第1話 足掻く者
アルセリア大陸。世界は、とっくに終わっている。
空を覆うのは、雲ではなく黒い瘴気。大陸の中央にそびえていた世界樹は根元から折れ、巨大な死骸となって大地に横たわっている。草木は枯れ、獣も死んだ。人族も、獣人も、エルフも、ドワーフも滅び去った。
最後まで共に戦った仲間たちも、もういない。
残っているのは、魔族と魔物。そして――俺だけだ。
「ガアアアアアアッ!」
魔物のほえ声が大地を震わせる。一万、十万、あるいは百万。数える意味さえ失った黒い軍勢が、地平の彼方まで埋め尽くしていた。
「来い」
《浮遊》で宙に立ち、真下を見渡す。
俺は七十を少し過ぎたはずだ。だが、肉体だけなら三十にも届いていない。魂に刻まれたギフト《超再生》が、傷だけでなく老いからも俺を遠ざけていた。
おかげで、何も守れなかった俺だけが、世界が滅んだ後も元気に生きている。まったく笑えない。
俺は《浮遊》を解除し、魔物の大群へ落下した。着地と同時に、右足を大地へたたき込む。
「武王奥義――《八荒震界》」
圧縮された闘気が八方へ爆発した。大地が波打ち、何百もの魔物が肉片となって吹き飛ぶ。それでも軍勢は止まらない。爪が肩を裂き、牙が脇腹をえぐり、炎が全身を焼いた。
痛い。
七十年以上生きても、痛いものは痛い。
「《再生》」
裂けた肩が塞がり、えぐられた肉が盛り上がる。焼け焦げた皮膚の下から、新しい肌が現れた。しかも、復元された肉体は傷つく前よりわずかに強い。
俺はかみついていた魔物の頭をつかみ、地面へたたきつけた。
「次」
どれほど戦っただろう。一日か。三日かもしれない。この世界では、時間を測る意味も薄れている。太陽も月も見えない。腹が減れば魔物を食う。眠くなれば死体の山で眠る。襲われれば起きて殺す。
実に単純な生活だ。やがて、魔物たちの動きが止まった。黒い軍勢が左右へ分かれ、その奥から十二の影が現れる。
魔族の最高幹部。魔王直属の十二魔将。俺も、何度か殺したことがある。だが、この瘴気に満ちた世界では、奴らは時間をかければ肉体を作り直す。
俺も何度となく死にかけるほど追い込まれ、そのたびに《超再生》で戻ってきた。どちらも、しぶとさだけは大したものだ。お互い様である。十二人のさらに奥で瘴気が集まり、漆黒の玉座を形作る。
その玉座に、一人の男が座っていた。
魔王ヴァルゼイン
世界樹を破壊し、世界を滅ぼした本人。俺が五十年以上、殺そうとし続けた相手。魔王ヴァルゼインは頬杖をつき、心底うんざりした顔で俺を見た。
「また来たか」
「久しぶりだな」
「十日前にも来ただろう」
「そうだったか?」
似たような日ばかりなので、覚えていない。
魔王は心底うんざりした顔でため息をついた。
「勇者は死んだ。聖女も死んだ。世界樹は枯れ、守るべき人類も滅びた。ならば、なぜ立つ?」
人類の誇り。死者への思い。復讐。もっともらしい理由はいくつもある。
だが、今の俺を動かしているものは、もっと単純だった。
「お前の顔が気に入らない」
「……それだけか?」
「せめて一発、その顔面に拳を入れたい」
魔王はしばらく黙り、小さく笑った。
「足掻く者よ」
勇者でも聖女でもない。魔王を滅ぼす力もない。それでも何度殺されかけても立ち上がり、何度退けられても戻ってくる愚かな人間。
魔王が俺につけた名だ。悪くないと思っている。
「今日で終わりにしよう」
腰を落とし、全身の闘気を右腕へ集める。骨がきしみ、筋肉が裂ける。壊れたそばから《再生》し、さらに闘気を込める。肉体が耐えられないのなら、壊しながら放てばいい。
「その構えは……!」
