第35話「村瀬陽菜の話」
お読みいただきありがとうございます。「二週間、誰にも言えなかった」——村瀬陽菜が施設に来た夜の話です。二時間かけて蓮が覚醒から今日までを話すと、村瀬は一つずつ確認するように聞いていました。翌朝の測定は「測定不能」。そして施設の外周を六人が囲んだ瞬間、蓮が前面と裏側を同時に封じます。
施設に連れてきた夜、村瀬陽菜は最初の一時間、何も話さなかった。
食堂のテーブルに座って、コーヒーを両手で持っていた。周囲を見ていた。装備を持って歩く探索者を見ていた。地図を広げて話し合っている人間を見ていた。遠征から戻ったらしい疲れた顔の人間を見ていた。そういう人間たちが普通に存在している場所だった。全員が何かをしていた。誰も村瀬を気にしていなかった。おかしな目で見る人間もいなかった。
「みんな本物の探索者ですか」と村瀬は聞いた。
「そうです」と凛が答えた。
「私も探索者になるんですか」
「なりたくないなら、なる必要はありません」と蓮は言った。「スキルのことを理解してもらいたい。それだけです」
村瀬がコーヒーを飲んだ。「一日だけと言いましたが、もう少し聞かせてもらえますか」
「いくらでも」
凛がコーヒーをもう一杯持ってきた。村瀬がそれを受け取った。両手で持った。少し温度が下がっても、まだ持ち続けた。
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二時間、話した。
蓮は自分の覚醒から今日までのことを話した。省いたことはほとんどなかった。覚醒した日のこと、最初に凛と会った時のこと、師匠の記録を読んだこと、最初のダンジョンで何が起きたか。根源に触れたこと。帰れた理由。凛に引き戻してもらいながら力を分散させたこと。
村瀬は黙って聞いていた。時々凛を見た。凛がうなずいた。蓮が話している間、村瀬は一度も遮らなかった。言葉が止まるたびに、少し間を置いてから次の質問をした。確認するように、一つずつ聞いていた。
「根源というのは何ですか」と村瀬は聞いた。
「ダンジョンの核の奥にいる何かです。俺には言葉が届きました。意図して取り込もうとしたのではなく、力が流れるだけで止められないと言っていました。前の三人は、その流れに押し流されました」
「あなたは止められた」
「凛さんの補助魔法で引き戻してもらいながら、力を分散させました。一か所に溜めないようにすれば、流されない。感覚の話なので、言葉では伝えにくいですが、訓練すれば身につきます」
村瀬が少し考えた。「私はそれができますか」
「できるようになります。俺もできなかったところから始めました。八十日かかりましたが、本番に間に合いました」
「八十日」と村瀬は繰り返した。「長いですか」
「早いか遅いかはわかりません。ただ、間に合ったのは確かです」
村瀬がテーブルの木目を見ていた。
「二週間、一人でいました」と村瀬は言った。「何かに触れるたびに焦げる。スマホが熱くなる。取引先と会うのが怖くなって、ずっと在宅で仕事をしていた。外に出ると誰かに見られている感じがした。アルケミアの人間だったんですね、あれ」
「そうです。覚醒した時から追われていた可能性があります」
「なんで私なんですか。普通のデザイナーですよ」
「俺も普通の事務員でした」と蓮は言った。
村瀬が少し笑った。初めて笑った。「そうですか」
少し間があった。
「昨日、公園で地面が焦げた時」と村瀬は続けた。「怖かったですけど、それより先に……少し安心したんです。自分だけじゃないと思って。二週間ずっと、誰にも言えなかったので」
蓮は何も言わなかった。凛も言わなかった。村瀬が続けた。
「あなたも最初は怖かったですか」
「怖かったです」と蓮は言った。「触れるものが全部焦げた。制御できなかった。一人でいた時が一番怖かった。凛さんが来てから、少し変わりました」
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翌朝、早川が村瀬のスキルを測定した。
「測定不能です」と早川は言った。短い返答だったが、早川が測定器を二度確認したことは見ていた。「柏木さんと同じ区分です。出力はまだ不安定な覚醒直後の状態ですが、スキルそのものは確かにあります」
「訓練はどこから始めますか」と村瀬が聞いた。
「出力の制御からです。昨日の公園でやったペットボトル、ペットボトル本体は焦がさずに周囲の地面だけを焦がしました。あれが最初の目標です」
「難しいですか」
「最初は難しいです。ただ、方法はあります。感覚の話なので、俺が教えるより凛さんに補助してもらいながら試した方が早いです」
村瀬が凛を見た。凛が「一緒にやります」と言った。「急がなくていいです。段階があります」
