の構造を深く理解していた。身体強化術式に熟練していた。自分自身の身体を思うままに動かす技術においては、タリスマンすらも上回った。500キロ近いグランドピアノを軽々と持ち上げる膂力だ。た、たん、たんっ。庇から上階へ。ベランダテラスの手すりを蹴って駆け上る。夜へと躍りでる。彼女にとってのダンスホールへ。優れた三半規管に裏打ちされた肉体は、どのような体勢にあっても制御を失うことがない。
くるりと回転。
月を背にした影が伸びる。暗闇に紛れた。
そして名前ごと。存在ごと。ヒロインは消え去った。
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