ハイドアンド・シーク【4】
成功も、過ぎれば毒である。
ピーアがそうと気づいたのは、本国が本気で己を王子妃として王宮に送りこもうとしていると気づいてからだ。
……いやいやいや?
王子妃やります!
と手をあげてやれるものではないだろう。なれるものでもないだろう。
ちょっと良いおうちのお坊ちゃん程度であればまぁやれる。頑張れる。同じ男爵家や、裕福な商家などを嫁入り先と仮定した場合だ。いつか裏切る日のために、よりよい妻を演じることはできるだろう。ピーアは教会の孤児院でも教育機関でも聡い子と評判だったうえ、コミュニケーション強者でもあった。
しかし自分を知るが故に、300余年も続いた仮想敵国の王室へ、第五とはいえ嫡出王子へ嫁ぐのは無理だろうともわかっていた。連絡役のチャプレンは「おまえならやれる」と寝言をほざいたが、愛と勇気だけをお友達に根性で頑張れと肩を叩かれても怒りしかわいてこない。プランは? 予算は? メンバーは? …根拠のない励ましは脅迫である。
そもそも設定からして平民上がりの男爵令嬢だ。母親は娼婦で、父親は不明。共和国の孤児院育ち。教会の養子縁組斡旋事業によって帝国へ、子のいないベッカー男爵家の養女となり、王立学園に入学。
何一つの嘘も言ってはいない。共和国の孤児院が諜報員の養成機関であり、養子縁組は帝国でのスパイ活動のためという事実を伏せているだけだ。聞かれなかったことを答えていないだけだ。
すべてを虚構で塗り固めるよりも、99%の真実と1%の嘘で構成された人生には説得力がある。
ピーアだってしょせんは二十にもならない小娘だ。なにより人間なのだから、常に嘘をついて生きることはできない。言葉のイントネーション、ナイフとフォークの使い方、馬車の乗り方に素性を見破られることもあるだろう。けれど型どおりの問答では人の懐へは入りこめない。考えを語るとき、そこに至る思い出を語るとき。小さな、けれど心からの体験が共感を呼ぶことを諜報員たるピーアは知っていた。
過去すらも切り売り、ここまでやってきたのだから。
とはいえ。これらの経歴で王子の妻は無謀である。
本人たちがいくら燃えあがったとしても、周囲が許さない。
えらく面倒なことになったぞ、と眉間にシワを寄せる。学園に帰還早々の命令だ。あんなモラハラ気質の強い王子様相手、卒業しても関係が続くとか胃に穴があく。期間限定だからこそ、甘い台詞に歓心を得てきたのだ。フランツ王子は褒めておだてて、機嫌のよい時は気前も良く、エスコートを弁えた恋人だ。顔と体格もよい。ただし中身がピーアとは合わない。生活能力もない。任務を終えたならば、遠く離れた場所からたまに眺めるくらいでちょうどよい観賞用の男だ。フリカデルを頬張りながら片手にめくるロイヤルファミリーのゴシップ誌を前に無責任な感嘆符を吐いているくらいでちょうどよい距離の人間だ。
女は結婚できるだけで幸せだろう、とか真面目に発言する王族である。さすがに言葉を失う。冗句かと思えば、本気で言っていた。さらに『この、俺の妻』であればなおさらと、態度ににじみでていた。
ある意味、幸せな男である。貴様何様王子様である。
無難な相槌をうっておいた。さすがに肯定はできかねる。
暴君カレシが自分にだけは優しいというシチュエーションに心を惹かれる女の気持ちはわからんでもないが、断言する。なにが悪いのか自覚していない以上、蜜月が終わり次第、暴言の刃は我が身へと向かう。いつか変わってくれる、わたしが変えてみせるなんて期待は持たない方がいい。赤子であればともかく、素直さを失って久しい人間は変われない。変わりたいのであれば、自分で自分を育ててみせろ。努力ではなく結果をよこせ。次は頑張る、これから変わるというヒモ男に食いつぶされたのがピーアの実母の人生だった。
もっとも王子だけあって経済力はある。親の金だが。国庫だが。そこは魅力的ではあるが、ピーアは贅沢なフルコース料理を毎日食べたいとは思わない。カロリーに爆発している食事は、たまにだから美味いのだ。ふんだんなレースが使われたドレスは美しいが、着古し、くたくたになったパジャマにはそれ以上の愛着がある。ベッドしかないような狭い自室の床に屋台で買ってきた熱々のカリーヴルストを広げ、よく冷えたエールをあおるのは最高の贅沢だ。なんならスッピンにパジャマでプハーッとやりたい。そして目覚まし時計をかけずにベッドへ入りたい。
24時間365日の擬態が必要?
