(6)
「お、これなんか可愛い」
棚から靴下を取り上げた瑞姫は同意を求めるように笑って結子に振り返った。
「おーい、結子さん」
反応のない結子を見つめ目の前で靴下を振る瑞姫の姿に、ようやく我に返った。
「あ、うん。どれ?」
「これだけど…………どうしたの?」
しばし上の空だった結子を気にし始めた瑞姫に特に答えることなく、彼女の手にある靴下を見つめた。
「可愛いね、女の子用?」
「わかんない。どっちもいけるんじゃないかな」
瑞姫が手に取った白地の靴下は新生児用で小さく、可愛いクマのキャラクターがあしらわれている。
小さい赤ん坊なら男の子でも十分問題ないだろう。
「お義姉さんの赤ちゃん、まだわからないんだよね?」
「生まれてからの楽しみにとっておくって。お兄ちゃん、いつもそうだから」
もうすぐ4人目の子供を出産予定の義姉に出産祝いの準備も兼ねて、瑞姫とベビー用品売り場のあるショッピングセンターに遊びに来たのだが、お腹の子供の性別が今だわからないままなので選ぶのも迷いっぱなしだ。
「ベビーグッズなんてうちらには縁遠いからね…………って、結子さんは別か。いつできてもおかしくないんだし」
「私だって一緒だよ、予定なんてないもん」
瑞姫の言葉にすぐさま否定した結子を、瑞姫は不思議そうに見つめてきた。
「……ないの? 予定」
「うん」
「………………」
黙ってしまった瑞姫の手にある靴下を取り上げ、店の棚に戻す。
なんとなく居心地が悪くなり、そのまま店の外に足を向けた。
「凌が欲しくないって?」
「うん……」
近くのフードコートで休憩がてら席に腰を下ろすと、瑞姫に事情を聞かれ正直に話した。
凌の答えを聞いてすでに1週間、気まずい空気の家の中で結子の心もすでに限界だった。
たまらず瑞姫にすべてをぶちまけた。
こんなこと新太にだって相談できない。
「どうせあいつのいつもの我儘でしょ? 大丈夫、そのうち気も変わるって」
「……そうかな」
深刻な表情を浮かべる結子に彼女らしく明るく励ましてくれたのだが、すぐに同意できずそのまま黙ってしまった。
今だ決して折れない彼の態度に、生半可な希望さえ持てるはずもなかった。
「……凌さんは子供嫌いだからね」
「……え?」
「吉隆…………あんたいつの間に」
休日もれなく暇を持て余している瑞姫の弟・吉隆はとうとう姉の後追いを始めたらしい。
今日姉と一緒にやって来た吉隆だがベビー用品売り場ですぐに暇を持て余し途中行方不明になった末、再び姉の元へ舞い戻って来た。
「吉隆君……どういうこと? 子供嫌い?」
気が付けばいつのまにか結子の隣でしっかり姉達の会話を聞いていたらしい吉隆の言葉に、すぐさま理由を問いただした。
吉隆は神妙な面持ちで結子をじっと見つめた後、諦めたように息を吐いた。
「このことは凌さんの為に黙っておくべきだったんだけど、仕方ないよね…………凌さん、昔いじめられてたんだよ。子供に」
「……いじめ?」
まるで予想だにしなかった結子の知らない彼の過去をたった今吉隆から告げられ、結子の心は一気に凍りついた。
「え……あいつ、いじめられてたの?」
「……瑞姫さんも知らなかったの?」
「うん」
学生時代ずっと共に過ごし一番彼の近くにいた瑞姫でさえ寝耳に水だったらしい。結子と同じように驚きを露わにした。
「凌さん、友達の姉貴には知られたくなかったんだよ…………ずっとひとり黙ってた」
「吉隆どういうこと!? いじめって?」
瑞姫が興奮して事実を問い詰めると、吉隆は沈痛な表情を浮かべ俯き、再び重い口を開いた。
「嫌がらせだよ、嫌がらせ。ひどい時なんて1日30人くらい呼び出し食らったり、毎日いつの間にか物が失くなったり」
「そんな……1日30人呼び出し? 毎日盗難?」
いじめといってもまさかそこまで深刻とは思っていなかった結子は再び大きなショックを受けた。
「机と下駄箱が荒らされるなんてしょっちゅう。知らない子供からの謂れのない攻撃の手紙とか、甘いものを見るのも嫌がる凌さんにわざと甘いお菓子を無理やりぎゅうぎゅう詰めこまれたり」
「え…………あれって全部嫌がらせだったの?」
瑞姫も当時しょっちゅう現場に居合わせていたらしいが、まさかそれが嫌がらせだったとは思いもしなかったようだ。
「私ずっと勘違いしてた…………だからあいつ、とりあえず嫌々家に持ち帰って夜中にこっそりゴミ置き場に捨ててたんだ」
今頃になってようやく友人の辛い心境に気付かされた瑞姫は、激しく後悔の念を滲ませた。
