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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者:
第七章 かつての戦友編

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第85話 夜を待つ

 領都の北門を抜け、魔の森へ入る。


 半年の間、俺はほとんど毎日のように、この森で魔物と戦った。身体が壊れるまで鍛え、《超再生》で作り直す。火に焼かれ、毒を受け、雷に打たれ、土と風の魔法を浴びた。傷つくたびに原因を解析し、次はわずかでも耐えられる身体に変えていく。


 三か月前には、冒険者ランクもBに上がった。Cランクの依頼を重ね、森で遭遇したBランクの魔物を何体か倒し、ほかの冒険者と商隊も救った。ギルド長のバルガスは、俺の年齢を理由に最後まで渋っていたが、実績を突きつけて押し切った。


 もっとも、Bランクになったこと自体はどうでもいい。受けられる依頼と、入れる場所が増えた。より強い魔物と戦い、高価な素材を持ち帰れる。それで十分だ。


 かつての俺と比べれば、まだあまりにも弱い。それでも半年前とは違う。


 木々の間を走りながら、《身体強化》を全身に巡らせる。力を入れている感覚はほとんどない。呼吸と同じように、必要な場所に必要な分だけ力が流れていく。


 地面を蹴る。


 一歩で、景色が後ろへ飛んだ。


 以前は《縮地シュクチ》を使うたび、幼い身体に大きな負担がかかった。今は短い距離なら、走る動きの中に自然に織り交ぜられる。根を踏まず、枝を避け、獣道さえない森を真っすぐ北へ進んだ。


 セルジュの地図は、頭の中にすべて入っている。沢を二本越えた先に、倒れた巨木がある。その北西には魔物の群れが使う水場。そこを避けて岩場へ出れば、山岳地帯まで最も早い。


 実際に進むと、報告どおりの場所に倒木があった。水場の近くからは複数の魔物の気配も感じる。


 半年前、俺は金よりも情報が強い武器になると告げた。まだ領内へ伸び始めたばかりの小さな根だ。それでも、こうして俺が無用な戦いを避け、最短の道を選ぶ助けとなっている。セルジュは、きちんと役目を果たした。


 俺も、俺の役目を果たす。


 日が高くなるころ、森の木々が少しずつ低くなり、地面に大きな岩が増え始めた。吹き下ろす風も、領都より冷たい。


 岩場に足を踏み入れたところで、前方から重い足音が近づいてきた。


 現れたのは、俺の背丈の三倍はある大熊の魔物だった。背中と両肩を、灰色の岩のような甲殻が覆っている。


 《岩甲熊》。Bランクに指定される魔物だ。


 縄張りに入った俺を見つけると、太い前脚で地面をたたき、唾を飛ばしながらほえた。


 避けてもいい。だが、狭い岩場の先に巣があるらしい。このまま進めば、背後から追ってくる。


 岩甲熊が突進した。前脚が横から振るわれる。並の盾なら、それだけで砕ける威力だ。


 俺は避けず、迫る前脚に左手を添えた。


「《流転ルテン》」


 正面から受け止めるのではない。肩、肘、腰、脚へ衝撃を順に流し、身体を回す。岩甲熊自身の力がわずかに向きを変え、その巨体を前へ引いた。


 魔物の身体が、俺の横を通り過ぎる。


 空いたあごの下に右の手のひらを添えた。


「《破砕》」


 鈍い音が一つだけ鳴った。外側の甲殻には傷一つない。それでも、手のひらから通した衝撃が頭の内側へ届き、岩甲熊の意識を断ち切る。


 巨体が地面を滑り、そのまま動かなくなった。


 とどめは刺さない。目覚めるころには、俺は山の向こうだ。


 この半年で、身体と共にいくつかの技も取り戻した。受けた力を身体へ通し、別の方向へ流す《流転》。踏み込んだ衝撃を地中へ走らせる《震脚シンキャク》。攻撃の起こりを消す《無拍子ムビョウシ》。わずかな闘気を足裏から放ち、空中で一度だけ進む方向を変える《空踏クウトウ》。


 かつては呼吸と同じように使えた技ばかりだ。今の身体では、まだ負担が大きい。威力も回数も遠く及ばない。それでも、四人を迎えるために必要なところまでは戻した。


 再び走り出す。


 日が西へ傾く前に、山岳地帯のふもとに着いた。


 ここから先は、木の根より岩と崖の方が多い。細い沢に沿って進み、途中から水の流れに逆らうように斜面を上った。


 雪解けの冷たい水が足元を流れている。普通の旅人なら、凍える水と滑る岩だけで体力を奪われるだろう。俺にとっては大した障害ではない。


 夕暮れが近づくころ、二つの岩壁に挟まれた細い裂け目が見えた。


 腰に下げたマジックバッグへ手を当てる。父上から預かった袋の中には、食料、薬、毛布、灯り――四人を連れ帰るために用意された物が、すべて収まっている。この小さな袋一つなら、これから始まる戦いの邪魔にもならない。


