表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/40

第1話「退職と、翌朝のこと」

退職届は、A4の白い紙一枚だった。


 書くのに三十秒もかからなかった。五年間勤めた職場への思いを込めるつもりは、もうひとかけらもなかったからだ。


「柏木、これ……本気か」


 支部長の笹岡は、机越しに書類を受け取りながら、まるで虫でも渡されたような顔をした。五十がらみの男で、腹だけは一人前に出ている。スキルは「統率・上級」。それだけで出世した、典型的な能力主義の受益者だ。


「本気です」


 柏木蓮は答えた。二十七歳。スキルなし。冒険者ギルド第三支部、事務職員。肩書きはそれだけで、実態はギルド全体の雑用係だった。


 笹岡がどんな男だったかを、蓮は走馬灯のように思い出した。


 入職して最初の一週間、まだ右も左もわからない蓮に、笹岡は月次集計の全権を丸投げした。「これ、前任がいなくてな。マニュアルはないけど、勉強しながらやってくれ」。そのくせ締め切りだけは厳守を要求し、一分でも遅れれば「社会人としての自覚がない」と怒鳴った。


 二年目。担当だった探索者チームの遠征報告書に誤字があった。書いたのは探索者本人だったが、チェックした蓮の責任だと言われ、笹岡は取引先への謝罪文を蓮に書かせた。謝罪の主語は「ギルド職員 柏木蓮」だった。


 三年目。「スキルなしは前線に立てないんだから、その分せめてサポートで貢献しろ」が笹岡の口癖になった。残業代は「みなし」として計算されており、どれだけ遅くまで残っても給与明細の数字は変わらなかった。蓮が一度確認しにいくと「お前が仕事遅いだけだろ」で終わった。


 そして先週。笹岡は他支部から回ってきた緊急案件を、何の相談もなく蓮の机に置いて帰った。付箋に「明日の朝イチで頼む」とだけ書いてあった。蓮はその夜、終電を逃した。


 それが最後の一滴だった。


「おい、待て。今月末で辞めるって、引き継ぎはどうする。月次報告はお前しか——」


「引き継ぎ資料は昨日のうちに全部仕上げました。メールで全員に送ってあります」


 笹岡が口を開けたまま固まった。


 蓮は続けた。


「有給が二十三日残っています。本日より消化します。出社は今日が最後になります。お世話になりました」


 深々と頭を下げて、踵を返した。


 背後で笹岡が何か言っていたが、もう聞こえなかった。


---


 エレベーターを待つ間、隣の島の同僚——須藤という男が目を合わせないようにしながら近づいてきた。


「……柏木さん、本当に辞めるんですか」


「うん」


「でも、今の時期はちょっと……支部長、怒ってますよ」


 蓮は須藤の顔を見た。三年前に入ってきた後輩で、一度だけ「俺、今日どうしても早く上がりたくて」と言いながら蓮の残業案件を押し付けてきたことがある。本人は覚えていないだろう。


「怒らせてしまってすみません」


「いや、そういう意味じゃなくて——」


 エレベーターが開いた。


 蓮は乗り込みながら振り返らなかった。


 ただ一人だけ、振り返りたい気持ちがあった。


 フロアの奥、窓際の席で、朝霧凛が静かにこちらを見ていた。同い年の事務職員で、補助魔法・中級のスキル持ち。なぜこんな支部に留まっているのか、蓮にはわからなかった。


 目が合った。


 彼女は小さく、しかし確かに言った。


「お疲れ様でした」


 エレベーターの扉が閉まった。


---


 ビルを出ると、秋の風が顔に当たった。


 蓮はしばらく、その場に立ち尽くした。


 おかしいと思った。空がこんなに広かっただろうか。道を行き交う人たちが、こんなに軽やかに見えただろうか。五年間、このビルに通い続けたくせに、外に出た瞬間だけで、世界の解像度が違って見えた。


 歩き出すと、体がやけに軽かった。


 五年分の残業が、五年分の怒鳴り声が、五年分の「スキルなしのくせに」という目線が、ビルの中に置いてきたみたいだった。


 駅までの道を、蓮はわざとゆっくり歩いた。急ぐ必要が、もうなかった。


 信号待ちで、横断歩道の前に立った。隣に、通勤らしいスーツ姿の男が並んだ。胸元のバッジに「探索者ライセンス・A級」とあった。蓮がギルドで管理書類を処理する相手と同じ種類の人間だ。


 以前なら、なんとなく目を伏せていた。スキルなしという引け目が体に染み込んでいたから。


 今日は、なんとも思わなかった。


 信号が青になって、蓮は歩き出した。


 ただ歩いた。それだけのことが、妙に清々しかった。


---


 その夜、蓮はアパートのベッドに倒れ込んで、天井を見た。


 泣くかと思ったが、泣けなかった。


 ただ、ひどく眠かった。五年分の疲れが、一気に押し寄せてくるようだった。


 スマートフォンを手に取り、ニュースアプリを開こうとして、指が滑った。代わりに起動したのは「スキル管理」アプリだった。


 国が運営している公式アプリで、全国民が18歳の成人検査でスキルを登録する義務がある。蓮のページはいつも殺風景だった。


```

柏木 蓮(27)

【登録スキル】

 なし

