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前編

彼と出会ったのは、私がまだ8歳だった初夏の頃のことだった。



私が住むスーレン王国から遥か遠くの、アリア王国というとても大きな国の王子様が、自国の戦火から一時的に逃れて、友好国であったスーレン王国のお城に身を寄せるという話は、王女である私の世話をする侍女たちの間で持ちきりだった。


外国の、しかも大国の王子様がこのお城にやってくるということだけでも大きなインパクトだというのに、なんとその王子様は魔法というものが使えるらしい。おとぎ話か作り話のようだけれど、アリア王国では国王とその嫡男のみ魔法を使う力を宿しているのだという。その魔法はどんなことでも叶えてしまえるもので、その力によってアリア王国はずっと守られてきたようだ。




そんな話を侍女たちから昼間に聞いたあの日の私は、たった一人、父親から懲罰として閉じ込められた暗い部屋で、全てを思うままにできるその少年に思いを馳せた。


「…もしも魔法が使えたら…」


硬い椅子に腰掛けたまま、私はそんなことを考える。


もしも魔法が使えたなら、美しい顔立ちの両親や兄、そして妹とは似ても似つかないこの容姿を、彼らのような美しいものに作り変えるだろう。


もしも魔法が使えたなら、この出来の悪い頭を、よく出来た頭に作り変えるだろう。


そうすれば私は、両親や兄から、こんなふうに懲罰を与えたいと思われるほど憎まれたりせず、4歳の妹のように愛してもらえるのだろう。その時の幼い私は、本気でそんなことを考えては、魔法が使えたらよかったのに、と起こりもしない事に思いを馳せ、そして落胆していた。




どれだけ長い時間この部屋に閉じ込められていただろうか。私は冷たい机に頬を当てて、ただただ少しだけ開けられた窓から入り込む風に髪を揺らされていた。

ぼんやりと一点を見つめていた私は、ふと、窓の外の誰かがこちらを見ていることに気がついた。

一度瞬きをした私は、その誰かを確認した。そこにいたのは、見たことがない、同い年くらいの男の子だった。


「…だれ?」


私はそう呟きながらゆっくり頬を机から離した。男の子は怪訝そうにこちらを眺めている。私は今一度目を凝らしてその男の子を見つめてみた。

綺麗な銀髪に、エメラルドグリーンの瞳をしたその男の子は、私がこれまで会った誰よりも美しかった。儚げな見た目は初夏の風にいつか攫われてしまうのではないかと、初対面だというのに私は勝手に心配した。


「…お前、何してる」


そんな見た目のイメージとは正反対にも思えるような、不躾でぶっきらぼうな彼の口調に、私は少し呆然とした。私は、そんな偉そうに物を言われたことにむっとして、別に、とそっけなく返した。


「あなたに教えることはないわ」

「人が聞いてやってるのに、なんだその口のきき方は」


私は、この男の子に対する印象がさらに悪くなった。見た目が悪いからと親から冷遇されてきたから、容姿の良さが正しさの象徴のように考えてきたけれど、こんなに見た目が良くてもこんなに性格が悪いのは、それは本当に正しいのだろうかと、私は生まれて初めて親から提示され続けてきた基準に疑問を持った。


眉をひそめ怪訝そうな顔をする私に、おい!と更に彼は問い詰めた。


「俺が答えろと言ってるんだ!」

「…答えたくない!あなたが誰だか知らないけれど私、もう今後一切、あなたとは会話をしない!」


私はそう言い放つと、彼からそっぽを向いた。すると、男の子の息を吸う音が聞こえた、と思った瞬間、私の体は宙に浮いた。


「えっ、えっ?!」


感じたことのない浮遊感に、私は恐怖から固まる。窓の方に視線を動かせば、にやにやした男の子が私を見上げていた。


「ちょっ、なっ、お、おろして!おろしてよ!!」

「やだね」

「なっ、ぐっ…!」


私は、ぎこちなく手を動かして、なんとか地面に降りようとする。がしかし、体の自由がうまくきかない。不安定で、体の軸が安定しないこの状況、かつ、宙を浮いているというあり得ない体験に、私は顔が青くなる。


