保健室
英語と国語の演習は、数学のように一問ごとに採点を受けて合格すれば次へ進めるという形式ではなく、九十分という限られた時間内にどれだけ多く解けるかを競うものだった。ただ量が異常に多く、長文を読みこなして、設問に文で答えるわけなので、時間が余るということは決してなかった。
すでに集中力が殆どなかった真沙美は、気負いなくマイペースで進むことに決めた。他の生徒の進み具合が全く分からないが、数学を受けた時の手ごたえから、学年下位五名には落ち込まないであろうという感触があったので、平均程度の位置を狙うつもりでのぞんだ。結果として精霊の警告に従うのは癪に障るが、この際止むを得ない。自分の弱さのせいなのだから。他愛もない警告に動じなければこんなことにならなかったのだ。
亜由子は相変わらず始めの三十分はぐっすり眠っていた。監督教官の「三十分が経過しました」の合図でむっくり起き上がり解答を始めるといった遣り方だ。しかしこの遣り方は数学では遅れを取り戻すこともできるであろうが、英語や国語では無理があろうというものだ。
英語の九十分が終わるや、亜由子は再び机に突っ伏して眠り始めた。
「ステイシー、できたんじゃない?」
ロカが羨ましそうに声をかける。
「うん、日本語で答える問題が少なくて助かったな。いつも和訳がでると大阪弁になってしまうよってに。ただ、これやとリザならもっとできたやろうな」
ステイシーは、一年先輩の勝呂リザのことを云った。
「昨日の波乱で、他の先輩方も黙ってないでしょうね」
ロカのひとことでみな頷く。ロカは自分の出来などどうでもよいことのように超然としていた。
わずか十分の休憩時間をはさんで直ぐに国語の演習となる。英語の時間の監督をしていた担任の成瀬教官は国語の教師だったために控え室へ引っ込んだ。かわりにやって来たのは、高雅教官と実習生の羽鳥周だった。声ひとつない教室の空気がなんとなくどよめくのが感じられた。
分厚い冊子のような問題を高雅教官と羽鳥実習生の二人が配った。羽鳥は、机に突っ伏している亜由子に少し戸惑いの表情を見せたが、机をとんとんと軽く叩いても亜由子が起きる気配を全く見せなかったので、諦めて教壇へ戻った。
ステイシーが彼の背中に向かって嬉しそうに手を振り、それを見てロカと亜樹がにやにやしている光景は巷の学園のものと何ら変わるところはない。彼が向かう教壇の中央に高雅教官が真剣な表情でこちらを窺っているのを、真沙美はひやひやしながら見ていた。
国語も大量の論説文や小説が並んで、文章で答える問題ばかりで、とても九十分で終わるような内容ではなかった。真沙美は眩暈のような感覚を覚えながらもマイペースを維持した。とにかくこの演習さえ乗り切れば、午後は解説ばかりなので楽勝の筈だった。場合によっては岡本友里奈医師に云われたように保健室へ駆け込むという選択肢もある。そう考えると最後に残っていた力がどんどん出てくるような気配すらするのだった。
半分夢見心地のような気分でいつしか問題にのめり込んでいた。意外なほど早く九十分が過ぎ終了の鐘が鳴った。ふと亜由子の方を見遣ると、英語の時のようにいつの間にか覚醒し、解答にかかっていたらしい。同じ班のメンバーが心配していないように、真沙美も今後は無用の心配をしないことにした。
昼休み。昨日と同じく生徒達は寮の食堂へ三々五々向かって行ったが、真沙美はロカたちに断って保健室へ行った。食欲もないし、少しでも寝ていた方が良いと考えた。
保健室を訪れると、予想に反して向かえたのは年配の養護教諭新座だった。交替で昼食をとるために先に高草木養護教諭が席を外していたらしい。新座が保健室に残っているのは、すでにベッドに横になっている生徒が二人いたからだった。
「初めて見る顔ね、名前は?」
新座の言葉は淡々としていて、聞きようによっては冷たくも聞こえるが、他人の態度というのはこちら側の感じ方だと常々思っている真沙美は、彼女の普段の話し方がこうなのだろうと判断した。
「松山真沙美です」
「ああ、転入生ね。昨日の数学十傑に載っていた」と、新座は俯いて書類を取り出し、眼鏡に手を遣ってよく吟味した挙句、真沙美の目の前にそれを差し出した。「この用紙に名前と、今の調子を書いて下さい」
ふつうもう少し様子を聞いてから書類に書かせるだろうに、と思ったところで仕様がない。ベテランだからひと目で重症か軽症かを判断できるのだろうと良心的に解釈した。
真沙美は正直に、緊張から睡眠を十分にとることができず、今朝から頭が重くて熱っぽいと書いて新座に見せた。
