悪役令嬢は夢を見ない【3】
アルニム伯爵行きつけのカジノ・バーデンは貴族ご用達。公爵家が管理する公営賭博場だった。欧州大陸でも一、二を争う美しさと評判のホテルと併設。そして最低賭け金額が皇都でもっとも高い、俺たちのような公僕には敷居の高い店だ。
会員となって年間利用料金を支払うか、毎回入場料を支払う必要があり、当然の如く服装規定も存在する。ホワイトタイ、あるいはブラックタイが指定されており、ノーネクタイは受付にてお断り。半ズボン姿の子どもも同様。そもそも18歳未満はカジノに入店できない。上流階級の社交場という認識だ。貴族以外の裕福な商人たちも利用しているが、少数派に過ぎない。爵位を持つ者からの紹介状が必要だからだ。バーデンのカジノテーブルに着くことがすでにステータスのようなもの。
そんな場所へ、アルニム伯爵は8年前より入り浸っている。娘を売って手に入れた王族とのコネとカネを種銭にして、貯蓄や領地への投資に励むのではなく、浪費というギャンブルを楽しんでいたわけだ。
ドレス姿のアーデルハイトの手をとり颯爽と賭博場へ乗りこむ─── その前に。
やることは山積みだった。
「わかったぞ。俺が恋愛小説にのめりこめないのは奴らに生活臭がしないからだ。仕事をしている描写があまりにも少ないせいだ」
「わかった、わかった。大発見だな。これが終わったら飯でも買い物でもなんでも好きに嬢ちゃんを誘え」
「は? 誘っている。明日はカジノだ。土曜半休だ。定時には必ず上がるからな」
「おーおー、がんばれ。超がんばってこい。こっちは任せとけ。でもお泊りは禁止な? 嬢ちゃんには酒もまだ早いからな?」
「はっ。言われるまでもない。こんなついでじゃなく、もっとロマンチックな場を用意してから挑むに決まっているだろ」
「いや五つ星ホテルだろ…。国王様だって泊まったホテルだろ…。むしろ敷居が高ぇだろ。ロマンチックっておまえ…言葉の意味をわかってんのか?」
「アァ?」
「二人とも。口ではなく手を動かしてください。日付が変わる前には終わらせたいです」
俺の愚痴に答えるのは深夜残業につきあうオスカーであり、シュタインだった。
提出書類の推敲作業がこれほど遅くなったのは、昼間の時間帯を情報部から持ちこまれた麻袋にとられたせいだ。さばいてもさばいても底が見えない。むしろ底なし沼に足を踏み入れている気がする。言語が入り乱れるだけならまだしも、宗教用語があちこちに引用されており、魔獣討伐を目的とした作戦行動の立案書なのかと思えば魔石のレシピだったり。意味不明すぎる。…教会の関係者なのか、あるいは教会を装った工作なのか。どういった経緯での押収物なのかを知らせないのは先入観を省くつもりなのだろうが。
それ以前の問題として、通常の業務が滞っている。隊長であるアーデルハイトが王宮に拘束されていたのだ。副官である俺は別方向からの圧力を警戒し、辺境領への往復に馬を走らせていた。代務印の処理限界が来るまえに二人、帰還できたのは幸いだ。大幅な業務量の増大に加え、北方戦線が縮小された時点の予定表は二重、三重の訂正どころか重ね過ぎてもはや元の文字が判別不能の状態だ。同じくらい、俺の感情の閾値もおかしくなっている。
アーデルハイトは先に帰らせた。一時間の残業後にだ。残って作業を続けようとする俺たちに後ろ髪を引かれてはいたが、習慣でもある。おとなしく勧めに従ってくれた。「寝ないと背が伸びませんぜ?」というオスカーの台詞は対アーデルハイト戦において無敗を誇っている。副長であるオスカー・オーマン曹長は13歳の部隊長にそこまでの事務能力を期待をしていなかったし、周りの俺たちもそうだ。