```


 見慣れた画面だ。五年間、何度も開いて、何度もため息をついた。


 蓮はアプリを閉じて、目を閉じた。


---


 翌朝。


 目が覚めたのは七時過ぎだった。今日から有給消化だと思い出して、少し気分が軽くなった。


 惰性でスマートフォンを手に取り、スキル管理アプリを開いた。


 最初は、見間違いだと思った。


 目をこすって、もう一度見た。


 変わらなかった。


```

柏木 蓮(27)

【登録スキル】

 魔法使い 等級:測定不能

```


 蓮は十秒間、画面を見つめた。


 それから、アプリを閉じた。深呼吸を一回した。開き直した。


 変わっていなかった。


「……は」


 声が出た。間の抜けた一音だった。


 ベッドから起き上がり、洗面台に向かい、顔を洗い、鏡を見た。顔には何も変わったところはなかった。寝ぐせがひどいだけだ。


 もう一度アプリを確認した。今度はスマートフォンを再起動してから開いた。


```

 魔法使い 等級:測定不能

```


 変わらない。


 蓮は画面を見ながら、頭の中で知っている情報を引き出した。


 魔法使い——それ自体は知っている職業だ。炎・水・風・土などの属性魔法を扱うスキルを持つ者を指す。ただし、全スキル覚醒者の中でも出現率は一%以下とされており、探索者ギルドでは「希少職」として別格扱いされる。戦闘力が高く、国家からの研究協力要請が来ることもある。


 問題は等級のほうだ。


 スキルの等級は「初級」から「中級」「上級」「特級」「英雄級」の五段階が一般に知られている。その上は公式には存在しないことになっているが、ギルドの事務職員として働いていた蓮は、内部資料で「英雄級を超える測定外事例」が過去に数件記録されていることを知っていた。ただし詳細はすべて黒塗りで、現在も生存しているかどうかすら不明だった。


 つまり「測定不能」は、等級表の外側にある言葉だ。


 おかしい。バグか、それとも測定エラーか。


 蓮は国のスキル管理局の公式サイトにアクセスし、「等級エラーの報告フォーム」を探した。見つからなかった。代わりに「スキル変動に関するお問い合わせ」というページが出てきたが、電話番号しか載っていなかった。


 コーヒーを淹れながら、もう一度アプリを確認した。


```

 魔法使い 等級:測定不能

```


 やっぱり変わっていなかった。


---


 着信が来たのは、午前九時十七分だった。


 表示された名前を見て、蓮は一瞬固まった。


 笹岡支部長。


 出るか出まいか、一拍迷った。


 出た。


「……もしもし」


「柏木っ! 昨日はちょっと言い方がきつかったかもしれないが、悪かったと思ってる。だからまず話し合いの場を——」


 昨日まで謝罪など一度もしなかった男が、開口一番に「悪かった」と言った。蓮はその事実を静かに飲み込んだ。


「なんでスキル覚醒したこと、昨日のうちに言わなかったんだ!」


「覚醒したのは今朝です。昨日辞めた後のことです」


「でも今は持ってるだろ! 魔法使いなんて、どこのギルドも喉から手が出るほど欲しがる。うちで働いてくれたら、もちろん待遇は全部見直す。給与は今の三倍は出せる。役職だって、明日にでも主任に——五年間お前が積み上げたものをそんな簡単に捨てるのか」


 五年間積み上げたもの、と笹岡は言った。


 蓮は少し考えた。五年間で自分が積み上げたもの。深夜の引き継ぎ資料、他人の誤字の謝罪文、消化できなかった有給、「スキルなしのくせに」という目線への耐性、そして朝霧凛の「お疲れ様でした」という声——。


 最後のひとつ以外は、ギルドには置いてきた。


「お気持ちはわかりました」


 蓮は静かに言った。


「でも、もう決めたことなので」


「待て、話を最後まで——」


 電話を切った。


 静寂が戻った。


 コーヒーを一口飲んだ。ちょうどいい温度になっていた。


 着信が鳴った。笹岡だった。


 蓮は画面を裏返してテーブルに置いた。


---


 午前中だけで、着信は十一件来た。


 笹岡支部長から三件。知らない番号から六件。かつて「お前みたいなスキルなしに用はない」と言った探索者の桐嶋から二件。


 蓮は全部無視した。


 昼過ぎ、一件だけ、知らない番号にコールバックしてみた。出たのは女性だった。


「お電話ありがとうございます。国家スキル管理局、特別事案対応室の者です。柏木蓮さんでいらっしゃいますか」


「……そうですが」


「本日ご登録いただいたスキルについて、確認させていただきたいことがございます。なお、等級『測定不能』のスキルは、現行の管理システム上、国家への報告義務が生じる特殊スキルに分類されております」


「義務ですか」


「はい。つきましては、できるだけ早くご来庁いただきたく——」


「仕事、辞めたばかりで今ちょっと休みたいんですが」


 電話口で沈黙があった。


「……それは、大変でしたね」


 意外に素直な反応だったので、蓮は少し拍子抜けした。


「来週でもいいですか」


「わかりました。では来週月曜、十時にご予約を入れさせていただきます。よろしいでしょうか」


「はい、よろしくお願いします」


 電話を切った。


 窓の外では、秋の午後の光が静かに差し込んでいた。


 蓮はソファに深く沈み込んで、目を閉じた。


 スキルが生えようが国家機関が動こうが、今日くらいは何もしたくなかった。五年分の疲れが、まだ体のどこかに残っていた。


 ただ、脳裏に一つだけ声が残っていた。


 ——お疲れ様でした。


 あの声だけが、五年間の記憶の中で、唯一まっすぐに届いた言葉だった。

次話「測定不能、というのはどういう意味ですか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