プロローグ 悪女は黙らない
「聖女様に火を放ったって、本当なの?」
華やかな音楽が流れる大広間で、令嬢たちは囁いた。
「信じられない。まるで悪女ね」
扇の陰から向けられるのは、好奇心と侮蔑の入り交じった視線。
その全てを浴びていたのは、紺色の髪をゆるく波立たせた一人の令嬢だった。
宝石のような緑の瞳。意志の強さを感じさせる鋭い目元。高く整った鼻筋に、薄く結ばれた唇。
近寄りがたいほど気高く、そして誰もが認めざるを得ないほど美しい令嬢。
エスメラルダ・ベルメール。
今、王都で最も有名な"悪女"である。
彼女は扇の陰で囁く令嬢たちへ、ゆっくりと顔を向けた。
噂に興じていた令嬢たちは、びくりと体を震わせた。コツ、コツ、と赤いヒールが、大理石の床にリズムを刻んでいく。彼女はゆっくりと距離を詰めていき、令嬢たちの前で立ち止まった。
そして彼女たちを見下ろしながら、にこりと微笑む。
「何か私について噂されていたようですが?」
穏やかな口調の裏に、鋭さを含んだ声だった。エスメラルダの緑の瞳がすうっと細まった瞬間、空気がわずかに冷え込む。
三人いた令嬢のうち二人は、冷や汗をかきながら一歩後ずさった。しかし残った一人は意地を張るように前に進み出る。顎を上げ、エスメラルダに言い返す。
「何か聞こえてきても、黙って受け流すのがマナーではなくて?」
令嬢は挑発的な笑みを浮かべながら、「ふん」と鼻を鳴らす。背後の二人は「やめて」と目で訴えているが、当の本人は感情的になっているのか、周りの状況など見えていないようだった。
するとエスメラルダはきょとんと目を丸くし、小首を傾げた。
「黙る? どうして私が?」
「どうしてって……」
令嬢は勢いが削がれたように言葉を詰まらせる。
その間に、エスメラルダは扇を軽やかに閉じた。
「私が黙る必要なんてないわ。だって私は──」
胸を張ったエスメラルダは、一歩前に出た。
「地位も、お金も、美貌もあるんだから!」
自信に満ちあふれ、堂々とした宣言が会場に響き渡った。
令嬢たちは固まり、近くの招待客たちまでがぽかんと口を開けた。
そこへ、ひとりの男性が歩み寄ってきた。
やわらかな金髪は陽光のように輝き、紫色の瞳は勝ち誇ったような光を宿している。令嬢たちは一瞬で華やいだ空気へと変わり、ざわりと色めきだった。
「エスメラルダ」
親しげに名前を呼ばれても、一瞥するだけで、彼女の表情は一切変わらない。
そのことに全く気づいていないのか、彼──レオンハルト・ヴァランスは言葉を続けた。
「次の曲だが、俺がエスコートしてやろう」
「お断りします」
エスメラルダが一蹴し、周りの空気が固まった。
しかしレオンハルトは、彼女が照れていると思ったようだ。柔和な表情を崩さずに口を開く。
「遠慮はしなくていい。婚約者候補をエスコートしてやるのも、俺の大切な務めだ」
「微塵も興味ありません」
冷たく淡々と言い放った。周りの招待客たちが小さく息を呑む。
さすがに聞き流せなかったのか、レオンハルトの整った顔がみるみる怒りで歪んでいく。招待客の前であれほどはっきり拒まれ、プライドが粉々になったのだろう。頬は羞恥と怒気で真っ赤に染まっていた。
次の瞬間、彼はエスメラルダの手首を思い切り掴んだ。指が食い込み、彼女は小さく眉を寄せる。
「いいから俺と──」
「何をやっているんです?」
低く冷えた声が割り込んだ。
暴走しかけたレオンハルトを止めたのは、月光のように輝く銀髪と、深い濃紺の瞳を持つ男だった。その人物を見上げ、エスメラルダは小さく呟く。
「ベリル……」
ベリルと呼ばれた男は、彼女を見てふわりと微笑む。
彼は軽く手首をひねると、レオンハルトは情けない声をあげて手を離した。ベリルは二人の間に立ち、エスメラルダの方へと向き直る。
「怪我はないですか? レディ」
「えぇ。貴方も来ていたのね」
ベリルは流れるような動作で礼をし、端整な顔立ちにやわらなかな笑みを浮かべた。彼女の緊張がふっと解け、少しだけ表情が和らぐ。
突然の美男子の登場に、周囲にいた令嬢たちは顔を真っ赤に染めてざわめいた。そんな様子を気にする素振りもなく、「もしよろしければ、」とベリルは手を自身の胸に添えた。
「貴方をエスコートする名誉を、私に」
「喜んで」
差し出された手に、エスメラルダは迷いなく手を添える。
招待客の視線を一身に受けながら、二人は会場の中央へと向かっていった。
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