 その向こうに、四人がいる。


 気配を探る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして、谷の奥にもう一つ。


 全員、生きている。


 胸の奥で固まっていたものが、わずかにほどけた。


 半年前、この場所を目指すことを考えた時には、勝てる姿が浮かばなかった。


 今は違う。


 勝てる。


 ただし、昼のうちに踏み込むつもりはない。


 ヴァンパイアの見た目は、人間とほとんど変わらない。だが、その身体を作る血と細胞は人間のものとは異なる。


 日が沈むと、周囲の魔力を血に取り込み、筋肉、感覚、魔力の流れ、再生力を一気に高める。昼と比べて三倍。血の濃い者なら五倍近い力を発揮する。


 ヴァンパイア王家の血を引くルナは、特に夜の恩恵が大きい。


 弱っている時間を狙って勝ったところで、四人は俺の力を認めない。


 それに、俺が欲しいのは夜の四人だ。


 魔族と戦い、スタンピードを止め、帝国軍の進撃から多くの者を守る。そのために必要なのは、力を出し切った四人を従えられる強さだった。


 岩壁の上に立ち、沈んでいく太陽を見送る。空の赤みが消え、山の谷間に夜が満ちていく。


 四つの気配が、膨れ上がった。眠りから覚めるように魔力が広がり、谷全体の空気が変わる。昼のうちに感じたものとは、まるで別物だ。


 これでいい。


「待たせたな」


 誰にも聞こえない声でつぶやき、裂け目の中へ足を踏み入れた。



 細い道を百歩ほど進んだところで、一匹の黒い甲虫が岩の上を横切った。冷え込む山中で、活発に動く種類ではない。さらに前を見ると、岩肌と見分けのつかない灰色のガが一匹、羽を閉じて止まっている。足元の小さなすき間からは、細いアリの列が俺の進む方向へ伸びていた。


 すべて、こちらを見ている。


「クロウ」


 俺が名を呼んだ瞬間、岩の上の甲虫が動きを止めた。


「見ているんだろう。ルナへ伝えろ。アレス・アークハルトが迎えに来たとな」


 灰色のガが羽を開き、谷の奥へ飛んでいく。アリの列も、何かから逃げるように岩のすき間へ消えた。


 間違いない。


 クロウだ。


 生きている。


 分かっていたはずなのに、胸の奥に熱いものが広がった。


 滅びた未来で、クロウの放った無数の虫が、どれほど俺たちを救ったか分からない。遠くの魔物を見つけ、魔族の罠を暴き、離れた仲間へ道を示した。


 その虫たちが今、俺を侵入者として見張っている。


 それでいい。


 今度は、敵から始めればいい。


 先へ進む。


 三歩目を踏み出す直前、足元で細い糸が月明かりを反射した。


 糸をまたぐ。


 直後、左右の岩壁から十本以上の細い針が飛び出した。最初の糸とは別に、またいだ先の土にもう一本が隠されていたらしい。


 上体を反らし、針をかわす。


 地面に刺さった先端から、わずかに甘い匂いが漂った。魔物から採った毒だろう。


「一つ目の罠で注意を引き、二つ目で仕留める。《千毒葬針センドクソウシン》か」


 闇の中から、低い笑い声が聞こえた。


「ふぉふぉふぉ……」


 懐かしい笑い方だった。


「私の名だけでなく、技の名までご存じとは。ますます、生かして帰すわけにはまいりませんな」


「帰る時は、お前も一緒だ」


「招いておらぬ客に帰る場所まで決められるとは、長く生きても初めての経験でございます」


 さらに進むと、頭上から岩が落ちてきた。横へ避ければ、細い道の端に掘られた穴へ入る。後ろへ退けば、先ほどまで何もなかった場所へ黒い虫の群れが集まっていた。


 俺は前へ出た。


 落下する岩に右手を当て、《流転》で力の向きを斜めへ逸らす。岩は肩をかすめるように通り過ぎ、後方の穴を塞いだ。


 その瞬間、正面の闇から人影が現れた。


 音はなかった。


 月明かりさえ届かない岩壁の影から、最初からそこにいたかのように黒衣の男が滑り出る。右手に握った短剣が、俺の首へ真っすぐ伸びてきた。


 首を傾ける。


 刃が皮膚を薄く裂いた。


 同時に男の手首をつかもうとしたが、その腕は黒い虫の群れに変わり、指の間から散っていく。


「《虫衣・虚身ウツセミ》」


「先に言われますと、いささか調子が狂いますな」


「本体は後ろだろう?」


 振り向かず、背後へ肘を放つ。


 硬い感触があった。黒衣の男は短剣の腹で肘を受け止め、その勢いを利用して後ろへ跳ぶ。


 人間なら七十歳ほどに見える、年老いた上品な男性だった。細身の身体。乱れなく後ろへなでつけられた白髪。山中にいるとは思えないほど、しわ一つない黒い執事服。月光を受けた瞳だけが、深い赤に染まっている。


 あのころと、何も変わらない。


 ただ、クロウには俺と過ごした記憶がない。


「やっと会えたな、クロウ」


 老執事の笑みが消え、初めてその顔に驚きが浮かんだ。

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