それなんて罰ゲーム?
ピーアの予定としては、卒業後、徐々に疎遠になっていくつもりだった。「息子と別れなさい!」と手切れ金を叩きつけていただけるなら有り難く受け取る。目的を達した後ならば、代金分の泣き真似をして「フランツ様の、…いえ、第五王子殿下の幸せを祈っております」としおらしく身を引こうという想定もしていた。
貴族令嬢としての幸福を望んでいないピーアには『かつて第五王子とつきあっていた中古品』などというレッテルはなんのダメージにもならない。童貞処女にこだわる貴族たちがむしろ不思議だが、帝国に魔力素養の高い人間が生まれやすいのは血統を重視した結果かもしれない。彼らの大半は魔道士とはなんの関係も無い職につくか、研究職の道を選ぶことが多い。しかしここ数年に脚光を浴びているのは『魔道士は根暗』という定説を覆す戦闘魔道士の存在だ。
天啓のように現れたブラックシープ。それが第四王子、そして第五王子の婚約者だ。配慮、忖度、斟酌。それらすべてを削ぎ落とした場所に頭角を現した。個人戦であったはずの魔道士を束ね、率いるはタリスマン。魔獣への殺意、そして魔道士としての能力のみが求められる少数精鋭の部隊。たった五名ではじまり、十数名の隊員を持つに至った社畜エリートども。
信じられるか?
王子の横で、平民の孤児が並んで剣をふるう。伯爵令嬢と港湾労働者が背を守りあい、爆裂術式と雷撃術式をぶちかます。
なんともまぁ大胆なパラダイムシフト。従来の帝国の常識、戦術からはとうてい考えられない。
彼らは英雄への階段を三段飛ばしに駆け上っている。
そのタリスマン隊長少佐。アーデルハイト・アルニム伯爵令嬢へのヘッドハンティング。
それが教会からの命令だった。
ならば王子妃へという展開が生まれてしまったのは、共和国がそこに便乗した形なのだ。
学生生活限定の愛人、いや綺麗に言えば恋人を狙っていたピーアにとっても寝耳に水である。一年の準備期間を経て王立学園に潜入することには成功したが…本気になった王家からの身元調査が行われればヤバイだろうな、という危機感もある。孤児院の神父たちだって全員がプロの工作員というわけではない。善良な神父やシスター、教育前の子どもたちだっているのだ。
しかし共和国の諜報機関は良くも悪くも優秀だった。怠慢とは程遠く、遅滞のない行動を開始していた。ピーアが皇都に不在のあいだにも着々と準備を整えていた。ワーグナー国立歌劇場の年末公演には世論の誘導を目論んだ工作まで始めていたのだ。
Light My Fire.
ハートに火をつけて。
王立学園に通う貧しい平民の娘が王子と恋に落ち、様々な障害を乗りこえながら成就させるハッピーエンドの物語だ。
帯の煽りにはこうある。
全欧州が泣いた!
これこそが真実の愛─── !
……無駄にハードル上げんのやめろや?