フリルのワンピースとテディベアが似合う年齢の少女に睡眠時間を削ってまで事務机にかじりつく残業を押しつけようとは思わない。目のしたに隈を作るのは身長の伸びなくなった大人の仕事であるべきだ。まぁ当時20歳だった俺の背はまだ伸び続けていたわけだが。
必要に迫られれば老若男女など関係なく必死になる。誰にも平等な死から逃れるために。頑張れ頑張れと励まされなくとも。目を血走らせ、魔石に注ぐ魔力を搾りだし、脳みそが灼ききれそうな痛みに耐えながら、重くなった剣を振りきるしかないのだ。
13歳にしては小柄だったアーデルハイトには食事と睡眠が足りていなかった。おそらく遠征のたび、慢性的ともなったそれ。育児の経験があったオスカーは気にかけていたようだが、18歳となった即今もアーデルハイトの体格はミドルティーンの頃からほとんど成長していない。体力も同様だし、目下は別の不安要素もある。
本日はここまで、という目処が立ったのは23時を超えた頃だ。
「アーデルハイト隊長の健康状態はどうなんです?」
完成した書面のナンバリングを確かめ、紐綴じしながら、シュタインが問うのはその不安要素だ。
「今のところ問題はなさそうだ。昨日はフルコース料理を完食された。今日の昼はハムチーズサンドとフルーツサンドの二つを召し上がっていたからな」
アーデルハイトが摂取していたビタミン剤について、そうなった要因について。幼馴染には打ち明け済みだった。ミュラーから先遣隊として派遣された人員との連絡員としてシュタイン以上の適任はいなかった。そうである以上、掴んでいる情報は共有されるべきで、隠しておくメリットはなかった。吹雪のなか、輜重隊を迎えに単騎で走った俺が腹を裂かれたくだりはしこたま叱られたが…その程度のデメリットは甘受しよう。
ミュラー伯爵領の名が記されたカジノ・バーデンの年間パス2枚はシュミットによって手配済みである。明日の朝には届くそうだ。入場料を払うつもりだった俺を置き去りに、驚くほど素早い対応だ。次代のミュラー伯が受付にマイヤー子爵の名を名乗り、貴族年鑑に事実確認を受けるのは、シュミットにとって耐えられない所業だそうだ。己の仕事を全うしようとするカジノ職員に対して随分な言い草である。
辺境領からの手足を与えられたシュタイン・シュミットは動きだしている。ミュラー伯となる将来の俺の右腕としてだ。俺とアーデルハイトが退職する前後、こいつもまた、軍籍を抜ける。帝国陸軍の魔道士隊服を脱いで、ミュラー騎士団の制服をまとうことが決定している。
シュタインが言う日付が変わる前に終わらせる、というのは軍人としての職務の話しだ。手を抜くことはないが、すでに割り切っている。幼馴染の忠誠心はミュラーにあって、シュタイン一家の至上は領主マーロウ・ミュラーにある。どうやら俺は手のかかる弟枠らしい。この後のシュタインはバーデンのドレスコードに相応しいアーデルハイトの衣服確保に出かけてくるそうだ。夜中に開いているドレスショップがあるのかは疑問だが、まぁこいつが言うなら何処からか入手してくるのだろう。俺としてはカジノ入り口前に看板を並べるブティックでの購入を考えていた。「イージーオーダーですら何時間かかると思っているんです」と盛大なため息をつかれた。サイズは軍服から計るので、本人がいなくても問題がないそうだ。しかし支給品とはいえ、素直に軍服の一式を預ける隊長も隊長では…? 俺たちに対する信頼は嬉しいし、王宮へと持ち出した俺が言える台詞ではないが、心配にもなる。
「帰り道では屋台のジェラートを買っていましたね」
「……ブレン少尉に送らせたはずだが?」
「ですから、ブレン少尉と並んで仲良く買い食いしていたんですよ」
「なん、だと…?」
衝撃的な報告だった。
(買い食い?)
