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兎の喫茶店  作者: 超山熊
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2/2

女性のお客様へ


 コツ、コツ、と夜の路地裏に虚しく響くのは、私のヒールの音。

 

「……なんで私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないのよ」

 

 都内の広告代理店で働く私は、深夜におよぶトラブル対応を終え、終電間際の駅へと向かっていた。

 後輩のミスを押し付けられ、理不尽に怒鳴られ、お気に入りのパンプスは雨上がりの水たまりで汚れてしまった。

 

 ボロボロの心と身体。

 泣き出したいのを必死に堪え、俯いて歩いていた時、ふと、甘いスパイスの香りが鼻をかすめた。

 顔を上げると、レンガ調の壁にぽつんと灯る琥珀色のランプ。

 その下に、可愛らしい文字で『兎喫茶』と書かれた看板があった。

 

「こんなところに、カフェ……? ううん、もう終電だし、帰らなきゃ……」

 

 そう思ったのに、私の足は吸い寄せられるように、すりガラスの扉を押し開けていた。

 

カラン、コロン。

 

「――いらっしゃいませ。今夜も、お疲れ様でございました」

 

 出迎えてくれたその「声」に、私は頭のてっぺんまで痺れるような衝撃を受けた。

 

 低く落ち着いているのに、どこか鈴のように澄んでいる。

 少年のような無垢さと、大人の女性が持つ包容力が、完璧なグラデーションを描いているような……今まで生きてきて、一度も聞いたことがないほど美しい声。

 カウンターの奥から現れたのは、その声に違わぬ、現実離れした美貌の持ち主だった。

 

 照明を浴びてきらきらと輝く、シルクのような銀髪。

 少しタレ気味の、すべてを見透かすような白金色(プラチナ)の瞳。

 黒いベストをビシッと着こなしたその人は、男性のようでもあり、中性的なドレスを着た女性のようでもある。

 

「あ、あの……」

「お疲れのようですね。さあ、まずはその重いお荷物を置いて、こちらへどうぞ」

 

 その人が優しく微笑み、暖炉の前のソファーを指差す。

 その極上の声に促されるまま、私は吸い込まれるように席へ腰掛けた。


 温かいハーブの香りがするおしぼりを受け取りながら、私は目の前の美しい店員を凝視してしまった。

 女性にしては肩幅があり、スラリと背が高い。けれど、手首や首筋は驚くほど細く、肌は陶器のように白い。

 

「あの……失礼ですけど、店員さんは、女性……ですか? それとも男性……?」

 

 普段の私なら絶対にそんな無作法な質問はしない。

 でも、この空間と、その人の持つ雰囲気が、私の理性を少し狂わせていた。

 店員さんは、ふふ、と悪戯っぽく、でも淑やかに微笑んだ。

 

「ボクはノエル。この『兎喫茶』の店長です。お客様が、ボクを男だと思えば男に、女だと思えば女になりますよ。……ここでは、性別なんていう窮屈な肩書きは、どうぞ忘れてしまってください」

 

 ノエル。その名前が、その中性的な美貌にあまりにもぴったりで、私は小さく息を吐き出した。

 

「お待たせいたしました。今夜のあなたには、こちらを」

 

 目の前に置かれたのは、淡いピンク色の泡が美しい、特製のショコラ・ラテ。

 上にはココアパウダーで、一本の美しい薔薇のトッピングが施されている。

 

「これ……私、頼んでいませんけど」

「当店はメニューのない喫茶店です。お客様の『心のSOS』に合わせて、ボクが最高の1杯をお作りします。……今夜のあなたは、とても綺麗なトゲを立てて、一生懸命に自分を守ろうとしているように見えましたから」

 

 ノエルはそう言うと、私の正面の席にそっと腰掛けた。

 驚くほど自然な動作で、まるで長年の友人のように、私のパーソナルスペースに寄り添ってくれる。

 

「トゲ、ですか……」

「ええ。美しく、強いトゲです。でも、ずっと張り詰めていては、あなた自身が折れてしまう」

 

 ノエルのその声が、私の耳の奥で心地よく反響する。

 まるで、硬く冷え切った心を、温かい毛布で優しく包み込んでいくような感覚。

 

「……今日、本当に理不尽なことがあって」

 

 気がつけば、私は会社の愚痴を、堰を切ったように話し始めていた。

 いつもなら「愚痴を言う女は格好悪い」と自分を律するのに、ノエルの前では、弱い自分を隠すことができなかった。

 ノエルは何も否定せず、ただ「ええ」「それはお辛かったですね」と、あの至高の、性別を超越した声で相槌を打ってくれる。

 その声を聞いているだけで、頭の芯がじんわりと痺れ、肩の力がすとんと抜けていく。

 

「お客様。戦う女性は美しいですが、時には戦兜を脱いで、ただの可愛い女の子に戻る時間が必要です」

 

 ノエルがそう言葉を紡いだ。その声の響きだけで、胸がキュンと切なくなる。

 

「今夜はもう、十分戦いました。この甘いラテを飲んで、自分をたくさん褒めてあげてください」

 

 促されるままラテを口に含む。

 ベリーの甘酸っぱさと、ホワイトチョコレートの濃厚な甘みが、疲れた脳に染み渡っていく。

 そして何より、ノエルの優しい声の余韻が、私の心を内側からとろけさせていく。

 

「……すごく、甘くて、優しい味がします」

「よかったです。あなたの笑顔が見られて、ボクもホッとしました」

 

ノエルは、少女のようにはにかみ、同時に大人の男性のように妖艶に微笑んだ。


「ごちそうさまでした。不思議です……あんなに重かった身体が、嘘みたいに軽い」

 

 終電ギリギリの時間になり、私は席を立った。

 お会計を済ませ、扉へ向かう。ノエルは最後まで美しく、エレガントな一礼で見送ってくれた。

 

「お客様、最後に一つだけ」

 

 呼び止められて振り返ると、ノエルは自分のふっくらとした唇を指先でなぞりながら、艶っぽく微笑んだ。

 

「明日の朝、お出かけになる前に、一番お気に入りのリップを塗ってください。それが、あなたを再び無敵のプリンセスにする魔法になります。……もしまた、魔法が解けそうになったら、いつでもここへ」

 

カラン、コロン。

 

 扉が閉まり、私は再び夜のオフィス街へと踏み出した。

 冷たい夜風が頬を撫でるけれど、不思議ともう寒くはない。バッグを握る手には、確かな力が戻っていた。

 振り返ると、そこにはただの薄暗い路地裏があるだけ。

 けれど、私の胸の中には、あの銀髪の、性別不詳の麗人がくれた温もりが、確かに息づいていた。

 

「よし……明日も、頑張ろう」

 

 私は小さくリップを直し、ヒールをカツンと鳴らして、軽やかな足取りで駅へと歩き出した。

 耳の奥に残る、あの愛しい声を、何度も再生しながら。

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