ぱたん、と小説の本を閉じた。もはや呻くこともできない。最後まで読んだ。誰がモデルなのかは明らか。期待されると応えたくなるのが人間のサガとはいえ。
脚本家の襟首を掴んで締めたい。誰が後始末をすると思っているのか。むしろ本を燃やして無かったことにしたい。乾いた笑いがもれるのは、フランツ王子から観劇の誘いを受けたからだ。行き先は決まっていた。予習のために本を開いた。
じんましんがでそうなピュアッピュアのシンデレラストーリー。大衆受けを狙いすぎた展開の演目はピーアの好みとは程遠い。恋愛モノはできればコメディで。そうでなければスリル、ショックのサスペンスでお願いしたい。閨事はスポーツの感覚なので、ドロドロした展開はちょっと…。
タイトルは、あれか。火遊びをもじったのか。上手いことを言ったつもりか。当事者としてはまったくもって笑えない。王族への不敬が取り沙汰されなくてよかった。国外追放となった悪役令嬢の先は書かれていない。カモン!と両手を広げているのは王国か。共和国か。それとも教会か。三ヶ国語を操る、語学堪能な令嬢だ。給与が振りこまれている帝国銀行は欧州主要国すべてに支店を持っている。おまけに特級レベルの戦闘魔道士。このご時勢、魔獣討伐に頭を悩ませる場所には困らない。引く手は数多。戦闘魔導士は売り手市場となっている。気持ちさえ切り替えられれば、何処へ行ってもやっていける。第二部が始まるとすれば、悪役令嬢の躍進、報復、新しい恋あたりが取り上げられるかもしれない。
物語であれば『めでたしめでたし』でエンドマークを付けられても、登場人物たちの物語はその先も続いていく。時計の針は刻々と。周囲の状況は着々と。流れ、変化してゆく。
なぜ誰も止めようと言い出さなかったのか、反対しなかったのか。暴走機関車並のスピードで破滅に突っ込んでいる未来しか見えない。
しかし落ち着いて考えれば、理解もできる。諜報員とは故郷を愛する公務員。潜伏先では誰が敵か味方がわからないこともままある。ならば直属上司の命令には最優先で服従する。疑念があれども任務を遂行したのだろう。
現実の落としどころなどは見えていないに違いない、教会が主導した命令にも、生真面目に。
アルニム少佐の活躍ぶりは、どうやら一部の純真な聖職者たちに彼女が天使様の加護を受けた人間であるという確信を持たせるには充分だったようだ。
教会へ。彼女が本来あるべき場所にお越しいただきたい。無理やりにでも。
という理屈に、最大の障壁であろう婚約者の切り離しにかかった。そのためのピーア・ベッカーだ。
毒を喰らわば皿まで。やるしかない。どのみちスパイであるピーアに撤退の二文字はない。
北方遠征において、王国の工作員とタリスマンがすでに接触している。引き抜きのお誘いを受けている。名刺を受け取り、光栄ですとの受け答え。上層部への速やかな報告、連絡、相談。模範的な行動をとっている彼らが寝返りを考えている様子は今のところ見受けられないが。自身の扱いが不当であると考えれば、正当な評価を求めて動きだす。椅子に縛りつけでもしない限り、おとなしく座っていられないのが軍人という職業を自ら選んだ者たちだ。選択肢のなかに転職、移住が生まれてもおかしくない。
また、アルニム少佐の年齢も焦りに拍車をかけている。
年が明ければ18歳。成人だ。つまり婚姻もできる。
王宮に囲いこまれてしまっては手が出せない、こともないかもしれないが。接触がより困難となるのは目に見えている。
そして。教会にとっての18歳は大きな意味を持っていた。
アーデルハイト・アルニムは片翼の天使再臨計画、唯一の生き残りだ。
魔石を身体に埋めこんだ『実験体』のすべては亡くなっている。特に18歳以上の男女は即死だった。子どもでなければだめだった。アルニム少佐は11歳という幼さに二つもの魔石を背に埋めこまれている。そしてまだ生きている。
ピーアの姉は志願した。志願、させられたのだと思っているが。誰も恨まないでと縋った彼女といっしょに泣いた。
