第1話「退職と、翌朝のこと」
退職届は、A4の白い紙一枚だった。
書くのに三十秒もかからなかった。五年間勤めた職場への思いを込めるつもりは、もうひとかけらもなかったからだ。
「柏木、これ……本気か」
支部長の笹岡は、机越しに書類を受け取りながら、まるで虫でも渡されたような顔をした。五十がらみの男で、腹だけは一人前に出ている。スキルは「統率・上級」。それだけで出世した、典型的な能力主義の受益者だ。
「本気です」
柏木蓮は答えた。二十七歳。スキルなし。冒険者ギルド第三支部、事務職員。肩書きはそれだけで、実態はギルド全体の雑用係だった。
笹岡がどんな男だったかを、蓮は走馬灯のように思い出した。
入職して最初の一週間、まだ右も左もわからない蓮に、笹岡は月次集計の全権を丸投げした。「これ、前任がいなくてな。マニュアルはないけど、勉強しながらやってくれ」。そのくせ締め切りだけは厳守を要求し、一分でも遅れれば「社会人としての自覚がない」と怒鳴った。
二年目。担当だった探索者チームの遠征報告書に誤字があった。書いたのは探索者本人だったが、チェックした蓮の責任だと言われ、笹岡は取引先への謝罪文を蓮に書かせた。謝罪の主語は「ギルド職員 柏木蓮」だった。
三年目。「スキルなしは前線に立てないんだから、その分せめてサポートで貢献しろ」が笹岡の口癖になった。残業代は「みなし」として計算されており、どれだけ遅くまで残っても給与明細の数字は変わらなかった。蓮が一度確認しにいくと「お前が仕事遅いだけだろ」で終わった。
そして先週。笹岡は他支部から回ってきた緊急案件を、何の相談もなく蓮の机に置いて帰った。付箋に「明日の朝イチで頼む」とだけ書いてあった。蓮はその夜、終電を逃した。
それが最後の一滴だった。
「おい、待て。今月末で辞めるって、引き継ぎはどうする。月次報告はお前しか——」
「引き継ぎ資料は昨日のうちに全部仕上げました。メールで全員に送ってあります」
笹岡が口を開けたまま固まった。
蓮は続けた。
「有給が二十三日残っています。本日より消化します。出社は今日が最後になります。お世話になりました」
深々と頭を下げて、踵を返した。
背後で笹岡が何か言っていたが、もう聞こえなかった。
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エレベーターを待つ間、隣の島の同僚——須藤という男が目を合わせないようにしながら近づいてきた。
「……柏木さん、本当に辞めるんですか」
「うん」
「でも、今の時期はちょっと……支部長、怒ってますよ」
蓮は須藤の顔を見た。三年前に入ってきた後輩で、一度だけ「俺、今日どうしても早く上がりたくて」と言いながら蓮の残業案件を押し付けてきたことがある。本人は覚えていないだろう。
「怒らせてしまってすみません」
「いや、そういう意味じゃなくて——」
エレベーターが開いた。
蓮は乗り込みながら振り返らなかった。
ただ一人だけ、振り返りたい気持ちがあった。
フロアの奥、窓際の席で、朝霧凛が静かにこちらを見ていた。同い年の事務職員で、補助魔法・中級のスキル持ち。なぜこんな支部に留まっているのか、蓮にはわからなかった。
目が合った。
彼女は小さく、しかし確かに言った。
「お疲れ様でした」
エレベーターの扉が閉まった。
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ビルを出ると、秋の風が顔に当たった。
蓮はしばらく、その場に立ち尽くした。
おかしいと思った。空がこんなに広かっただろうか。道を行き交う人たちが、こんなに軽やかに見えただろうか。五年間、このビルに通い続けたくせに、外に出た瞬間だけで、世界の解像度が違って見えた。
歩き出すと、体がやけに軽かった。
五年分の残業が、五年分の怒鳴り声が、五年分の「スキルなしのくせに」という目線が、ビルの中に置いてきたみたいだった。
駅までの道を、蓮はわざとゆっくり歩いた。急ぐ必要が、もうなかった。
信号待ちで、横断歩道の前に立った。隣に、通勤らしいスーツ姿の男が並んだ。胸元のバッジに「探索者ライセンス・A級」とあった。蓮がギルドで管理書類を処理する相手と同じ種類の人間だ。
以前なら、なんとなく目を伏せていた。スキルなしという引け目が体に染み込んでいたから。
今日は、なんとも思わなかった。
信号が青になって、蓮は歩き出した。
ただ歩いた。それだけのことが、妙に清々しかった。
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その夜、蓮はアパートのベッドに倒れ込んで、天井を見た。
泣くかと思ったが、泣けなかった。
ただ、ひどく眠かった。五年分の疲れが、一気に押し寄せてくるようだった。
スマートフォンを手に取り、ニュースアプリを開こうとして、指が滑った。代わりに起動したのは「スキル管理」アプリだった。
国が運営している公式アプリで、全国民が18歳の成人検査でスキルを登録する義務がある。蓮のページはいつも殺風景だった。
```
柏木 蓮(27)
【登録スキル】
なし
```
見慣れた画面だ。五年間、何度も開いて、何度もため息をついた。
蓮はアプリを閉じて、目を閉じた。
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翌朝。
