777カジノ【1】
どうせ長い付き合いにはならないという本心は隠したまま、ゆっくりと微笑む。
ごくりと唾を飲んだアルニム伯の目が泳いでいる。
次に確認すべきことはわかっているだろうに、開きかけては閉じる口から発せられる言葉をただ待つ。
「それは、…それでは、」
「ええ。なにか?」
舌に唇を湿らせ、起死回生の希望に目をぎらつかせながらまだ躊躇う素振りを見せる男に水を向けてやる。
(好きなだけ迷えばいい)
選ぶフリを楽しめばいい。
今のアルニムがミュラー騎士団の派遣という破格の条件に抗えるはずもない。
椅子の背もたれに体重を預ける。
俺がアルニム伯をまだ処分しないのは、使い道があるからだ。強硬手段にでるには少し早い。
この男には、困窮するアルニム領のすべての罪科をなすりつけて、義兄が領主となるための道を用意してもらわなければ。責任をとる人間としての役割を果たすまでは、せいぜい使い潰さねば。
待機した時間は十数秒というところ。
「……負けた場合はどうなる」
ようやくに切り出しやがった。嗤いと同時、顎が上がりそうになるのをこらえる。
そうだろう、そうだろうとも!
伯爵にとって勝負の演目よりもずっと大事なのは負けて失うものがなんであるかだ。
勝ては他領の騎士団が派遣されるのだ。そして自領の魔獣殲滅に力を貸すと言っているのだ。見合った敗北の対価をまず確かめる。
声だけは穏やかに告げる。破談同意書などではない、今夜の俺たちの最大の目的を。
「アーデルハイト嬢の診療簿を。すべてこちらに渡していただきます」
「は……?」
アルニム伯は理解不能の心境を一言に吐き。吸った息によって反論を寄越す。
「そ…それは、なぜ、そんなものが? マイヤー子爵。貴方に必要ですかな?」
「アーデルハイト嬢がピローケースから薬を手にする姿をたびたび見てきました。妻となる彼女の身体を婚約者として気遣うことがそれほど不思議でしょうか? 補給が途絶えた北方戦線では薬が届かず、不安になっている彼女になにもしてやれず、歯がゆい思いをしてきました。ご安心ください。ミュラーでは医療にも力を入れています。俺の全身全霊をもって彼女の心身の健康を取り戻す努力をお約束します」
人体を壊すことに熱心であればあるほど、治すことへの理解は進む。最前線に剣をふるい続けてきたミュラーでは物理的な創傷、殴打による怪我、魔獣が持つ毒に対する研究も進められてきた。衛生管理の重要性について周知することは、副次的に病魔を抑えこめる効果もあった。そこまでは事実だ。
だがアルニム伯にとって重要なのは、人体実験の形跡が残るであろう診療記録カードを求められたという一点。彼女を脅すために使用していた薬の処方箋もそこには書かれているはずだ。
並べ立てた俺の事情が真実かどうかなどはどうでもよい。
予想外からの攻撃に混乱し、防御に失敗したアルニム伯が余計な一言をほざく。
「そこまでは…気遣いの必要はありませんよ。ご心配でしたら、ブライダルチェックをこちらで行ってからミュラーへと向かわせましょう。戦う以外、能のない娘です。剣として、盾として、存分に使い潰してください。ああ、ナリは小さいですが、子は産める身体ですから」
「─── アァ?」
野郎どもが集まった軍隊酒場での言葉遣いが口をついて出そうになった。
組んだ足をほどく。手を伸ばしかけた。身体強化の魔術式を練り上げるのはもはや脊椎反射といっていい。違和感による停止。殴るために。襟首をつかみかけた手首には魔力封じの神具。ここがどこだかを思い出す。六つ数えて息を吐く。
「マイヤー子爵?」
「……なにか勘違いなさっているようだが。アルニム伯。俺は、彼女に焦がれる一人の男として求婚しました。道具扱いは不愉快だ」
「ええ。やさしい方にもらわれる娘は幸せですな」
恐れ、へりくだる笑みが俺に向けられていることが不快だ。
面白がるような視線は背後から。ブルクハルト様が目をきらきらさせている。面白がっている。内心に舌打ち。理性を優先させる。
「受けますか。降りますか。降りるのであれば、俺たちはここで失礼します」
「待て。待ってくれ。しょ、勝負方法は?」
「そうですねぇ…。コイントスでもやりますか?」
「そっ、…な…」
一瞬でカタはつく。だが100%運任せ。そんな、正真正銘のギャンブルをやる余裕はアルニム伯にはない。
余裕がないからこそ、勝負のテーブルに首根っこを押さえつけられているのだから。
考える素振りに小首をかしげて見せる。
「なんなら殴り合いで決着をつけるのもいいかもしれませんね?」
少なくとも俺はスッキリする。とても。すごく。心から。鳩尾への蹴りひとつでカタはついてしまいそうだが。