「おっ、いっ、いい加減にして!」

「なら早く答えろ。お前はここで、何をしていたか」


勝ち誇った顔で男の子は私を見上げていた。その顔に腹が立って、私は顔を真っ赤にしながらお腹に力を入れて、そして金切り声をあげた。


「言うもんかー!!!」


そう私が怒鳴ったことで、男の子はびっくりしたのか目を丸くした。その瞬間、急に私の体は地面に落ちた。お腹から落ちたため、腹部に鈍い痛みが走る。私は涙目になりながら、その痛みにのた打ち回った。


「…変な女」


そんな声がして、涙目で声の方を見上げると、呆れたような、怪訝そうな、そんな顔をした男の子が見えた。男の子は私を一瞥すると、それ以上は何も言わずにこの場から去ってしまった。


「な、なに…誰…?」


お腹にまだ残る鈍い痛みが、さっきまでの摩訶不思議な体験を夢じゃないと主張してくる。私は数回瞬きを繰り返したあと、ようやく、昼間に侍女たちから聞いた話を思い出し、彼が何者なのか理解した。





そうして、魔法使いの王子様はこのお城にやってきた。

魔法を使うというこの美少年の登場は、平坦な日々を送っていたこのお城にとんでもない衝撃を与えた。

私の父も母も兄も、重臣たちも他の貴族たちも、侍女や執事、とにかくこのお城の人間全員が彼に興味津々だった。


彼は、一人でいることはほぼなかった。常に隣に同じ年頃か少し上くらいの美しい少女数名と、執事を数名従えて歩いていた。このお城の誰かが彼に何かを話しかけても、基本的に彼は答えなかった。さすがに私の父や母には返事をしていたけれど、父や母は彼に対してひどく遠慮がちに接していた。幼いながら、私の両親は彼よりも立場が下なのだと察していた。



戦火から逃れてこの国にお世話になりに来たというのに、横柄な彼の態度に、次第に城の人間たちは彼を嫌うようになっていた。もちろん表面的には手厚く接していても、裏では彼に対して良くない思いを抱いていることを好き勝手話していた。


「いくら大国の王子だからって、態度がなってないわ」

「でも誰も言えない。陛下でさえも」

「だって魔法を使うんだもの。機嫌を少しでも損ねたら何をされるか分かったもんじゃない」


侍女たちはそう言って、彼の世話をすることをひどく恐れているようだった。


そして私は、そんな噂を聞きながら、自室の金魚たちの世話をしていた。ガラスの水槽の中を自由に泳ぐ金魚たちを、私はじっと目で追いかける。一昨年亡くなった祖母から譲り受けたもので、肉親のなかで唯一私に優しくしてくれた彼女を想って、私は金魚たちを大切に世話していた。彼女だけは私を可愛いと言い、そして、今髪につけている髪飾りをつけてくれた。彼女のその言葉を信じてはいないけれど、優しさだけは素直に受け取っていた。


金魚の世話をしながら、私は魔法をかけられた身として内心ぞっとしていた。もしかしたら私が今生きているのは奇跡なのかもしれない、と。


「(関わらなければいい、関わらなければ)」


私はそう心に決めていた。ひらひらと優雅に揺れる金魚のひれを眺めながら、私はうんうん、と誰にも気づかれないように頷く。



けれど、彼と関わるときはすぐに訪れた。



家庭教師から、物分かりが悪いと指摘が入り、それを聞いた母が私を懲罰としてまたあの暗い部屋に閉じ込めたのだ。


私はまた、暗く静かな部屋で一人、硬い椅子に座っていた。するとそこに、あの日と同じようにあの男の子がやってきたのだ。


「お前、またこんなところで何をしてる」


男の子はそう私に問うた。私は答えたくなんかなかったけれど、またあんな目にあうのが嫌で口を開いた。

…けれどやっぱり、彼の態度が気に食わなくてまた口を閉じた。

唇を噛み締めながら男の子を見ていたら、その男の子の目はなぜか少し心配そうにしていた。私はそんな彼に少し動揺して、咄嗟に、叱られたから、と答えた。男の子は、え?と首を傾げた。私は、恥ずかしさとやるせなさで投げやりになりながら、だから、と言った。