十二魔将の一人が叫ぶ。遅い。地面を蹴った。世界樹の残骸が揺れた。空間がゆがみ、瘴気が吹き飛ぶ。一直線に魔王へ迫り、右拳を引く。これまでのすべてを込めた。筋肉。闘気。憎しみ。後悔。失った命。そして、五十年以上食べ続けた不味い魔物肉への恨み。最後だけは少し違う気もするが、どうでもいい。
「――食らえ!」
右拳の一点へ集めた闘気が、世界そのものをきしませる。
「武王極技――《神穿》!」
拳を放つ。その瞬間、十二魔将が魔王の前へ飛び込んだ。
「総員、魔王様をお守りしろ!」
魔将の一人が叫ぶ。幾重もの結界。魔力障壁。土壁。氷壁。闇の盾。肉体強化を施した魔族たち自身の身体。すべてを、俺の拳が貫いていく。
一枚。二枚。三枚。障壁が砕ける。魔将の腕が弾ける。角が折れる。翼が千切れる。十二人全員を巻き込み、衝撃が大地を駆け抜けた。
激しい音。世界樹の残骸が、大きく崩れ落ちる。しばらくして、黒い砂煙が晴れた。十二魔将が倒れている。誰一人、無傷ではない。半身を失った者もいた。
だが――。魔王には届かなかった。漆黒の玉座には、傷一つ付いていない。
「……ちっ」
右腕が、肩から崩れ落ちる。さすがに無理をしすぎた。《再生》が始まる気配はある。だが、すぐには戻らない。魔力も。闘気も。栄養も。ほとんど使い果たしてしまった。魔王は玉座に座ったまま、ゆっくりと拍手した。
「見事だ、足掻く者よ。貴様を殺すことは諦めた」
その顔には、わずかな感心が浮かんでいた。
「賢明だな」
「封印する」
空間に無数の黒い鎖が現れ、俺の身体へ巻きついた。永遠に、何もない闇へ閉じ込めるための鎖。振り払う力は、もう残っていない。
「さらばだ、足掻く者」
さすがの俺も、今回はここまでらしい。
幼い頃から性格が悪く、怠惰で傲慢。家族にも使用人にも嫌われ、十三歳で廃嫡された愚か者。そんな男が、人類最後の一人となっても戦い続けたのだ。上出来だろう。
ただ――。
「一発くらい、殴りたかったな」
その瞬間、音が消えた。
魔王も、瘴気も、落下していたがれきさえ、完全に止まっている。
「アレス・アークハルト」
背後から声がした。
振り返ると、淡い光をまとった女性が立っていた。長い銀髪、慈愛をたたえた瞳、透き通るような白い肌。教会の神像で見た女神ルミエラと同じ姿だ。
ただし、その身体は光の粒となり、端から少しずつ崩れていた。
「女神が、今さら何の用だ」
「あなたへ、お願いがあります」
「今さら神の頼み事に、ろくなものがあるとは思えない」
どうしても素直に答えることができなかった。俺は女神を恨んでいる。なぜ俺だけが生き残った。なぜ、このような世界になった。
なぜ何度戦っても、魔王を倒せない。なぜ俺は、たった一人で戦い続けなければならない。孤独で。腹が減って。痛くて。ただひたすら、永遠とも思える時間を魔族と戦ってきた。
救いを求めても、神は答えなかった。今さら現れて「お願いがあります」と言われても、笑顔で応じられるほど俺は素直ではない。女神は困ったように笑った。
「あなたが私を恨む気持ちは分かります」
女神は俺の言葉を否定せず、静かに見つめ返した。
「あなたを、過去へ戻します」
「……何?」
「記憶を残したまま、十二歳の《鑑定の儀》まで時間を巻き戻します」
「そんなことができるなら、なぜもっと早くやらなかった」
「できなかったのです。ですが、あなたが戦い続けてくれたおかげで、ようやく準備が整いました」
五十年以上にも及ぶ、勝ち目のない戦い。
あれにも意味があったらしい。
「戻って、俺に何をさせる?」
女神の瞳に強い光が宿った。