新座は書類を受け取ると同時に、手にしていた体温計を真沙美に渡す。無駄な話はしないが動きにも無駄がないようだ。「ちょうど良かったわね。ベッドは三つしかないから最後の一つが空いているわ。四人目以降は寮の医務室へ行ってもらわないといけないからね」
真沙美は、保健室奥のカーテンで仕切られたベッドへ案内された。両端のベッドにすでに生徒が寝ているようなので真沙美は真ん中のベッドを使うことになる。体温計を抜くと、予想に反して三十七度三分と微熱があった。風邪症状はないのだが、風邪のはじまりなのだろうか。
「こどもなら知恵熱とでもいうのかしら」
新座はふふんと独りで笑って、真沙美が横になると、まるで身についてしまった習慣だから仕方がないとでも言いたげな様子で布団を掛けてくれた。「ひとり一時間と決まっているからね。演習のときは利用者が多いから」
演習の時に利用者が多いというのは、それほどプレッシャーを感じて体調を乱す生徒が多いということだろう。まさか自分がその一人になろうとは夢にも思わなかったが。
「そうそう」と、新座は思い出したように、「二Bの六班といえば、菊村朱美は調子良くしているかしらね。彼女が一番ここへ休みに来ることが多いから」
確かに朱美は、見るからに顔色も蒼白で、あのロカが常に気遣っているくらいだから病弱なのだろうが、今日を見る限りは何の問題もなく演習に取り組んでいたと真沙美には見えたので、そのように新座に云うと、「ああ、そう」との素っ気無い返事を貰った。保健の先生なのでもう少し接しやすい人柄の方が生徒には好まれると思うが、全くの余計なお世話だった。
一時から午後の授業、演習の解説が行われるので、十分前に起こしてもらうことにしたが、すぐに熟睡してしまったらしく、眠ったと思った途端に起こされた。目の前に新座とは違う若い女性の顔があった。
「松山さん、大丈夫?」と、高い声で話しかける、白い綺麗な歯並びで笑顔が魅力的な彼女は、朝岡本友里奈が話していた高草木薫養護教諭だった。
慌てて体を起こすと、頭の重い感じが少し無くなっていて、これなら午後の部は何とか参加できそうだった。
「大丈夫そうね」と、高草木養護教諭が目を細め、その小柄な背中を見せた。ベッドから降りて後に従う。ショートカットの髪が丸く膨らんでいて、白衣の上に黒いボールがのっているようだった。真沙美はときどき人間がものや動物に見えることがある。今の彼女の後姿は黒いボールが白衣を着て歩いているみたい。だが、「どうしたの?」と振り返った時のイメージはさながらコケティッシュな栗鼠のようだった。彼女が一般出身の教官だからだろうが、聖麗の会に染まっていない分だけ生き生きとしているように見えるのは、真沙美自身の中にやはり聖麗の会とは相容れない何かがあるからに違いない。
「先生は教会員ではないんでしたよね」
「今のところね」
「入会するのですか?」
「さあ、まだわからないというのが本当のところ。でも私だけだし」
「私がいうことではないですが、今のままの方が良いと思います」
最後の言葉は口から勝手に出て来てしまった。高草木は不思議そうな顔をしていたが、真沙美は慌ててお辞儀をし、逃げるように保健室を出た。
大宮にいた頃は当たり前のように身近にいた一般の人間。教会員とやはり持っている雰囲気が違い、真沙美には接しやすかった。勿論学校でも、見かけ上は教会員の生徒達と行動を共にしてはいたが、ときどき登下校時に一般の生徒と会ったりすると、その愉快そうな話題が恋しくて寄り道をすることもあったほどだ。彼女達は真沙美が優等生であっても一人のクラスメイトとして接してくれる。しかし教会員の生徒達は、いずれ本校へいくかもしれない、果ては教会のシスターになるかもしれない首席の生徒として距離をおいていた。そこには羨望や尊敬の気持ちもあれば、嫉妬といった感情もあっただろう。
ここへ来たばかりの頃は、周囲は無関心を装っているように静かだった。彼女らは他人の成績にしか興味がないためで、昨日真沙美が数学で彼女らの予想以上の力を見せると、その目つきは一転し、気にしたくはなかったが大宮校の教会員の生徒達から受けた視線と同じものをあちこちで息もつけないくらい集中的に受けることになった。確かに精霊の忠告は当たっていることになる。目立ったがためにますます居心地の悪さが増大していくようだった。このまま寮生活を続けていくと、いつか窒息でも起こしそうな予感すらある。真沙美は何か息抜きになるものを探したいという衝動に駆られていた。