「勉強ができなくてお母様から叱られて、それで罰としてここに閉じ込められているのよ。…これで満足?」


私は、半ばやけくそになりながらそう答えた。男の子はぽかんとしたあと、馬鹿にしたような目を私に見せた。


「俺がお前を外に出してやろうか?」

「え、ええ…?」


私はそう言った男の子に怪訝そうな目を向けた。そして、頭を横に振った。


「抜け出したら余計に叱られる。私はお父様とお母様から嫌われているから」

「嫌われている?なぜ?」

「醜いから。あの方達と似ず、こんな風に愚かしく生まれ落ちたから」

「…」


男の子は私の言葉を、少しだけ目を丸くして聞いた。そしてその後、これ以上は開かないように固定されているはずの窓を軽く押して、そして全開にした。その瞬間、強い風が部屋に入り込む。私は呆然とその様を見る。初夏の青い空と白い雲が、くらくらしそうなほど鮮明に目に焼き付けられる。


「ほらこっち」


男の子は私に手を差し出した。私は、軽く飛び越えれば逃げられるはずのこの状況ですら躊躇した。

しかし男の子は、無理に私の手をつかむと、私を部屋の外へ救出した。一階の窓から飛び降りた私は、恐る恐る地面についた足を見つめた。


「…出て…しまった…」

「俺が適当に王妃に言うから」


男の子はそう言うと私から手を離した。私は改めて男の子の方を見た。この初夏の日差しの下に似つかわしくない、透けそうなほど白い肌、涼し気な目元。彼を見ていると薄ら恐ろしいような気持ちになり、それは彼があんまりにも整った見た目をしているからだった。


「あの、なんで、こんなこと…」


私は、未だに母への罪悪感で震える脚でそう尋ねた。男の子は、別に…、と濁したあと、目を伏せた。


「…こうしてあげられたらよかったのに、って、ずっと後悔していたから」

「え?」

「お前には関係のない話。お前、名前は?」


不躾にそう尋ねられて、私は口をぎゅっと曲げた。がしかし、答えずに彼の期限を損ねるリスクを考えて、…ニーナ、と素直に返した。男の子は、変な名前、と嫌味に笑う。私はそんな男の子を、むっとして見る。そんな私を見て、男の子は釣れた釣れた、とでも言いたげに楽しそうに口元を緩ませる。


「俺はノア」


その名前は当然知っていたけれど、私は、ふうん、と返した。そして、態とらしく深々と頭を下げて、ドウモアリガトウゴザイマシタ、と伝えた。顔を上げた私は当然むっとしていて、その顔のまま私は、失礼いたします、と言って彼の前から去った。

すると、私の足元が急にもつれた、と思ったら盛大に転んだ。私はよろよろと起き上がり、何が起こったか分からずに辺りを見回した。


「(…足を何かに引っかけた…わけでもない…)」


そう確認していたら、背後からくつくつ笑う声が聞こえた。振り向けば楽しそうにノアが笑っていた。

私は事情を察すると、立ち上がってスカートの埃を払った。そして、今一度ノアを睨みつけると、彼の前から去った。

その後、私が懲罰から逃げたことを知っているはずなのに、父も母も私に何も言わなかった。


これが、私とノアがお互いをきちんと認識した最初の日だった。





その日から、ノアの私に対する魔法を使ったいたずらは始まった。

その全ては軽いもので、遠くから髪を引っ張ったり転ばせたり、そんな些細なものであったけれど、ノアとその取り巻きたち、そして周りにいた侍女や使用人たちに笑われ続けることは、かなり精神的に疲れさせられた。



