女性のお客様へ
コツ、コツ、と夜の路地裏に虚しく響くのは、私のヒールの音。
「……なんで私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないのよ」
都内の広告代理店で働く私は、深夜におよぶトラブル対応を終え、終電間際の駅へと向かっていた。
後輩のミスを押し付けられ、理不尽に怒鳴られ、お気に入りのパンプスは雨上がりの水たまりで汚れてしまった。
ボロボロの心と身体。
泣き出したいのを必死に堪え、俯いて歩いていた時、ふと、甘いスパイスの香りが鼻をかすめた。
顔を上げると、レンガ調の壁にぽつんと灯る琥珀色のランプ。
その下に、可愛らしい文字で『兎喫茶』と書かれた看板があった。
「こんなところに、カフェ……? ううん、もう終電だし、帰らなきゃ……」
そう思ったのに、私の足は吸い寄せられるように、すりガラスの扉を押し開けていた。
カラン、コロン。
「――いらっしゃいませ。今夜も、お疲れ様でございました」
出迎えてくれたその「声」に、私は頭のてっぺんまで痺れるような衝撃を受けた。
低く落ち着いているのに、どこか鈴のように澄んでいる。
少年のような無垢さと、大人の女性が持つ包容力が、完璧なグラデーションを描いているような……今まで生きてきて、一度も聞いたことがないほど美しい声。
カウンターの奥から現れたのは、その声に違わぬ、現実離れした美貌の持ち主だった。
照明を浴びてきらきらと輝く、シルクのような銀髪。
少しタレ気味の、すべてを見透かすような白金色の瞳。
黒いベストをビシッと着こなしたその人は、男性のようでもあり、中性的なドレスを着た女性のようでもある。
「あ、あの……」
「お疲れのようですね。さあ、まずはその重いお荷物を置いて、こちらへどうぞ」
その人が優しく微笑み、暖炉の前のソファーを指差す。
その極上の声に促されるまま、私は吸い込まれるように席へ腰掛けた。
温かいハーブの香りがするおしぼりを受け取りながら、私は目の前の美しい店員を凝視してしまった。
女性にしては肩幅があり、スラリと背が高い。けれど、手首や首筋は驚くほど細く、肌は陶器のように白い。
「あの……失礼ですけど、店員さんは、女性……ですか? それとも男性……?」
普段の私なら絶対にそんな無作法な質問はしない。
でも、この空間と、その人の持つ雰囲気が、私の理性を少し狂わせていた。
店員さんは、ふふ、と悪戯っぽく、でも淑やかに微笑んだ。
「ボクはノエル。この『兎喫茶』の店長です。お客様が、ボクを男だと思えば男に、女だと思えば女になりますよ。……ここでは、性別なんていう窮屈な肩書きは、どうぞ忘れてしまってください」
ノエル。その名前が、その中性的な美貌にあまりにもぴったりで、私は小さく息を吐き出した。
「お待たせいたしました。今夜のあなたには、こちらを」
目の前に置かれたのは、淡いピンク色の泡が美しい、特製のショコラ・ラテ。
上にはココアパウダーで、一本の美しい薔薇のトッピングが施されている。
「これ……私、頼んでいませんけど」
「当店はメニューのない喫茶店です。お客様の『心のSOS』に合わせて、ボクが最高の1杯をお作りします。……今夜のあなたは、とても綺麗なトゲを立てて、一生懸命に自分を守ろうとしているように見えましたから」
ノエルはそう言うと、私の正面の席にそっと腰掛けた。
驚くほど自然な動作で、まるで長年の友人のように、私のパーソナルスペースに寄り添ってくれる。
「トゲ、ですか……」
「ええ。美しく、強いトゲです。でも、ずっと張り詰めていては、あなた自身が折れてしまう」
ノエルのその声が、私の耳の奥で心地よく反響する。
まるで、硬く冷え切った心を、温かい毛布で優しく包み込んでいくような感覚。
「……今日、本当に理不尽なことがあって」
気がつけば、私は会社の愚痴を、堰を切ったように話し始めていた。
いつもなら「愚痴を言う女は格好悪い」と自分を律するのに、ノエルの前では、弱い自分を隠すことができなかった。
ノエルは何も否定せず、ただ「ええ」「それはお辛かったですね」と、あの至高の、性別を超越した声で相槌を打ってくれる。
その声を聞いているだけで、頭の芯がじんわりと痺れ、肩の力がすとんと抜けていく。
「お客様。戦う女性は美しいですが、時には戦兜を脱いで、ただの可愛い女の子に戻る時間が必要です」
ノエルがそう言葉を紡いだ。その声の響きだけで、胸がキュンと切なくなる。
「今夜はもう、十分戦いました。この甘いラテを飲んで、自分をたくさん褒めてあげてください」
促されるままラテを口に含む。
ベリーの甘酸っぱさと、ホワイトチョコレートの濃厚な甘みが、疲れた脳に染み渡っていく。
そして何より、ノエルの優しい声の余韻が、私の心を内側からとろけさせていく。
「……すごく、甘くて、優しい味がします」
「よかったです。あなたの笑顔が見られて、ボクもホッとしました」
ノエルは、少女のようにはにかみ、同時に大人の男性のように妖艶に微笑んだ。
「ごちそうさまでした。不思議です……あんなに重かった身体が、嘘みたいに軽い」
終電ギリギリの時間になり、私は席を立った。
お会計を済ませ、扉へ向かう。ノエルは最後まで美しく、エレガントな一礼で見送ってくれた。
「お客様、最後に一つだけ」
呼び止められて振り返ると、ノエルは自分のふっくらとした唇を指先でなぞりながら、艶っぽく微笑んだ。
「明日の朝、お出かけになる前に、一番お気に入りのリップを塗ってください。それが、あなたを再び無敵のプリンセスにする魔法になります。……もしまた、魔法が解けそうになったら、いつでもここへ」
カラン、コロン。
扉が閉まり、私は再び夜のオフィス街へと踏み出した。
冷たい夜風が頬を撫でるけれど、不思議ともう寒くはない。バッグを握る手には、確かな力が戻っていた。
振り返ると、そこにはただの薄暗い路地裏があるだけ。
けれど、私の胸の中には、あの銀髪の、性別不詳の麗人がくれた温もりが、確かに息づいていた。
「よし……明日も、頑張ろう」
私は小さくリップを直し、ヒールをカツンと鳴らして、軽やかな足取りで駅へと歩き出した。
耳の奥に残る、あの愛しい声を、何度も再生しながら。




