空が裂けた日
西暦2100年7月14日、午後7時12分。
東京・渋谷スクランブル交差点は、いつものように熱気と喧騒に包まれていた。
信号が変わるたび、波打つ人の群れ。大型ビジョンには最新のアイドルグループが微笑み、外国人観光客が自撮り棒を振り回し、若者の集団がビールを片手に笑い声を上げていた。夏の夜の匂い——汗と排気ガスの香りが混じり合う。
「ねえ、今日も暑いね」
女子高生の笑い声が、すぐ後ろで弾けた。
その瞬間、空が鳴った。
最初は低く、地響きのような音だった。誰もが足を止め、空を見上げた。
夕焼けの茜色をした西の空に、細い黒い線が走った。まるで誰かが巨大な爪でガラスを引っ掻いたように。線はみるみる広がり、蜘蛛の巣状の亀裂へと変わっていく。
「え……何、あれ?」
「特殊効果とか?映画の撮影?」
「なんかの宣伝とか?」
人々はまだ現実を理解できていなかった。スマホを向け、笑いながら撮影する者まで現れる。
次の瞬間、裂け目が大きく開いた。
中から、青白く輝く霧のようなものが溢れ出した。それは粒子となり、雪のように舞い降りる。触れた瞬間に空気が冷え、吐く息が白くなった。
そして——
「きゃああああっ!」
最初に悲鳴が上がったのは、交差点中央だった。
裂け目から、真っ黒な影が大量に吐き出された。カラスのように巨大化した鳥が、鋭い爪で通行人の肩を抉り、地面に叩きつける。角の生えた大型犬のような獣が、牙を剥いて女性の腹を裂いた。血が飛び、熱い飛沫がアスファルトを染める。
人波が崩れ、逃げ惑う群衆が互いを踏みつけた。車が衝突し、クラクションが絶叫のように響く。
「自衛隊!警察はどこだ!」
誰かが叫んだ。
数分後、サイレンを鳴らして到着した機動隊と自衛隊の部隊が、即座に銃撃を開始した。89式小銃の乾いた発射音が連続する。しかし、弾丸は魔獣の体を素通りするか、浅い傷を残すだけで弾かれた。巨大カラスが低空を滑り、隊員の首を一瞬で引きちぎった。
「銃が効いてない!?」
絶望の声が上がる中、一人の若い自衛官が、咄嗟に落ちていた金属バットで女性を締め殺そうとする蛇の怪物に立ち向かった。彼の腕に青白い光が宿り、バットが鱗をわずかに抉る。
しかし、次の瞬間、彼の体は黒い影に飲み込まれ、血飛沫だけが残った。
裂け目はさらに広がり続けていた。今や空の半分を覆うほどの巨大な裂傷。そこから、ぼんやりと人型をした半透明の影が、ゆらゆらと浮かび上がってくる。
東京は、たった一夜で地獄と化した。
炎が上がり、悲鳴が尽き、血の匂いが夜風に乗って街全体に広がった。
――2100年7月14日。
人類は思い知った。
今までの平穏は容易く崩れるほどに儚く脆かったのだと。
そして46年後。
西暦2146年。旧・京都、今は西京府と呼ばれる都市、教室の窓際の席で荻野昴は、ぼんやりと外を眺めていた。
歴史の授業で、今日も「裂界出現の日」の記録映像が流れている。 惨たらしい映像の中で、渋谷のスクランブル交差点が血と炎に染まっていく。
「今見ていただいたのが今から46年前、魔獣と呼ばれる化け物が現れた瞬間の映像です。これからの未来を担う君たちには__」
歴史の教師がブツブツと教科書を読み上げている。
「昴、聞いてる?」
隣の席のクラスメイトが小声で突っつく。
昴は小さく頷いたが、視線は窓の外——遠くに見える征魔学院の瓦屋根に向いていた。
胸の奥が、ざわついていた。
(俺には、もう関係ない……)
そう自分に言い聞かせるが、どこか虚しさを帯びていた。
遠くで、征魔庁のサイレンが低く鳴り響いた。
また、どこかで魔獣が出現したのだろう。
荻野昴は、ただの高校二年生。
ごく普通の、一般人だ。