家庭教師から言われてわからなかったことを調べるために、私はお城にある図書室に向かった。そこで本を探していると、熱心に勉強をする兄の姿があった。

兄はひどく真面目で勉強熱心で、外国の本もたくさんあつめていつも勉強していた。


「…ニーナか」


兄は私を見るとそう気だるそうに言った。兄ももちろん私を嫌っていて、だから私は彼と関わらないように軽く会釈をしてその場を去ろうとした。彼はノアがこのお城に来てから分かりやすく不機嫌になっており、その苛立ちを私に当たることもあったため余計に、私はすぐに彼から離れたかっまた。

しかしその時は珍しく、おい、と兄が私に話しかけてきた。


「ノア王子と親しくしているらしいな」

「…親しく?」


兄の言葉に私はよくわからず首をかしげる。兄はじっと私を見たあと、いや…、と口元に手を当てた。


「いや、違うか、彼は魔法を使っている、そうか、なら勘違いか…」


ぶつぶつ何やらを話す彼に、私は怪訝そうに眉をひそめた。


「…あの、何の話ですか?」


そう尋ねた私の顔を、兄はまじまじと見た。そして、ハッ、と失笑した。


「こんな程度の女に、あり得ないか。周りにあんな綺麗所を侍らせているのに」


馬鹿馬鹿しいことを考えてしまった、と兄は笑うと、また本に目を落とした。私はよく分からないが、とりあえず自分の顔面を侮蔑されたことは理解できた。それでも当たり前のことすぎて私はもう何も思わず、軽く頭を下げると彼の前から去った。






部屋に戻った私は、金魚の泳ぐ水槽を眺めた。限られた空間のなかで、ゆらゆらと水中に沈む彼らを、私はたびたび時間を忘れて見つめていた。


「…可哀想に、こんな狭いところで…」


私はそう、いつも思うことを考える。祖母から譲り受けた大切なものとはいえ、狭い水槽でしか泳げない彼らがいつも不憫だった。とはいえ、海のないこの国では、彼らを自由なところへ放つこともできやしない。

ひらひらとゆれるひれを眺める。私は金魚の大きな瞳を見つめる。


「出たいよね、外に」


そう言って、私はノアの魔法を思い出す。もしも私に魔法が使えたなら、金魚たちを海に連れて行くことができたのかもしれない。

綺麗なひれを目一杯広げて、そして、どこまででも泳がせてあげることができたなら、そうしたらどれだけ素晴らしいことだろうか。自由なことだろうか。

そう考えた私は、ゆっくりと窓の外を眺めた。晴れた空を見上げながら、もうすぐ家庭教師が来るんだった、と思い出す。それからは裁縫の練習、それからは絵、それから楽器、それから、


「…怒らせないようにしよう」


私はそう独り言を言って、ゆっくり立ち上がった。






その日、ノアは一人で私の前に現れた。中庭を歩いていた私を、彼が呼び止めた。振り返ると、彼一人しかいなかった。珍しく取り巻きを引き連れていない彼に、私は、え?と首を傾げた。