アーデルハイト隊長が?
「……なぁ、マルクス。副官殿? おまえさん、もしかして昼のサンドイッチは屋台で買ったか?」
「ああ。いつもの所だ」
「……真似したくなったんだろうなぁ……」
「あ、あー…」
そういうことか。
モヤッとした苛立ちが生まれかけて霧散した。
「マルクス。あなたのことですから、買ってきてあげたんでしょうね」
「もちろんだ」
「値段も告げず。請求もせず。隊長に、自分の財布をさわらせなかったんでしょうね」
「あたりまえだろう」
「あの子たち、店先で1万ライヒマルク紙幣をだしていましたよ」
「屋台で? ライヒマルクで? ジェラート買ってンな高額紙幣を?」
「ええ。屋台の主人が困っていました。つり銭が足りなかったようです。軍服の二人連れ相手で、すでに商品は手渡していましたから。返せとも言いがたかったと思います。ブレン少尉は小切手でもいいかと尋ねてさらに困らせていました。庶民では銀行口座の開設はまだ一般的ではないのですが、そこには思い至らなかったんでしょう。ブラートフィッシュ家の署名が入った手形帳を財布代わりにしているようです。声をかけて、僕が支払いました」
「……いくらだ。俺が払う」
心当たりはあった。アーデルハイトが参考にしたのは今日だけのことではなく、先日のヴェーバー博物館近くの菓子店で行ったやりとりもそうだろう。大通りから一本逸れているとはいえ、地価の高い土地に店舗を構えた店と屋台では資金力も商品単価も、想定される売り上げだって当然違う。だが軍の酒保以外で買い物をしたことがなかったという伯爵令嬢にそこまで想像しろというのは難しい。俺たちの飲み会にそっと差し入れられる1万ライヒマルク紙幣ならばアルコールに溶けて終わりなので問題視したこともなかった。
電撃戦をはじめとした華々しい攻勢のみではなく。戦力で劣勢な場合の防御戦闘と遅滞行動について。軍事的な戦術論を論文にまとめる彼女は古参兵どころか参謀すら舌を巻くような明晰な頭脳を持っているけれども。とにもかくにも偏りが酷い。そうして育てられたのが故意なのか、それとも結果論なのかは関係者各位の思惑によるだろう。
「立替に感謝する」
「子どもの小遣い程度です。結構ですよ」
「そうもいかんだろ。いくらだ」
職場、軍内部での金銭の貸し借りなど、ろくなことにならない。金額の多寡が問題なのではない。彼女の婚約者として、上着のポケットに手を伸ばす。
「僕、冗談で婚約祝いと言ったんです。本気にされてしまいました。喜ばれました。礼を言われました。むしろ怖かったです。婚約者なんですから、ちゃんと教育しておいてください。あと、僕の代わりに謝って訂正しておいてください。それで充分です」
「それはむしろ俺が釣りを貰う要求では?」
「それと、買い物の仕方を教えるつもりがあるなら、あまり過保護にするのはおやめなさい」
ぐ、と詰まる。
「中途半端に知っている方が危険ですよ」
「経験の不足は能力の不足とは違うだろ」
「はぁ。いいですか。いくら軍服姿とはいえ、外見はいいとこの坊ちゃん嬢ちゃんなんですよ、あの二人は。おまけに中身も箱入り、世間知らずです。屋台でのやりとりを見て、ふくらんだ財布を見て、よからぬちょっかいをかけてくる人間だっているでしょう。肩章の星の数が読めない人間もいるんです。中身はなおさらです。世の中は広いんです。殺戮天使と放火魔のコンビにナイフを突きつけてカツアゲしようとする自殺願望者だっているでしょう」
「まぁ隊長はかわいいからな」
「誰もンなこたぁ言ってねぇよ」
呆れたようなツッコミをこぼしつつ立ち上がったオスカーがキャビネットを開き、重要書類を片付ける。そして二重底から紙束を取り出す。動きを目で追いながら、口を開く。
「王宮でのやり取りで覚えている限りを書き留めてある。これまでに判明している事実に加えてな。手が空いているときでかまわない。目を通しておいてくれ」
「アホ王子が軍に入ることは決定したんですよね?」