過去、子供からの過酷ないじめを経験していた彼の事情をたった今初めて聞かされ呆然と黙ってしまった結子に、隣の吉隆は再び静かに視線を向けた。
「……結子さん、凌さんの子供嫌いは相当深刻だよ。簡単に克服できるものじゃない。もし仮に過って2人に子供なんてできれば、それこそ大変なことになる。今のうちに凌さんとは見切りをつけた方がいいかもしれないね」
「吉隆君、教えてくれてありがとう…………瑞姫さんごめん、今日はわたし先に帰るね」
勢いよく席から立ち上がると、姉弟に一言づつ残し急ぎ足でその場から立ち去った。
「結子さん……」
幸い家にいてくれたらしい。玄関ドアを開けた凌の姿にようやく乱れた息を整えると、そのまま彼と共に家の中に入った。
「早かったんだね、何かあった?」
出掛けて早々息切らし帰ってきた結子を見つめ、凌は心配げに尋ねた。
「凌さん、とりあえず座りましょう」
そんな彼に答えることなく、結子は強引に凌の手を引きリビングのソファに座らせた。
戸惑いを浮かべこっちを見やる彼の隣にそのまま結子も腰を下ろした。
「事情は全部聞きました…………ごめんなさい凌さん、私が間違ってました」
「……何のこと?」
表情暗く結子に謝られ、凌は一層戸惑いの色を濃くした。
当然、結子の言っている意味がわからないのだろう。
「凌さんの気持ちを考えもせず、今までひどい態度をとってしまいました。嫌がるのも当たり前です…………凌さん、子供嫌いだったんですよね?」
「子供嫌い……」
「私、今まで何も気付くことができませんでした。本当にごめんなさい」
「ちょっと待って結子さん、俺が子供嫌いってなんで……」
「いいんです凌さん、それ以上何も言わないで」
辛い過去のことなど口にする必要はないと、結子は慌てて凌の言葉を止めた。
「今は何も聞きません…………もしこれから先凌さんがすべてを話せる心境になった時は話してください。その時は私、ちゃんと全部受け止めますから」
「いや、だから結子さん、それは誤解……」
「そうなんです…………実は私ずっと誤解してたんです。凌さんが子供を嫌がるのはただ単純に私を独り占めしたいだけなんだって…………ふふ、完全うぬぼれですよね。まさか凌さんがそんな子供じみたこと思うわけないのに」
「………………うん」
今までずっと1人抱えこんできた自分の辛い過去をとうとう結子に知られ、凌は気まずげに視線をそらした。
そんな彼に笑みを浮かべた結子は彼の身体を抱き寄せ、優しく包み込んだ。
「安心してください凌さん、子供のことはもう気にしなくていいんです」
「………………」
「凌さんとこうして一緒にいられるだけで、私は十分幸せです」
結子の言葉にようやく安心したのだろう、結子の胸に包まれた凌はしばらくして大きく息を吐いた。
「結子おめでとう」
「おめでとう、結子さん」
「……2人共、ありがとう」
改めてお祝いの言葉をくれた新太と瑞姫に、照れながらお礼を返した。
今夜結子を祝うため閉店前から早々店に来てくれた瑞姫も、まるで自分の事のようにニコニコ笑い嬉しそうだ。
「まさか、あれから結子さんがすぐにおめでたなんてね。さすがに私もビックリしたよ」
「うん……本当に」
瑞姫に相談したあの日から3か月が経過し、つい先月結子の妊娠が発覚したばかりだ。
もちろん当然の如く結子の子供をひたすら待ち望んでいた明美は大泣きして喜び、義母とそしてあの義父も軽く飛び上がって大喜びしてくれた。
周りの皆の嬉しそうな姿に、結子の喜びもひとしおだ。
「でもよかったよね、凌がちゃんと克服できて」
「……うん、私も驚いた」
なんと凌は、あれほど悩み苦しんでいた子供嫌いをいつの間にか気付かぬうちに無事克服していたらしい。
先週妊娠の報告に結子の実家に一度帰省した際、兄夫婦の子供と笑顔で接している彼の姿に結子もしっかり確信し、深く安堵した。
「凌が子供嫌いねぇ…………あいつもようやく覚悟を決めたってことでしょ」
「……え?」
「何でもない…………ほら、来たんじゃない?」
新太の呟きに疑問を浮かべた結子だが、すぐに新太に教えられ窓の外に視線を向けた。
「凌さん、お帰りなさい」
たったいま店に着いた凌を出迎えるため、玄関から顔を出した。
笑顔を浮かべた結子に、車からこっちに向かい歩いてきた凌は同じように微笑んだ。
「ただいま、結子さん」
「ほら、ここの段差は危ない。気を付けて」
「はいはい」
「歩くのもゆっくり、腰かけるのもゆっくり」
「はいはい」
今度はすっかり過保護になってしまった彼にさっそくうんざりと返事しながら、2人の新たな門出の夜はにぎやかに過ぎていった。