16歳だった姉は術後一ヶ月の時間を生きた。高熱のなか、しきりと空腹を訴えた。喉の渇きを訴えた。もうろうとした意識のなかでパンを手づかみ、押しこんでは吐いていた。最期は身体が溶けて崩れて…ひとの形ですらなくなったのに、水を飲みたがった。てんしさま、と掠れた声に息を吐いて事切れた。神罰を恐れた神官たちから見捨てられた姉に末期の水を含ませたのはピーアだ。顎の皮膚が剥がれ、歯は上も下も残っていなかった。それでもピーアの姉は生きようとした。頑張った。迎えは訪れた。せめてと安らかな眠りを祈った。
教皇が代替わりしたことにより、すでに計画は凍結されている。ピーアの告発も一役を買ったのだと信じたい。けれど諦めの悪い大司教たちも上層部には残っている。
それなりの規模の組織であれば、右手のやっていることを左手が知らないというのもよくある話だ。
そして、成功例がここに生きて、帝国にいる。
一時期は期待はずれと評価されもしたが。
戦果はマイナスの評価をプラスへと引っくり返した。
ならば成果を掠め取ろうとする人間が現れるのも必然だ。
ピーアが目指していたのは王子と伯爵令嬢のゆるやかな婚約解消だ。まずは外堀を埋めることだ。当人たちの話し合いを、関係者たちの調整を促すために目立つ行動を続けたのだ。
大人たちの都合で始まった婚約とはいえ、十八になった張本人、フランツ王子が「いやだ」と言えば周りも考慮する。なにしろ新しい恋人をこれほど堂々連れ回している。不貞を隠す素振りもない。評価は最底辺へと落ちているだろうが、学園のなかにちやほやされるばかりの王子は気づいていないので構わない。ピーアとて悪びれることなくフランツ王子の腕に腕をからめ、甘える姿を見せつけた。学園内だけではなく、観劇、食事、友人たちとの茶会へ。お似合いだと媚を売る言葉へ尊大にうなずく。
しかし二人きりになったあとは。
「このままではあの傲慢な女と結婚させられてしまう」
「おかわいそうなフランツ様。本当は、こんなにもお強いのに」
コンプレックスを抱えた男は甘い言葉に縋りがちだ。
頭を撫で撫でしながら慰める作業も板についてきた。
ピーアは思う。そんなに嫌なら兵役をまっとうすればいいのだ。剣を握り、婚約者のスカート裾から足を踏みだせばいい。アルニム少佐には誠心誠意の謝罪と賠償を行えばいい。許してくれるかどうかは知らないが、そうして婚約の解消を申し出る。二、三発殴られて生死の境をさまよう覚悟を決めればやれるだろう。私財のすべてを渡すと自ら宣言すれば、武士の情けに必要最低限の生活分は残してくれるかもしれない。
ピーア・ベッカーと結婚がしたいのなら、まずは家格を整えるところからだ。せめて伯爵家の養女とし、王子妃としての教育を与える。それだけでも周囲への根回し、調整、様々な困難がふりかかるだろう。けれど手順をふんで、一つずつ。根気よく。命令するのではなく説得をする。駆け引きも必要だ。言葉を尽くして納得させるのだ。短気なフランツ王子には大変な難儀だろう。
それでも。
どうしても欲しいのならば。諦められないのであれば。手足を動かせ。頭を回せ。弁舌を尽くせ。
そして初めて恋人の手がとれる。共に頑張ってくれと言える。共にあれる未来を勝ち取るために戦ってくれと言える。
フランツ王子にそんな動きはなかった。イエスマンの取巻きに囲まれて、学園の箱庭に愚痴と愛の言葉を吐くだけだ。
ならばピーアとはそれまでの女だ。
しかしさすがに一年も毎日顔を合わせ、七日とあけずに肌を合わせていれば情もわく。
かわいそうな子だ。
ロクな人材がいない。
出涸らしのような環境。
とはいえ最後の砦となるだろう鎧たちを剥ぎ取ったのはわたしだ。
「愛しています。フランツ様」
指通りのよい髪と形のよい頭を撫でる手付きだけは誠実に。優しく、聖母のように微笑んでみせた。
公式の席は戦勝祝賀会、離宮でのパーティがはじめてだった。フランツ王子より贈られたドレスにとびきり美しく装い、腕を組んで登場した。
足場を固め。婚約者との仲にトドメを刺すつもりではいた。
だがしかし。
フィクションの悪役令嬢呼びに人差し指を突きつけた王子が弾劾を始めるのは予想していなかった。