第87話 ヴァンパイアの王女
若さと人を引きつける色気を合わせ持ち、不思議な重みのある声だった。その声に、三人が左右へ分かれて頭を下げる。谷の奥にある闇から、一人の女がゆっくりと姿を現した。
黒いマントの裾が、夜の風に揺れる。片手には、身の丈ほどある細い杖を持っていた。杖の先端には暗赤色の魔石がはめ込まれ、心臓のように淡く明滅している。女が頭を覆っていた布を下ろした。
腰を越える長い紫髪が、月明かりを受けて美しく流れた。雪のように白い肌。見た目は二十歳前後。整った顔立ちには、長い時を生きた者だけが持つ気品と大人びた色香が漂っていた。
すらりとした細身でありながら、豊かな胸元からくびれた腰へと美しい曲線を描いている。誰もが目を奪われるほど均整の取れたその姿は、山中へ身を隠す亡命者ではなく、王宮で多くの者を従える王女そのものだった。鮮やかな深紅の瞳と、わずかにのぞく牙さえ隠せば、人間と見分けることは難しい。
ルナ・ノクティス。ヴァンパイアの王女。滅びた世界で、最後まで俺と共に戦った仲間。
もう一度会いたいと、何度願ったか分からない。だが実際に目の前に現れると、言葉が出なかった。記憶の中のルナと、今のルナが重なる。
世界が崩れていく中でも尊大な口調を崩さず、絶望した者をしかりつけ、最後まで王女として立ち続けた姿。何も残っていない夜、燃え尽きかけた火を杖でつつきながら、明日は今日よりましになると笑った横顔。
あの声が、もう一度聞こえる。あの瞳に、光がある。
「人の子よ」
ルナの赤い目が、真っすぐ俺を捉えた。
「わらわの顔を見たまま黙り込むとは、ずいぶんと無礼な者じゃな」
「……変わっていないな」
「初めて会った者に言われる言葉ではないのう」
「俺にとっては違う」
ルナの目が細くなる。
「わらわにとって、そなたは初めて見る人間じゃ」
「今は、それでいい」
「何一つよくはない。わらわたちの名を知り、父上と魔王教の話まで知っておる。まずは、そなたが何者なのか答えよ」
「アレス・アークハルト。アークハルト男爵家の跡継ぎだ」
「アークハルト……」
ルナが周囲の山を見回す。
「この魔の森を領地とする一族か」
「正確には、森から領民を守っている」
「その跡継ぎが、たった一人でわらわたちの隠れ家へ何の用じゃ?」
「迎えに来た」
「どこへ?」
「俺のところへだ。四人全員、俺の配下になれ」
谷から、音が消えた。アイゼンが口を開いたまま固まっている。ガルムでさえ、大盾を構えた姿勢のままわずかに目を見開いた。クロウだけは表情を崩していないが、俺を見る目が先ほどより冷たくなった。ルナが、ゆっくりと瞬きをする。
「わらわは、ヴァンパイアを統べる王の娘じゃぞ」
「知っている」
「そのわらわへ、人間の男爵家の子が、配下になれと申すのか?」
「そう言った」
「しかも、わらわの返事を聞く前から、迎えに来たと?」
「宿舎には、お前たちの寝床も用意させている」
「寝床?」
「食事もある。人の血を飲ませるつもりはないが、魔物の血なら必要なだけ用意する。普通の料理も、ニーナが作る」
「ニーナとは誰じゃ」
「俺の専属侍女だ。料理がうまい」
ルナはしばらく俺を見つめた後、額へ片手を当てた。
「わらわは今、配下になれと脅されておるのか。それとも、食事へ誘われておるのか?」
「両方だ」
「ルナ様。私から申し上げたとおり、この者はまともではございません」
「クロウ。わらわも今、同じ結論へ至ったところじゃ」
「話は最後まで聞け」
「そなたが一方的に話しておるだけではないか」
「なら、聞きたいことを聞け」
ルナが杖の先を地面へつく。
「なぜ、わらわたちなのじゃ」
「お前たちの力が必要だからだ」
「何に使う?」
「多くの者を守る」
「ずいぶんとはっきりしない答えじゃな」
「今は、すべてを話せない」
「何も話さず、信じてついてこいと申すのか?」
「信じろとは言っていない。まず、俺の力を認めろ。その後で、俺の作った場所を自分の目で見ろ」
ルナの視線が、俺の裂けた服と、すでに傷の消えた肩へ向く。
「クロウたち三人を相手に、ほとんど傷も残っておらぬ。幼い人の子にしては、確かに異常な力じゃ」
「まだ、ほとんど力を使っていない」
「ほう」
ルナの口元がわずかに上がった。
「今の言葉は、三人への侮辱となるぞ」
「事実だ」
「姫様。お許しください」
アイゼンが剣を構え直す。