「ああ。読んでみな。びっくりするぐらい墓穴を掘りまくってんぞ」
薄暗い笑みを浮かべたオスカーから紙束を受け取りながら、シュタインが眉をしかめる。
「煽り耐性が低すぎるんだ。アーデルハイト隊長のことを最後まで名前呼びしていたのもわざとだろう。反骨心を見せつけたつもりなんだろうな。意地の張り方が間違っている。おかげで時間稼ぎを目論んでいた第二王子の脱落は問題なく進んだ。王太子はフリードリヒの釘刺しが意外と効いたのかもな。匙を投げたか? 国王と共に弟を切り捨てたと見ていい。入隊は学園の卒業後になるだろ。それまで、可能な限りのヘイトを集めておく。根回しをしておく」
「ひと月ちょっとありますね…。新聞社はどこにします?」
「小出しに応じるところを選べ。急がなくていい。今、婚約者のスカートに隠れた王子のネタを使ってもグリフォンとキメラの記事で埋もれるのがオチだ。俺としてはワーグナー国立歌劇場で上演中の舞台が千秋楽を迎えるまで引っ張ってもいいと考えている」
「『ハートに火をつけて』? …それはそれは。なかなかにエスプリが効いていますね」
納得顔のシュタインと違い、国立劇場での演目など知らないオスカーには説明を加える。
「王立学園に通う貧しい平民の娘が王子と恋に落ち、身分差を乗りこえて成就させる卒業までの騒動を演じる、わかりやすい勧善懲悪の物語だ。悪役令嬢のやられっぷりが人気らしい。年末公演なら、動員数次第でもうひと月は続くだろ」
「治安が不安定になった状況で続くかねぇ? 芝居を見に行こうって連中は減りそうなもんだが」
「どちらでもいい。こちらとしては知名度に便乗したいだけだからな」
ペンを置いて、椅子の背もたれに体重を預ける。前髪をかきあげる。
俺はフィクションである芝居の内容までを訂正したいわけではない。ケチをつけたいわけではない。
「貴族の醜聞記事なんざ堅実に現実を生きている庶民にとっちゃちり紙同然だ。時間が経てば誰もが忘れる。たいていの王族はそれを理解しているからな、炎上がおさまるまで時間を稼ぎたかったのが本音だろうよ」
「炎が消えない程度に、冷やさない程度に話題へのぼらせておけばいいんですね?」
「学生が学園のなかで何を口走って盛り上がっていようが構わん。だが社会に出てプロパガンダを仕掛けてくるなら受けて立つ準備はしておくべきだ」
「フリードリヒはいいとして、第三王子はどうだ? 手を出してきそうか?」
「まるで絡んでこなかった。それが答えだと踏んでいる」
「第一から第四王子まではクリアか。一姫様はフリードリヒの妹だしな。国王陛下も嬢ちゃんへの慰謝料支払いに積極的だったんなら大丈夫かねぇ」
「問題は王妃だ」
「強烈ですねぇ」
飛ばし読みに目を走らせるシュタインですら頬を引き攣らせている。
「ああ。兵役逃れをさせろと堂々元婚約者に迫ってきやがった」
「ブルクハルト様は子ども好きの優しい方だと仰っていたんだがなぁ」
「はっ。あの女は子ども好きなんかじゃない。無知で、素直で、思いどおりに動かせる幼い人間を好んでいるだけだ。はいて捨てるような対価で奉仕されたいだけだ」
まったくもってタチが悪いことこの上ない。
「あなたが王妃陛下に隔意を抱いたのは良く理解できましたよ」
「寂しいガキを手懐けんのに複雑な手管はいらねぇよ。耳ざわりのいい、責任のカケラもない優しい言葉をかけて、頭ぁ撫でて、甘い菓子の一つも与えてやりゃあいい。どんだけ賢かろうが、いちど知った飴の味は忘れられない。むごい真似をしやがるぜ」
「賢い子どもならばなおさらだ。記憶力に判断力も問題がないんだ。どうすれば褒められるかを考える。喜んで貰えるだろうと先回る。少し目端のきく大人なら好きに転がせるだろうよ。…それにな、兵役は帝国民の義務だと謳ったところで、現実には賄賂と情実人事が横行している。だからこそ王族が率先して範を示すべきだろうに、逆走どころか逆噴射だぞ? あの王族親子は徴兵制度の根幹を揺らがせている自覚がない」