「そ、そちらは軍人だろう。善良な帝国民相手になにを言う…!」
形ばかりの敬語も即刻剥がれ落ち、怒りを浮かべたアルニム伯に肩をすくめる。
「冗談ですよ」
言葉で嬲るくらいは許されるだろう。散々暴言を吐いてきたのはあちらの方だ。
からかわれたことがわかったのだろう、アルニム伯が苛立ちを飲みこんで言葉を吐きだす。
「ブラックジャックだ」
「よろしいので?」
散々な敗北を喫したカードゲームでの再挑戦となることを確認する。
こめかみをひくつかせながらも、貴族の仮面を被りなおしたアルニム伯が深く腰かける。
「ここは、カジノなのですから」
同意しよう。まったくもって仰るとおり。我々が着席するビジリアン色のテーブルレイアウトは食事のため、仕事のために用意されたものではない。賭け枠があり、奥にはカードシューとディスカードホルダーがセット済み。カードゲームとしての、ブラックジャックをプレイするためだけ作られたテーブルだ。
腰を浮かせかけた相手を引きとめるための交渉材がもはや手元にはない、と考えている伯爵が選ぶならこれしかない。
クラブ・バーデンでは、…と言うよりも。公営カジノの演目にコイントスは存在しない。殴りあう拳闘士にチップを賭ける闘技場でもない。行儀よく、礼儀正しく。社会性を保った健全なお遊びを。なお、収益の一部は公共投資へと使われます。皆さまの積極的なご参加をお待ちしておりますということだ。
「では、1ラウンド勝負としましょう。1デッキ、52枚で行いましょう。早く決着がつく方がいい。俺たちにはこの後、食事の予定もありますので。互い、オレンジチップ1枚分の賭け金をどこまで増やせるか。…ああ、チップ交換の現金が足りないようでしたら、お貸ししましょうか?」
「結構だ」
手元不如意の可能性を指摘され、苛立ちを浮かべた伯爵が反射に答える。事前の手紙にはルールとして賭け金額の指定はしていた。だがカジノに勝ち負けを競うのだ。余裕を持った現金を持参するのは雨の日に傘を持って外出するのと同じ程度の備え。先ほどの勝負にチップを大幅に減らしたとはいえ、アルニム伯爵家の規模であればまだまだやれるだろう。土地にも屋敷にも、質権はまだ付いていなかった。ただし俺が伯爵の友人なら「悪いことは言わんから帰って寝ろ」と肩を叩いて促がしている。帰って風呂にでも入り。寝て、起きて、食って。頭がスッキリしてから。今夜のダメージコントロールを、今後の方針を考えるべきだ。
まぁ、残念ながら、当然ながら。
俺は伯爵の友人ではない。
肩を突き飛ばし、社会貢献のためのカネをたっぷりと巻き上げ、後悔の海に沈めてやる意欲に満ちている。
「ええ。こちらも結構ですよ」
「ああ。ただし、相手はマイヤー子爵、あなたではない。……アーデルハイト。おまえだ」
「……俺が彼女の代わりに勝負することに対し、あなたは同意されたはずですが?」
「本人の問題なのですから、本人に解決させるべきでしょう」
「……念のためにお聞きしますが、何がアーデルハイト嬢の問題だと言っていますか?」
「領地に魔獣が広がっている現状ですよ。まったく、無責任にもほどがある」
「それは、アルニム伯。領主であるあなたの問題であり、責任ですが?」
謎の責任転嫁を行う伯爵は俺の話しなんぞ聞くつもりはハナからないようだ。
「婚約者となったばかりの方にこのような迷惑をかけて…」
ミュラーの名が出た途端の華麗な手のひら返しに引いている俺を置きざり、伯爵はそこで右を向いて、娘に語りかけてしまう。
「フランツ殿下のことといい、どれだけ周りに迷惑をかければ気がすむんだ。アーデルハイト。おまえに恥じる気持ちはないのか」
鏡を見て言え。
祝勝会の会場と同様の罵倒だった。俺が口をはさむよりも先に。真顔の無表情にそれらを聞いていたアーデルハイトが視線を動かした。俺を見て、にこっと笑った。うっすらとした微笑を保ったまま、父親へと向き直る。
「受けて立ちます」
威風堂々。
宣戦布告を受領し。
開戦の鐘が鳴った。
「ディーラーとスーパーバイザーを呼んでくれ」
「かしこまりました」
まるで自室のようにソファにくつろぐブルクハルト様の一言にワインセラー前のウェイターが一礼。
そこへ、アーデルハイトが声をかける。
「ディーラーを指名することは可能でしょうか?」
アイロンのかかった、隙のない制服姿のウェイターが足を止める。にこやかに応じる。
「ご要望がおありでしょうか」
「さきほどのブラックジャックテーブルと同じ方をお願いしたいです」
「かしこまりました」