その時、施設の警報が鳴った。
「外周に不審者です」と警備担当の声が無線から入った。「人数、確認中。六人以上です」
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蓮が外に出ると、施設の外壁沿いに人影があった。四人が前面、二人が裏側に回っていた。黒い服だった。昨日の公園とは別の人間だった。施設全体を囲もうとしていた。前回正門前に並んだ戦法ではなかった。角に人間を配置して、見えない死角を作ろうとする形だった。
「補助具は」と蓮は後ろの凛に言った。
「持っています」と凛は答えた。すでに出していた。
「全員の位置が見えていますか」
「前面に四人、裏に二人。計六人です。まだ動いています。角の位置に着こうとしています」
蓮は手を伸ばした。
施設前面の外壁の前、横一列に地面が焦げた。黒い線が走った。前面の四人が同時に止まった。足元の線を見ていた。次の瞬間、裏側に向けた。二か所が同時に焦げた。裏の二人も止まった。
六人が全員止まっていた。角に着く前だった。
「移動しないでください」と蓮は言った。「御堂さんが対応します」
御堂と部下三人が動いた。六人を一人ずつ対応した。十分かからなかった。
村瀬が施設の入口から見ていた。蓮が戻ると「また来たんですね」と言った。顔が青かった。怖がっているのではなく、何かを考えている顔だった。地面の焦げた線を見ていた。
「しばらく続くと思います」と御堂は言った。「あなたがここにいることを知っているはずです。それと、もう一点。捕まえた六人の所属を確認しました。クロウの部隊ではありません。急進派の工作員です」
蓮が「急進派が直接動き始めた」と言った。「クロウを経由せずに来た。村瀬さんを狙っています」
「私が目標なんですか」と村瀬は言った。自分を責める声ではなかった。確認している声だった。
「そうです。あなたのスキルを利用しようとしている人間たちです。ただ、こちらが先に保護できた。今の状態なら守れます」
村瀬が少し間を置いた。「それでもいてもいいですか」
「いてください」と蓮は言った。「訓練が終わるまで。それが一番早い答えになります」
村瀬が焦げた地面の線をもう一度見た。「あなたが動く前に、もう線が引かれていました」と言った。「気づいたら全員止まっていた」
「全員の位置を把握してから動いたので、一度で全部取れました」
「止めた後、声を上げなかったですね」
「必要がなかったので」
村瀬がそれを聞いて黙った。考えていた。
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夜、村瀬が「あなたはどうして事務員だったんですか」と聞いた。
唐突な質問だった。蓮は少し考えた。「特に理由はなかったです。大学を出てから仕事を選べなかった。そこしかなかった」
「嫌だったんですか」
「嫌でした。五年間嫌でした。ただ、その五年が今に繋がっています。記録を残す習慣も、締め切りを数える習慣も、笹岡の職場で身についたものです」
村瀬が少し間を置いた。「私もフリーランスになる前、会社が嫌でした。それでも三年いました。意味があったのかなと思うことがあります」
「あったと思います。確かめる機会がないだけで」
村瀬がそれを聞いて、少し表情が変わった。「それでもいいんですか、確かめなくても」
「俺は確かめられましたが、たまたまです。確かめられなくても、なかったことにはならない」
村瀬がしばらく黙っていた。テーブルの上に両手を置いたまま、何かを考えていた。
「あなたは手帳に書いていましたね」と村瀬が言った。「公園で、私の名前を書いていた」
「毎日書いています。記録する習慣です。事務員の時から続けています」
「何を書くんですか」
「その日起きたことと、日数です。覚醒から何日目かを必ず書きます」
「なぜ日数を」
「いつ終わるかわからなかったので、どれだけ来たかを数えることにしました」
村瀬が少し考えた。「私も書いた方がいいですか」
「好きにしてください。ただ、俺には役に立ちました」
村瀬が何かを言いかけて、やめた。少し間を置いてから「わかりました」とだけ言った。
手帳を出して書いた。「村瀬陽菜が訓練を始めることになった。急進派の工作員が施設に六人来た。全員止めた。急進派が直接動き始めた。訓練を急ぐ必要がある。覚醒から八十三日目」 書き終えてから、一行追加した。「五人目は一人じゃなくなった」
次話:第36話「急進派の奇襲」
覚醒から八十七日目。急進派のギレンが三十二人と裏手十五人、計四十七人で施設に来ます。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