「今度こそ、この小僧を黙らせます」
「待て」
ルナはアイゼンを止めたまま、俺から目を逸らさない。
「そなたは、いつからわらわたちがここにいると知っておった?」
「少なくとも、半年前にはこの辺りにいると考えていた」
「なぜ、すぐに来なかった?」
「あの時の俺では、四人に勝てなかったからだ」
「では、この半年は?」
「お前たちを迎えるために鍛えた」
ルナの赤い瞳が、わずかに揺れた。
「わらわたちがここにいると信じ、人の子がたった半年鍛えたと?」
「ああ」
「数百年生きるわらわたちを配下へ加えるために?」
「それだけではない。組織を作り、金を稼ぎ、お前たちが暮らせる場所も用意した」
「……そなたは、本当にわらわたちがついてくると考えておるのじゃな」
「必ず連れて帰る」
ルナが杖を持つ手で口元を隠した。肩が、小さく震えている。
「何がおかしい?」
「これを笑わずにおられるものか。わらわたちは父上の追手を避け、魔王教にも居場所を知られぬよう、この山へ身を隠した。そこへ突然、人間の子供が一人で現れ、名も事情もすべて知っておると言う。挙げ句、寝床まで用意したから配下になれじゃと?」
「間違っていない」
「間違いだらけじゃ」
ルナの笑い声が、夜の谷へ響く。この笑い方も変わらない。しばらく笑った後、ルナは杖の先を俺へ向けた。
「よかろう。そなたが何者で、なぜわらわたちを知っておるのか。話せぬというのなら、今は聞かぬ」
「話を聞く気になったか?」
「勘違いするでない。わらわたちを連れていくと申したのは、そなたじゃ」
暗赤色の魔石から、赤い光が漏れ出す。
ルナの足元へ、血のように赤い液体が集まり始めた。地面をはい、細い槍の形へ変わっていく。
「ヴァンパイアは、弱き者へ従わぬ。ましてわらわたち四人すべてを配下へ加えたいと申すなら、それに足る力を示せ」
「そのために来た」
「わらわ、クロウ、アイゼン、ガルム。四人を相手にして、なお立っておったなら、そなたの話を最後まで聞こう」
「話を聞くだけか?」
「欲張るでない」
「俺が勝ったら、四人とも一度は俺の宿舎まで来い。部屋も食事も、すでに用意してある」
「まだ寝床の心配をしておるのか」
「使わなければ、用意した者たちの働きが無駄になる」
「わらわたちに関係のない話じゃ」
「俺にはある」
ルナはあきれたように息を吐いた。
「よかろう。そなたが本当にわらわたち四人へ勝てたなら、その場所とやらを見に行ってやる。ただし、配下となるかは別の話じゃ」
「来れば分かる」
「最後まで、己が勝つ前提なのじゃな」
「勝つために、半年鍛えた」
腰のマジックバッグには、ニーナの作った食事とティアナの薬が入っている。四人全員を連れて帰るために用意したものだ。
俺が拳を構えると、クロウがルナの右後ろへ移動した。姿が闇へ溶け、気配が薄くなる。谷の岩壁から無数の羽音が響き始めた。
アイゼンは左へ回り、剣へ先ほどより強い雷をまとわせる。青白い光が夜の谷を照らし、足元の小石が細かく震えた。
ガルムが正面へ立つ。大盾を地面へ突き立てると、左右の岩壁から土と岩がはがれ、巨大な盾と全身を覆っていく。
最後に、ルナが杖を掲げる。
周囲へ浮かんだ血の槍。そのすき間に、赤黒い炎が生まれる。炎の向こうでは闇そのものが揺らぎ、月の光さえのみ込んでいた。
四人の力が、一つへ重なる。失ってから、その大きさを何度も思い知った力だ。
スタンピードを止めるためにも、帝国との戦いを生き抜くためにも、さらにその先の魔族達との戦いにも、この四人が必要になる。何より、もう一度出会えた四人を、今度こそ死なせたくない。だから、ここで認めさせる。
身体の奥へ沈めていた《闘気》を解き放った。熱が全身を駆け、皮膚の内側を巡る闘気が骨を支え、筋肉を満たす。踏みしめた足元から地面へ細い亀裂が走った。
アイゼンの表情から怒りが消え、ガルムが大盾を握る両手へ力を込めた。闇へ消えたクロウの気配も、わずかに揺らぐ。ルナだけは、楽しそうに笑っていた。
「なるほど。大言を吐くだけの愚か者ではないようじゃな」
「ようやく分かったか」
「まだ何も始まっておらぬ」
「なら、始めるぞ」
俺は武器を持たない。
構えたのは、二つの拳だけだ。
「来い。四人まとめて、俺が連れて帰る」
次の瞬間、かつて俺の隣にあった雷と土と虫と血が、一斉に俺へ襲いかかった。