即答し、ウェイターの職務につく男はこの部屋へ彼ら三人を案内してきた同僚を思い浮かべる。シフト表からすれば休憩に入ったばかりの時間帯だが…。ハイローラー様方からの無理難題はいつものこと。顔のいい男なので、じつのところ奥様お嬢様方からのご指名も多い。とはいえ彼女の婚約者を名乗る子爵のハンサムぶるには及ばない。
「素晴らしいカード捌きでした。お忙しいところに恐縮ではありますが…、お時間はいただきません。さきほどの勝負と同じようにカードをくってくださいと。お願いしてもらえますか」
「そのまま伝えてくれるかな」
「承ります」
名前に侯爵家の肩書きが入った客からの補足に、恭しく頭を下げる。
たくさんのカネを落としてくれる上客には相応の対応を。ハイローラー用の客室では、従業員は極力彼らの要望に沿うよう指導されている。
「なぜ、わざわざ…」
「初対面の相手では緊張してしまいます」
ドアへと近づくために足をすすめる背後にぶつくさ言っているのは伯爵だ。娘が静かに返す声も聞こえた。だがそれ以上反対する理由もないようだ。とるにたらないと見做されたようだ。引きとめる声はかからなかった。
半分開けたドアの先、廊下に待機する同僚に手を上げて合図する。客だけを部屋に残すことはない。用件を伝え、伝言を頼みながら。
……でもなぁ、と首をかしげる。
彼女、緊張するタマには見えないんだよなぁ、とは。誰に言う必要もないウェイターの感想だった。
ほどなく。呼びだされたカジノディーラーとスーパーバイザーが部屋をノック。
簡単な挨拶の言葉を交わし、ディーラーによるテーブルセッティングが開始する。管理職であり、ゲストの対応を担うスーパーバイザーはブルクハルトと会話を交わしている。彼らスーパーバイザーがディーラーとなることはない。複数テーブルにおけるカジノディーラーのゲーム進行、配当金支払い、両替などに間違いがないか。そして不正の監視を担っている。
ソファへと移動したマルクスの前にもワインとチーズが饗される。一流ホテルに引けをとらない接客ぶりだが、マルクスは気が気ではない。
アーデルハイトには伯爵を勝負のテーブルに引きずりだしてくれればそれで良い、あとは万事お任せくださいと自信満々に宣言していたものの。
「任せてください」
と胸を張られては引き下がるしかなかった。
あれほどの侮辱を受けたのだ。今度こそ自分の手で殴り返したい気持ちもわかる。アーデルハイト曰く『強いパンチ』でもいい。彼女の小さな手で握った拳はとても硬い。魔力がこめられた、最速にして最強の解決策。学園という狭い箱庭内とはいえ天才と称えられていた第五王子を一撃に仕留めたグーパンチの物理ならば確実に勝てる。しかし、ブラックジャックのゲームとなれば…。
脳内の算段に忙しく、ブルクハルト様から会話をふられても頭に入ってこない。あたりさわりのない言葉を返すだけ。
「過保護だねぇ…。どうせ、負けたところでたいした労力じゃない。さしたるダメージにはならない。…そうだろ?」
「騎士団を動かすとなれば大変ですよ」
マルクス・ミュラーはまだ次期伯爵の指名を受けたというだけだ。事前準備として、マイヤー子爵というタイを締めただけだ。伯爵位を継いだわけではなく、ミュラー騎士団を出撃させるとなれば領主の、マーロウ・ミュラーという絶対君主の許可が必要だ。父には借りをつくる必要がある。が、許可はされるだろう。しかし他領にまで遠征させられる騎士たちにとってはたいした労力だろうし、剣を持って戦う以上無傷とはいかない。こちらも怪我を負う。どれほど優れた指揮官のもとであっても、肉弾戦闘を行う以上ノーダメージはありえない。
けれどそれらを理解し、織りこんだ上でブラートフィッシュ家の男はそう言っているのだ。そういうところが生粋の貴族と軍人の在り方の違いなのだろう。
「見守ってあげるのも愛だと思うけどねぇ」
「カジノギャンブルに挑む婚約者を信じて見守る行為を愛と呼ぶのは違うでしょう」
「そんな冷静な君さえ突き崩せるアルニム伯爵令嬢は興味深いと思うよ」
頼むからおもしれー女ムーブはやめてくれと言いたいが、前線での隊長は数多の兵士たちの性癖を歪めてきた夜の妖精、前科持ちの殺戮天使様である。襟、袖のボタン一つ外さず、足首すら人前に晒すことは稀であると言うのに。禁欲的な姿がまた、良い。そういうことだ。正直油断はできないのだが、今の俺は考えることが多すぎてそれどころではない。勝機、勝率、勝算。
日頃からカジノに出入りしていたアルニム伯に比してアーデルハイトには場数が足りないという不安要素はあるにしろ。なんといっても1デッキである。初心者同然の彼女であっても動体視力、計算能力、記憶力において不足はない。おまけに度胸もある。基本戦略を守り、つけ焼刃のカードカウンティングでもやってやれなくはないだろう。おそらく。…おそらく?
