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魔物の住む町  作者: Satoru A. Bachman
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第6章 かつて悪霊を負かした男(Ⅰ)

 第6章 かつて悪霊を負かした男(Ⅰ)


 11月。

東楓町で家族と離れて暮らす羽田翼は何度も禁煙を試みたが、タバコ無しでは生きられなかった。妻と息子と離れた原因もタバコである。キッチン、居間、寝室の枕元、トイレなど家のあらゆる場所に灰皿が置かれ、それらは常に吸い殻で満杯だった。翼のせいで家の中の白い壁がタバコの煙のせいで黄ばむほどだった。生活環境や息子の健康のことを考えてくれと妻の和江が激怒することは日常茶飯事だった。

初めてタバコを吸ったのはいつだったか。18才のときだ。今までの45年間の人生の半分以上はシャツの胸ポケットにマルボロの箱を入れて過ごしている。ときどき、ラークやセッターを買うこともあるが。ニコチンを取らずにいられる時間は1日と持たない。3、4時間もタバコを我慢すると、周りのあらゆる物がタバコに見えてきてしまう。楓沼の近くにあるいつも煙を上げている銭湯の23メートルの高さがある煙突がタバコに見えてしまう。黄色いMのマークがついた赤い紙のケースから頭を突き出す沢山のマックフライポテト一本一本がタバコに見えてしまう。市街地や路地に立つ電柱がタバコに見えてしまう。


 秋の日の暮れかかった冷涼な帰り道。澄んだ空を夕日がオレンジ色に染める。健康な人間にとってはそんな空を見るだけで気分が晴れ晴れするだろう。だが、翼にとって仕事の疲れや憂鬱を晴らしてくれるのはいつも胸ポケットに入れている“常備薬”である。勤務先であるフィールズ・ティー美船支社から自宅までは歩いて10分とかからない距離だが、勤務中にタバコを切らし、仕事明けの一服を抜きにして帰ろうものならニコチンが切れて凄まじくいらいらしてくる。この世の終わりのような気分。世界には自分とタバコしか存在せず、もう手元にタバコが一本も無くなると体中から血の気が失せて胃がきりきりと痛み出し、思考が支離滅裂としてくる。

キーン、コーン、カーン、コーンと午後6時の鐘を鳴らす美船時計塔が3本に分裂し、歩いている通行人の顔が歪んでブラックホールのように見える。翼のそばを通りかかった老婆に連れられていた犬がくんくん翼の臭いを嗅ぐ。初めは、犬は舌を垂らしてへらへら笑ったような顔をしていたが、ヘビースモーカーの中年の親父が放つ体臭を嗅いだ途端にくしゅんとくしゃみをし、身の毛をよだてて体をぶるっと震わせ、去っていった。


 「ヒー、ヒョー」

空から不気味な鳥の声が響いた。あいつが近くにいる。翼はその鳴き声の主を昔から知っている。姿こそ見たことはないが。気分を害し、死にたい気分にさせてくる悪霊だ。あいつが近くにいると、決まって奇妙なことが起こる。

「ヒー、ヒー、ヒョー」

逃げねえと。翼は足早に帰途を歩く。すぐに息が上がる。ぜえぜえ。げほげほ。喉が、胸が、苦しい。息を切らしていない時ですら胸痛は常にある。胸の内部に釘でも刺さっているかのような鋭い痛み。そこに何か意思のある魔物が潜んでいるかのように痛む箇所がどくん、どくんと脈打っている。今日はいつにも増して酷い。かはっ、があっ、と喉に溜まった痰を口の中に集めて、ぺっと地面に吐き出す。それでも不快な痰は無限に喉に溜まる。まるで翼の喉が痰の製造工場になってしまったようだ。その製造工場は24時間休みなく稼働している。頸部のリンパ節が腫れ上がり、ここのところは顔周りもむくんでいる。リンパ節に転移した病変が上大静脈を押しつぶし、血液などの循環が悪くなっているのだろう。2、30代の頃までと比べると近頃はハンサムだと言われなくなった。昔は容姿も頭も運動神経も良かったんだけどな。いや、まったく。“悪霊”よりも足が速かったのだ。


 慢性的な体の怠さ、痛みと闘いながらニコチン切れのいらいらを堪え、なんとか美船の森スポーツ公園のそばのタバコ屋まで来た。ガラス戸で雨戸を引く形式で、大正から昭和初期頃の商家を思わせる昔ながらのタバコ屋。ちょっとした生活雑貨なども売っていて、おばあさんが1人で店番をしている。その店が視界に入った途端に翼のいらいらや憂鬱が少し薄れ、生きる希望が兆した。灰色の雲間から日の光がわずかに差し込んだような気分だった。ガラスケースの中にセッター、マイルドセブン、マルボロ、キャビン、ラーク、沢山のタバコが並んでいる。最高だぜ。いや、まったく。だけど、全てタバコのせいなんだ。知ってん、知ってん、そんなこと。自分ではよく分かっていた。もう買うべきじゃない。俺はタバコなんてやめるべきだ。いや、まったく。こんな店から離れなくては。翼は立ち止まる。そして、眼前に迫っていたタバコ屋から一歩、また一歩後退する。


「何、迷ってんのよ、あなた、私無しで生きていけるの?」


そう言う女の声が聞こえ、翼は後ろを振り向いた。そこには上半身が紙のように真っ白な裸の美女がいた。髪はオレンジ色の炎で燃え盛っている。下半身は黄土色の包み紙のようなタイツに覆われている。文字通りマルボロのタバコのような姿をした女。彼女はにたにた笑いながら、真っ白く大きな乳房を揺らし、翼を手招きする。彼は抗えず、一歩、また一歩と頭にオレンジ色の火が輝く官能的な姿の美女に近づいていく。女は口を大きく開き、もくもくと白い煙を吐き出す。翼の顔が煙に包まれる。彼の頭の中に楽園が広がる。ニコチンとタールのパラダイス。多少、目と鼻に沁みるが最高だ。いや、まったく。うっひょお、このままぷかぷか浮いてしまいそうなくらい気持ちがいい。こりゃ、いい。翼の意識はすうっと薄れ、彼は通りのアスファルトの上に倒れた。わずかに残った意識で美女のほうを見上げる。彼女の目が銀色に輝いていた。残っていたわずかな意識も飛び、翼の視界は漆黒に包まれ、やがて思考も停止した。羽田翼は、そのまま永遠に目覚めることはなかった。





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