「珍しいわね、一人だなんて」

「隙を見て逃げてきたんだよ。いつもうろちょろうっとおしい」


ノアは疎ましそうに言った。私は、へえ、と目を丸くした。


「好きで引き連れてるのかと思ってたわ」

「んなわけあるか。…俺にはこの力があるから、常に誰かに狙われてるんだよ」


ノアはそう、目を伏せて言う。私は、彼の周りにいる屈強な執事たちを思い出し、ああ…、と納得したように頷いた。


「…ボディーガードを連れたとして、あなたに必要なの?魔法があるんでしょ?」

「不要といえば不要。でも、いるにこしたことがないだろ、国からすれば」

「ああ…。…なら、あの女の子たちは?実はすごい武闘家なの?」 


私は、いつも彼のそばにいる美しい少女たちを思い出す。顔ぶれはいつも違って、いつもノアをちやほやしていた。


「なわけあるか」


ノアは不機嫌そうに言う。私は、え?とまばたきをゆっくり一回した。


「…だとしたら何役?」

「お前に教える道理はない」

「道理はないだろうけれど、興味本位で知りたい」

「誰が教えるか」


不機嫌な顔をしたノアが、そう言って私に軽く指をさした。するとその瞬間、私の頭につけていた祖母からもらった髪飾りが割れてしまった。


「あっ!!!」


私は、地面に落ちた髪飾りの欠片を、慌てて拾い集めた。地面に這いつくばる私を見下ろして、ノアは鼻で笑う。


「俺に変な口をきくからだ」


そう言い捨てたノアを、私は黙って見上げた。私のその、色のつかない目を見た彼は、一瞬だけ動揺したように瞳を揺らした。

私はそんな彼から目をそらすと、こぼれた落ちた欠片を全て拾い集めた。そして、黙って彼に背を向けて歩き出した。

ノアは不服そうに、なんだよ、と言った。


「直せばいいんだろ、直せば。持って来い、直してやるから」


そう言い放った彼に、結構です、と私は言った。ノアは、え、と声を漏らした。私は彼の方を振り返って、冷たい目線を送った。頭には完全に血が上っていて、それでも恐ろしいくらいに私は冷静だった。


「もう今後一切、あなたと会話をしない」


私はそう言うと、彼にまた背中を向けて歩き出した。


部屋に戻った私は、集めた欠片をハンカチーフにのせた。そして、その粉々になった髪飾りを見ていたら、瞳に涙が溢れた。


「…おばあさま…」


優しい彼女の声を思い出す。この髪飾りを私につけてくれて日のことを、私は今でも鮮明に思い出せるのに、それなのに。


この髪飾りを魔法で破損させた時のあのノアの顔を思い出して、私は悲しみから怒りに変わった。手を強く握りしめて、わなわなと震わせた。



その時、扉が開いた。振り向くとそこには、なんとノアがいた。私は眉をつり上げて彼を睨んだあと、自分の目が涙で滲んでいるのに気がつくと、さっと彼から目をそらした。

彼は後頭部をかきながらしばらく黙り込んだあと、…悪かった、と言った。私は驚いて、え?と声を裏返らせた。あの傍若無人の自分が頂点だと思っているような横暴なこの人物が、私に謝るなんて思ってもいなかったからだ。

私は動揺しながらノアを見て、…いいよ、と短く返した。謝るはずがないと思い込んでいた相手が予想外に謝ってきたことで、つい許してしまったのだ。


ノアは安心したように小さく息を吐くと、私のそばに来た。そして、割れてしまった髪飾りを見た。そして、それに手をかざした。その時、ふと彼は何かに気がついたのか視線を動かした。


「…これは何だ?」


ノアは、テーブルに置いてあった水槽を見てそう答えた。私は、え?と首を傾げた。


「金魚よ。まさか知らないの?」

「知らない。見たことがない。俺の国にこんな魚はいない」


興味津々な様子で、ノアは水槽に向かった。私は彼の隣に来て、おばあさまから譲り受けたのよ、と誇らしげに言った。ノアは、夢中な様子で金魚を見ながら、へえ…、と呟いた。


「この魚によく似た花が、城の周りでたくさん咲いているんだ。…それを思い出した」


そう言う彼の瞳がどこか頼りなくて、ああやはり母国に帰りたいのだと、心細いのだと私は悟った。

私はその綺麗な横顔を見つめた後、水槽を泳ぐ金魚を見た。


「…でも可哀想。こんな狭いところで泳ぐしかないなんて。本当はもっと自由に泳げるはずなのに。私はね、いつか海にこの子たちを逃がしてあげたいの」


そう言った私の横顔を、ノアが見た。私もノアの方を見て、そしてその目を見つめた。ノアの瞳が小さく揺れるのが見えたけれど、私は構わずに口を開いた。


「でもね無理なの。私の国には海がないから」


私はそう、大真面目に無念がった。そんな私を見て、なにを…、と気が抜けたように小さくノアは笑った。その笑顔に、私は予期せずつられて笑ってしまった。

しかし私は、あ、と声を漏らした。そして、ねえ、と眉をひそめた。


「それより、早く直してよ。反省して直しに来たんじゃないの?」


私がノアに言うと、ノアは、う、うるさいな、と言いながら髪飾りの欠片たちの前に戻った。そして、それらの上にまた手をかざした。私は横から、彼が魔法をかける姿を観察した。