ブラックジャックテーブルに並んで座る親子を後ろから眺める。
「他のルールはカジノ・バーデンのルールに沿う、ということでよろしいでしょうか」
火蓋がきられた以上。口をはさむことはできない。
確認するアーデルハイトのドレスはもちろん。洒落者として有名なアルニムの伯のモーニングコートは今夜もまた素晴らしい出来栄えだ。慌てて飛びだした職場から、履きかえるのを忘れたのだろう仕事用の靴であることを除けば。
「ああ。そうしよう」
「チップの増え方について、もう一つ付け加えましょう。─── 先に、倍額にした方が勝ちです」
「ハッ。ははっ。いかにも素人が考えそうなことだ。婚約者の真似事か」
先ほどの勝負に俺はチップを倍にした。それを真似するつもりかと言っているのだろう。アルニム伯のチップ交換は今回もまた、黒が3枚、黄が10枚。アーデルハイトの手元へと目をやり、大袈裟なため息をついている。
「いいだろう。まったく…おまえは世間知らずで困る」
袖口からのぞくカフスには小振りとはいえ宝石が輝いていた。襟元の刺繍は精緻の一言。手を抜いたところがない。観察するまでもない。熟練の職人が相応の時間をかけて作り上げた一級品は、その世間知らずの娘を魔獣の前にさしだして手に入れたものだ。
「………」
カネを使うな、とは言わない。アルニム伯がたとえ、休日にも支給服を着用する年頃の娘よりもよほど広く大きく立派なクローゼットを持っていたとしても。
清貧は尊ぶべき心構えだが、それでは経済がまわらない。誰も彼もが財布の紐を締めたがるときにこそ積極的に消費しようとする姿勢は貴族として正しい。困窮した家計は遊行費、嗜好品への支出からけずっていくものだ。ハイブランドの宝石、服飾店など真っ先に足が遠のく。領地の経営が右肩下がりになった状態でも、貴族たちが率先して贅沢品と呼ばれるものを購入するのはそれら店舗を守るためでもある。
一見領主の散財と見られる行為は、地元の産業保護の側面を持っている。
亡くなった伯爵夫人はそこのところを理解していて、畜産以外についても地産地消を押し進めていた。彼女のドレスはすべて領内のブティックにつくられていた。アルニム伯は間逆に舵を切った。洗練されていないという理由で。伯爵領ではなく、きらびやかな皇都で流行の店に服を仕立てていた。絵画や彫刻など、屋敷に飾るための品もまたすでに名の売れた芸術家の作品を皇都のアートギャラリーに購入していた。領内の芸術振興に力を入れるでもなく、芸術家を志す新人の育成教育に力を入れるでもなく。購入手数料を支払った業者は当然ながら他所の領地に税を落としている。
それでは意味がないだろう。
領地経営がこれほど傾いた責任の一端はまちがいなくアルニム伯当人にある。
「魔獣の繁殖期が近い。どれほどの人間に迷惑をかけていると思っている。義務を放棄するな。甘ったれるのもいいかげんにしろ。さっさと帰って来い」
「お父様。ご存知でしょうか」
新品のカードが封切られ。シャッフル、からのカットカード挿入を済ませたアーデルハイトが微笑む。会話の流れをぶった切るような、場違いな笑み。
「人間の身体は食べたもので作られています。一般的に臓器の類いは半年もあればほぼすべてが。骨すら二年と少しで入れ替わります」
バーンカードによって取り除かれたカードがディスカードラックへ。
「今の私を構成する血肉にアルニム伯爵家のものは一切入っていません。私が、私の職務と俸給で口にしたものだけです」
「……なんだと?」
「プレイス・ユア・ベット」
賭けてくださいというディーラーに従い。アーデルハイトはベッティングエリアへチップを押し進める。淡々と。
「マックスベット」
そして高らか。全額のベットを宣言した。