第三章 幻覚04
気分は最悪だった。吐き気まで模様し、車を止めてもらい吐いてしまっていた。
「病院、寄って行くか?」
「大丈夫。すぐに落ち着くと思うから」
苗代は僕の背中を摩りながら、もう一方の手で携帯を操作していた。
「ああもしもし、俺だ。健吾。ああ。悪いが、一人連れて行くから面倒見てくれないか。ああそうだ。今から向かうから15分くらいで着く。親父? そんなもん、今は関係ない。ああ分かった分かった。了解だ」
「誰に、連絡したんです?」
涙目で訊く僕に苗代はハンカチを寄こす。
「藪医者だ。古くからの知り合いで、無理を聞いてくれる。チッ。汚ねーな。行くぞ」
先に僕を座席に戻し、近くの自動販売機で水を買い戻って来ると、苗代は、車を急発進させた。
水を飲む気にもなれず、額や目にそれを押しあて、後部座席で横になる。
「苗代さん、どうしてわざわざそんな人のところへ行くんですか? 僕なら大丈夫です。ちょっとグロイシーンを目の当たりにしちゃったから、気分が悪くなっただけですから」
バックミラー越しに僕を見た苗代が、ふっと笑みをこぼす。
ウィンカーの音が聞こえ、身体が大きく右に引きつけられ、僕はガバッと起き上がった。
「どうした?」
僕は口を手で押さえ、目で必死に訴える。
「わわわわ。待て待て」
苗代が路肩に止めようとスピードを落としたのを見計らって、僕は扉を開け、道路に転げ落ちるように飛び降り、そのまま住宅街へ駆けこむ。
手と足を擦りむき、右目の下あたりを切ったらしく、そこに手をやると血がついてきた。左足もおかしくしたようだ。走りにくい。僕は、後ろを気にしながら路地裏に入って行く。土地勘がない街で、どこへ出るのか全く分からず、僕はひたすらに走り続けた。
見知らぬ飲食店が建ち並ぶ路地で、疲れ果てた僕は捨て猫のように蹲る。
どのくらい経っただろう。
僕はハッとなり顔を上げる。
無条件に差し伸べられる手。
誰?
まるで磁石にでも吸い寄せられるように、抗うこともなく、僕は素の手を握り返す。
髪の長いその女性は、グレーのトレンチコート着て、目深に帽子を被っていた。
「ようやく。繋がった」
僕の手を引っ張り立たせたその女性は、顔に掛かった髪を手で払いのけ、にっこり微笑む。
日は暮れ、すっかり辺りは暗くなり始めていた。
僕はポケットに手を突っ込む。
みるみる僕の顔色が変わって行く。
夢中で逃げていたせいで、僕は携帯をなくしてしまっていた。
動揺は隠せない。頭の中が真っ白になる。心臓の音がやたら近くで聞こえていた。
冷たい風が頬をかすめて行く。
何も言わず、そのまま去ろうとするその女性に、僕はおずおずと声を掛ける。
「あなたはいったい、何者なんですか?」
一瞬の沈黙。
ゆっくり見つめ返され、僕は何とも言えない不思議な気持ちになる。
「その内に分かります」
僕は動けずにいた。
踵を返す時、微かに聞こえた音が、耳の奥で木霊する。
なぜ?
僕の中に生まれた疑問符が、さらさらと零れ落ち、数秒後には僕の記憶からきれいさっぱりと消え去っていた。