けれど、いつまでたっても髪飾りはもとに戻らなかった。私は、ん?と声を漏らしたあと、ノアの方を見た。


「ねえ、直らないわよ?」


私はノアを急かした。ノアは震える手の平を、黙って見つめていた。私はそんな彼に業を煮やして、ねえ!と急かした。肩を揺らした彼は、私の方を見た。そして、はっ、と息を飲むと、ぎゅっと眉をひそめた。


「…そうやすやすと、魔法を使ってやるわけがないだろ。馬鹿か」


ノアはそう言い捨てると、さっさとこの部屋から出ていってしまった。閉まる扉に、私は、はあっ?!と声を荒げる。

散々私にくだらない魔法をかけて嫌がらせをしてきたくせに、やすやすと魔法を使ってやるわけがないとはどの口が言うのか。この時の私は彼の言うことがわからず、そして宝物の髪飾りを壊されたままにされたことに腹が立って堪らなかった。






しかし、髪飾りの件は意外な結末を迎えた。

なんと、壊された日から2週間後、ノアが職人を呼びつけて、私の髪飾りを修復させたのだ。

ヒビの跡はのこっているものの、きちんと使えるまでに修復された髪飾りをノアが遣わせた職人から受け取り、私はそれを久しぶりに頭につけた。壊された怒りは消えないものの、こうしてまた使えるようになったからまだいいかと、私は自分で自分の溜飲を下げた。



その1週間後、ノアがこのお城を去ることになった。

あの日から一度も私はノアと顔を合わせてはいなかった。このままノアはここを去るのだろう、と思っていたけれど、意外にもノアは私に会いに来た。中庭でぼんやりとしていた私に、誰も引き連れていないノアが話しかけたのだ。

ノアは私の髪飾りを見ると、直ったんだな、と言った。私は少し不機嫌そうに、まあ、と返したあと、まあ直してくれてありがとう、と少し不服な気持ちで返した。彼の魔法で直したほうがもっときれいになったのに、という思いが消えなかったからだ。

ノアは私のそんな思いを見透かしてか、少し気まずそうに目を泳がせた後、これ、と言って私に何かを差し出した。私は彼の手にあるものを見た。押し花の栞で、紫色の花がついていた。その花の姿に、私は、あっ、と声を漏らす。


「金魚みたい!」


私は目を輝かせる。そんな私を見て、ノアは小さく口元を緩めた。私はノアの方を見て、これ前にあなたが言っていたお花ね、と言った。


「前に市場で、たまたま見かけた。お前にやる」

「ほんとう?いいの?ありがとう」


私はノアの手からその栞を受け取ると、大事そうに両手で包んだ。まるで紫の金魚が泳いでいるかのように見えるその花の栞に、私は目を細める。


「ねえ、このお花の名前は?」


私はノアの方を見てそう尋ねた。ノアは瞳を少し揺らしたあと、知らん、とぶっきらぼうに返した。私はそんな彼に、ええ?と首を傾げた。


「本当に知らないの?」

「…知りたければ自分で調べろ」


ノアはそう言うと私に背中を向けて歩き出した、私は怪訝そうに彼のその背中を見つめた。そして、ありがとう、と腑に落ちない気持ちで言った。彼は背中を向けたまま軽く私に手を振り返すと、そのまま去っていった。


その翌日、ノアはこのお城から母国へと帰っていった。

ノアがいなくなれば、平坦な毎日だったお城の日常に戻った。彼が出ていったことで、お城の中に蔓延していた変な緊張感はなくなった。


彼がいなくなってからも、私は、折に触れては水槽の前で彼からもらった栞を眺めた。美しいその花を眺め、意地悪な男の子だったと、すこし笑いながら私はノアのことを思い出していた。



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