「勇者と聖女を守り、魔王のもとまで導いてください」
俺一人では、魔王の魂へとどめを刺せない。聖女の神聖魔法による加護を受けた、勇者の《限界突破》の一撃だけが、魔王を完全に滅ぼせる。
だが、かつての俺が自分の愚かさに気づいた時には、二人ともすでに死んでいた。出会うことさえできなかった。
「あなた一人では、魔王を倒せません」
「嫌というほど知っている」
「ですが、あなたがいなければ、勇者と聖女は魔王へたどり着けません」
「今の力は持っていけるのか?」
「肉体も、闘気も、魔力も十二歳へ戻ります。持ち帰れるのは、記憶、経験、知識。そして魂へ刻まれた力だけです」
ならば、《超再生》は残る。六十年以上の戦闘経験も、知識も残る。
十分だ。
強さなど、もう一度手に入れればいい。
「分かった。引き受ける」
「即答なのですね」
「一度、すべてを失った。迷う理由はない」
今度こそ家族を守る。領民を守る。失った仲間たちを先に見つける。勇者と聖女を鍛え、必ず魔王の前まで連れていく。
「ただし、条件があります」
時間への干渉は、神々にとって最大の禁忌。時を遡った事実は、いかなる方法でも他者へ伝えてはならない。その知識で未来を変えることはできるが、情報をどこで得たかは明かせない。
「破ればどうなる?」
「肉体も、魂も、記憶も、初めから存在しなかったものとして消滅します。《超再生》でも防げません。そして、禁忌を犯した私も消滅します」
重い条件だ。それでも、迷いはなかった。
「誓いますか?」
「ああ」
女神へ右手を差し出そうとして、腕がないことを思い出した。仕方なく左手を出す。女神も何も言わず、左手を重ねてくれた。
「俺、アレス・アークハルトは誓う。時を遡った事実を、何者にも伝えない。契約を破った時は、この世界から消滅することを受け入れる」
光の文字が俺たちを巡り、胸の奥へ吸い込まれた。
「《時律の禁約》――成立しました」
女神の身体が、さらに強い光へ変わり始める。
「あなたは、本当に変わったのですね」
「変わるのが遅すぎた」
「いいえ。まだ、間に合います」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。まだ、間に合う。
俺は漆黒の玉座の前に立つ魔王を見た。
「一つ聞かせろ。今度こそ、あいつの顔面を殴れると思うか?」
女神は一瞬黙り、穏やかに笑った。
「すべては、あなた次第です」
「アレス・アークハルト。あなたが、この世界の希望です」
光が俺の身体を包む。長い年月をかけて手に入れた肉体も、闘気も、魔力も薄れていく。
だが、恐怖はなかった。
もう一度やり直せる。
今度は、誰一人として最初から諦めない。
光が弾けた。
◇
「アレス・アークハルト」
懐かしい神殿。大勢の視線。目の前には、透明な鑑定水晶。
自分の手を見る。小さい。傷一つない、十二歳の手だった。
「どうしたのです。早く水晶へ手を置きなさい」
覚えている。
俺が「役立たず」と笑われた日。
勇者と聖女が選ばれた日。
そして、世界の滅亡が始まった日。
だが、今度は違う。
滅びの始まりだったこの日を、すべてを救い直す最初の日に変える。
俺は口元に笑みを浮かべ、鑑定水晶へ手を伸ばした。
お読みいただきありがとうございます。
序盤はややゆっくりなペースですが、物語が進む毎に必ずめちゃくちゃ楽しくなりますのでぜひ楽しんでください!
まずは19話まで(^^)
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