目が覚めたのは七時過ぎだった。今日から有給消化だと思い出して、少し気分が軽くなった。
惰性でスマートフォンを手に取り、スキル管理アプリを開いた。
最初は、見間違いだと思った。
目をこすって、もう一度見た。
変わらなかった。
```
柏木 蓮(27)
【登録スキル】
魔法使い 等級:測定不能
```
蓮は十秒間、画面を見つめた。
それから、アプリを閉じた。深呼吸を一回した。開き直した。
変わっていなかった。
「……は」
声が出た。間の抜けた一音だった。
ベッドから起き上がり、洗面台に向かい、顔を洗い、鏡を見た。顔には何も変わったところはなかった。寝ぐせがひどいだけだ。
もう一度アプリを確認した。今度はスマートフォンを再起動してから開いた。
```
魔法使い 等級:測定不能
```
変わらない。
蓮は画面を見ながら、頭の中で知っている情報を引き出した。
魔法使い——それ自体は知っている職業だ。炎・水・風・土などの属性魔法を扱うスキルを持つ者を指す。ただし、全スキル覚醒者の中でも出現率は一%以下とされており、探索者ギルドでは「希少職」として別格扱いされる。戦闘力が高く、国家からの研究協力要請が来ることもある。
問題は等級のほうだ。
スキルの等級は「初級」から「中級」「上級」「特級」「英雄級」の五段階が一般に知られている。その上は公式には存在しないことになっているが、ギルドの事務職員として働いていた蓮は、内部資料で「英雄級を超える測定外事例」が過去に数件記録されていることを知っていた。ただし詳細はすべて黒塗りで、現在も生存しているかどうかすら不明だった。
つまり「測定不能」は、等級表の外側にある言葉だ。
おかしい。バグか、それとも測定エラーか。
蓮は国のスキル管理局の公式サイトにアクセスし、「等級エラーの報告フォーム」を探した。見つからなかった。代わりに「スキル変動に関するお問い合わせ」というページが出てきたが、電話番号しか載っていなかった。
コーヒーを淹れながら、もう一度アプリを確認した。
```
魔法使い 等級:測定不能
```
やっぱり変わっていなかった。
---
着信が来たのは、午前九時十七分だった。
表示された名前を見て、蓮は一瞬固まった。
笹岡支部長。
出るか出まいか、一拍迷った。
出た。
「……もしもし」
「柏木っ! 昨日はちょっと言い方がきつかったかもしれないが、悪かったと思ってる。だからまず話し合いの場を——」
昨日まで謝罪など一度もしなかった男が、開口一番に「悪かった」と言った。蓮はその事実を静かに飲み込んだ。
「なんでスキル覚醒したこと、昨日のうちに言わなかったんだ!」
「覚醒したのは今朝です。昨日辞めた後のことです」
「でも今は持ってるだろ! 魔法使いなんて、どこのギルドも喉から手が出るほど欲しがる。うちで働いてくれたら、もちろん待遇は全部見直す。給与は今の三倍は出せる。役職だって、明日にでも主任に——五年間お前が積み上げたものをそんな簡単に捨てるのか」
五年間積み上げたもの、と笹岡は言った。
蓮は少し考えた。五年間で自分が積み上げたもの。深夜の引き継ぎ資料、他人の誤字の謝罪文、消化できなかった有給、「スキルなしのくせに」という目線への耐性、そして朝霧凛の「お疲れ様でした」という声——。
最後のひとつ以外は、ギルドには置いてきた。
「お気持ちはわかりました」
蓮は静かに言った。
「でも、もう決めたことなので」
「待て、話を最後まで——」
電話を切った。
静寂が戻った。
コーヒーを一口飲んだ。ちょうどいい温度になっていた。
着信が鳴った。笹岡だった。
蓮は画面を裏返してテーブルに置いた。
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午前中だけで、着信は十一件来た。
笹岡支部長から三件。知らない番号から六件。かつて「お前みたいなスキルなしに用はない」と言った探索者の桐嶋から二件。
蓮は全部無視した。
昼過ぎ、一件だけ、知らない番号にコールバックしてみた。出たのは女性だった。
「お電話ありがとうございます。国家スキル管理局、特別事案対応室の者です。柏木蓮さんでいらっしゃいますか」
「……そうですが」
「本日ご登録いただいたスキルについて、確認させていただきたいことがございます。なお、等級『測定不能』のスキルは、現行の管理システム上、国家への報告義務が生じる特殊スキルに分類されております」
「義務ですか」
「はい。つきましては、できるだけ早くご来庁いただきたく——」
「仕事、辞めたばかりで今ちょっと休みたいんですが」
電話口で沈黙があった。
「……それは、大変でしたね」
意外に素直な反応だったので、蓮は少し拍子抜けした。
「来週でもいいですか」
「わかりました。では来週月曜、十時にご予約を入れさせていただきます。よろしいでしょうか」
「はい、よろしくお願いします」
電話を切った。
窓の外では、秋の午後の光が静かに差し込んでいた。
蓮はソファに深く沈み込んで、目を閉じた。
スキルが生えようが国家機関が動こうが、今日くらいは何もしたくなかった。五年分の疲れが、まだ体のどこかに残っていた。
ただ、脳裏に一つだけ声が残っていた。
——お疲れ様でした。
あの声だけが、五年間の記憶の中で、唯一まっすぐに届いた言葉だった。
次話「測定不能、というのはどういう意味ですか」