「ずいぶんとこちらを舐め腐った御仁たちのようですねぇ。…は? 『不正を行った者が称賛されるなどあってはならない』から?」
「だから祝賀会の会場で騒ぎを起こしたというのが第五王子の主張だった」
「それを世間一般では大きなお世話と呼ぶんですよ」
「そうだな。裏づけまでしっかりとって初めて調査だ。正確な情報に基づき、分析を行う。主観に基づき、都合のいい意見だけを集めたものを調査とは呼ばん」
「ははっ。表彰席に座る人間が不正をしていたと主催者から発表された招待客はどうすりゃいいんだろうなぁ」
「テーブルの飲食物、ほとんど減ってなかったそうですよ」
常連客となった飲食店で、叱られている従業員を目にしながらスプーンを動かすようなものだろう。
肺の奥底からの、重いため息を各自につく。
「いたたまれねぇよなぁ」
「第五王子が自分の非を認めたのは男爵令嬢に関することだけだ。勇み足だったとな。それで謝罪のつもりらしいぞ。本気でな」
「これはもう、こちらが何かする必要もなく、自滅するのでは?」
「天使様のご機嫌次第では生き抜ける可能性もある」
そのときは人の手をもって引導を渡してやる必要があるだろう。
「僕、この王子が前線に馴染めるとはとても思えないんですけど」
「奇遇だな。俺もそう思う」
部下に畏怖されるのではなく、嫌われて、後ろから撃たれるタイプの上官だ。
「いやいや。いくらなんでも猫ぐらいは被るだろ。最初だけでもな? 初めての戦場だぞ? それに、取巻きのダチどもも一緒に入隊するんだろ? 護衛はつかなくても、学友どもを同じ戦場へ送る程度なら約定違反てわけでもない。そいつらと協力して兵役をこなせばいいだろ。うまくすりゃあ故郷の領地出身者と同じ部隊に入ることもあるだろうよ」
古参兵であるオスカー曹長の言いたいことはわかる。軍隊というコミュニティにおいて、友人を作る、そして敵を作らないという行動はとても重要だ。
情報の伝達、共有という行為一つとっても温度差が出る。
組織として規律運用されている軍隊で通達が行われないなんてことはない。通信が途絶し、孤立した部隊ならばともかくとして。仲が悪いから、あいつが嫌い、気に入らないからという理由で伝えないなんてことはない。だが道が険しいから集合時間に間に合うよう少し早めに出発したほうがいいとか、明日からの吹雪では視界が悪くなるから大きめのゴーグルを用意しておいた方がいいとか。そういう細かな、親切な助言をくれたりはしない。
必要最低限のことは教えてくれるけれども、知っておいた良いと判断されるような情報をよこしてくれるかどうかは人間関係なのだ。
「安心しろ。前線になど出たくないと駄々をこねて三人が三人とも登校拒否中らしい」
「うちの国、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。引きずりだされる予定だからな。フリードリヒ情報だが、すでに学園の単位は取得済みだそうだ。卒業もできる」
「そうかい。気のどくに」
「第五王子と男爵令嬢との仲を真実の愛と持ち上げて、アーデルハイト隊長の品格維持費をちょろまかした資金で買ったワインを生徒会室に飲んでいたそうだ。悪役令嬢への罵倒を肴にな。王子が言う調査とやらばそいつらが吹きこんだ噂話がほとんどだ。そもそも裏づけの取り方も知らんのだろうな」
「そうかい。無灯火に迎えてやろうな」
「闇討ちする気満々じゃないですか…。オスカー副長。2年もあるんですよ。730日、17520時間です。まずはゆっくり、じっくり、硬い土の上で眠りながらどうしてこうなったのかを思い返してもらいましょう。だんだん眠ることもできなくなっていきますから。埋めるのはそのあとです。いつでもできますよ」
「おまえら、そういうところだぞ?」
オスカーとシュタインの二人が顔を見合わせた。
どうぞ、と互いに手を差しだし合い。譲られたのはシュタインだった。頷き、俺へと向き直った。
「あなたにだけは言われたくないです」
「やかましい」
否定はせんがな!
