第三章 幻覚03
「お加減でも悪いんですか?」
偶然隣り合わせたおばあさんが、心配して声を掛けて来た。
「大丈夫です。さっき頭を少し打ってしまって」
「まぁ、気の毒に」
品の良さそうなおばあさんは、バッグから飴玉を出し、これでも舐めなさいと差し出してきた。
頭が痛むのに、こんなのが何の役に立つんだ?
前髪の隙間から、おばあさんを見た僕は、ボソッとした声で礼を返す。
おばあさんは自分の口にも飴玉を放り込み、にこにこと僕のことを見ていた。僕は、飴玉を食べない訳にはいかなくなり、飴を口に入れる。
酸っぱい味が口の中で広がり、僕は微笑みかけてくるおばあさんへ、社交辞令ともいえる言葉を返した。
祖師谷駅に着き、おばあさんに会釈し、僕は電車を降りる。
改札を抜けた僕は、ふと、足を止めた。
そして、手当たり次第に旅行用パンフレットを手に、出て来たばかりの改札へ逆戻りを仕掛けて、人とぶつかってしまっていた。
相手は小柄で、断然僕の方が勢いがあった。
足をよろめかす相手を、僕はすかさず助ける。
「大丈夫ですか?」
「あはい。すいません」
相手はひと足違いで降りてきたあのおばあさんだった。
「ああいっけねぇ」
散らかってしまったパンフレットを拾集める僕を、おばあさんはしばらく訝っていたが、すぐに思い直し、拾うのを手伝ってくれた。
「そんなに慌てて、どうかしたの?」
拾ったパンフレットを渡されながら聞かれ、僕は曖昧な笑みを浮かべ、頭の中で秒読みを始める。
こんなことに、何の意味もない。
「なんか、電車の中に忘れ物をしちゃって。ごめんなさい。急いでたものだから気が付かなくって。怪我、ありませんか」
ゆっくりとした口調で、僕はおばあさんに微笑みがける。
せめてもの悪あがきだった。
「ないけど。ああ、驚いた」
一台の車が横断歩道へ突っ込んできたのは、その時だった。
つんざくような悲鳴がそこら中に響き渡り、人がなぎ倒されていく。
駅前は騒然となっていた。
誰かが救急車と叫ぶ。
物珍しさに、誰もが手にした携帯のシャッターを押す。
異様な光景なのに、口元が上がっている奴もいた。
僕は大きく首を振り、その場から離れて行く。
運命。
そんな言葉、好きじゃない。
九死に一生。
あのおばあさん、きっとしばらくは語り歩くんだろうな。
冷ややかな気持ちの僕を追い越し、人の波が流れて行く。
サイレンが集まり、上空がやかましくなる。
平和だ。
こんなことで熱くなれるなんて。
不謹慎だと分かっていても、僕もつい笑いが零れてしまっていた。
すべてが必然。
序曲に過ぎない。
少し、目を使い過ぎた。
目が焼けるように痛んだ。
僕は苗代に電話をかけ、近くのデパートのトイレへ駆け込む。
吐き気が止まらなかった。
騒然とした駅前は、まだ警察車両で埋め尽くされていた。
「やばいね。最近、こんな事件、増えて来ちゃって。どうしちゃったんだろう?」
程よくやって来た苗代の車に、僕は乗り込む。
車両規制が張られる中、容易く掻い潜って来られる苗代を、僕はやっぱりすごいと思ってしまう。
「大丈夫? 顔、真っ青だよ」
軽佻に聞いてくる苗代に、応える気がなかった僕は、シートに凭れ掛かり強く目を瞑る。
「面倒なもん、捨てちゃえばいいのに」
僕は聞こえないふりをした。
騒音が遠ざかり、僕はそっと目を開ける。
「予定、早まりそうだな」
むっつりとしたまま、僕は車窓へ目を向ける。
そこには味気ない風景があった。