翌朝の登丁、待機所へと続く冷えこんだ回廊。
アーデルハイトの姿を見かけた。ふわりと黒髪が揺れて。角を曲がるところだった。早足になって追いかける。
彼女の左右をはさんだ男たちには見覚えがあった。中尉の階級章。子爵家の出身、次男か三男で、跡取りではない。ならば軍で身を立てるつもりかと思えばやる気のなさ、素行の悪さが目につく連中だった。
ねばっこい視線を無遠慮に投げつけながら、口々にほざく。
「貴女のような美しい少女に魔道士の隊長職など荷が重かったでしょう」
マルクスが懸念していたこと。
「これ以上の傷物になっては取り返しがききませんよ」
それは婚約破棄の刃が彼女に向かうこと。
懸念が確信に変わったことを実感しながら、不衛生に長い髪をした顔見知りの肩へと手をかけようとした。
アーデルハイトがこちらに気づくほうが早かった。足をとめ、ほっそりした顎のラインがクッと上向く。高慢だが美しい仕草に口角が上がる。謙虚さの欠片もない口調に言葉がまろびでる。
「中尉たち。無駄口をたたく暇があるのなら、連立術式の一つも覚えたらどうだ? なんなら訓練に付き合ってやろうか?」
中尉の二人がマルクスよりも上なのは無駄に重ねた年齢だけだ。魔道士の端くれという期待値で中尉にまでは昇格したものの、飼い殺される未来しか浮かばないような男たちだ。術式の並列起動、精密なコントロールが要求される連立術式になど、挑戦したこともないだろう。
内心には腹立だしく感じているのが丸わかりの、へつらう笑みを浮かべ、さらに言い募ろうとした中尉たちは後ろに立つ俺に気づいた。ようやくだ。尻から下がってアーデルハイトから離れた。
タリスマンにおける絶対者が誰なのか。それこそ『噂』をご存知のようで何よりだ。
マルクスがにこりと笑いかけるのはアーデルハイトに対してだった。
「いいですね。隊長。訓練なら俺も付き合いますよ。北方からの帰還してこちら、大きな術式は使っていませんからね。腕がなまるといけない」
「っいえ、あの」
「違、アルニム伯爵令嬢に、」
「まだ用があるのか?」
一睨みで退散するような連中ですら、蜂の羽音のように不快を刺すことはできるのだ。恐れる必要はないが、警戒はすべきだろう。
「アーデルハイト隊長、大丈夫ですか」
「ああ。大丈夫だ」
そう言いながら、じっと俺を見上げる視線が外れない。
「期待どおり。ミュラー騎士団でも、実力を示してみせる」
なにしろ悪役令嬢は夢を見ないので。甘く、優しい夢は見れないので。ということに気づくにはあともう半日の時間が、俺にも必要だった。