18 正色
火の匂いがまだ土に残り、折れた矛の柄があちこちに転がっていた。陣の外れでは傷兵が水を求め、鍋の湯が細く鳴っている。勝ったといっても、戦のあとの平穏は人の心を軽くはしなかった。遠い山の端に、散った村の戸口が黒く点を打ち、逃げ遅れた家畜の声がときおり風に混じる。
下弁へ押し寄せたのは、劉備のもとに身を寄せた馬超と張飛であった。沮の街道から旗が現れるや、氐の雷定ら七部族が呼応し、万を超える者どもがいっせいに背を向ける。漢中へ兵が動く噂が西へも満ち、谷間の心は揺れやすかったのであろう。馬超の名は、ただ勇名としてではなく、裏切りと血の記憶を連れて歩く。
曹操は都護の曹洪を遣わした。曹洪は兵の列を崩さず、反乱の部落を追い散らし、馬超らの勢いを削って退かせた。鋭い追撃ではなく、折れるところで折り、引くところで引く。山の道を知り、兵糧の細さを知る者の戦いであった。矢の雨が止むたび、曹洪は馬を歩ませて土を踏み、崩れた列を掌で戻す。
楊阜は、戦の報とともに軍の内にあった。かつて涼州で見た乱の火を思えば、馬超がまた西の土を踏んだと聞くだけで胸の底がざらつく。あの名は、主を殺し、城を血で濡らし、人の情を断ち切ってきた刃である。義と信はあの賊名の影に踏みにじられた。戦場の喧噪が引いたいま、残るのはその名の陰である。
夕刻、曹洪は諸将を幕に呼び、酒を設けよと命じた。軍の者にとっては、勝敗ののちに杯が回らねば夜が越せぬ。曹洪は楊阜を見て言った。
「義山殿、今日の働きは重い。まず一坐に加わられよ」
楊阜は礼をして従う。だが、杯が慰めになるものか、と胸の内で問い返していた。慰めの形を誤れば、礼は崩れ、国の柱は内から腐る。戦を収めるのは矛ではない。乱れた心を正すには、まず人の振る舞いが正しくなければならぬ。そう思う眼が、すでにどこか冷えていた。
幕の内は灯が増え、土と汗の匂いを酒の香が押し返していた。敷かれた席の上にはまだ乾き切らぬ泥が散り、剣を膝に置いたまま坐る者もいる。鍋から立つ湯気が梁に溜まり、炙った肉の脂が火に落ちてぱちりと鳴った。傷を覆う帛があちこちに見え、その痛みを隠すようにみなが声を太くする。
曹洪は奥の坐にあって杯を高く掲げ、諸将へ快く勧めた。勝ちの夜は短い、明日はまた険を越える、今宵は胸の底の砂を洗えと。笑いはすぐ起き、杯が回るほどに荒い息がほどけてゆく。誰かが武功を誇り、誰かが倒れた友の名を口にして沈むと、別の者が大声でかき消した。
楊阜は坐して火の色を見ていた。曹洪が折々にこちらへ目を走らせるのがわかる。馬超の名がこの場に出ぬよう、わざと杯の話に寄せ、疲れを笑いへ変えようとしているのだろう。だが、慰めの形は容易に誤る。乱のあとに残るのは、笑いよりも、礼が守られるという確かさである。
ほどなく曹洪が手を鳴らすと、女楽が入った。薄い綾織の衣をまとい、足を踏み鳴らし、鼓をうたせる。鈴が細く鳴って灯影に揺れ、肩口や腕の線が火に浮いた。諸将はどっと笑い、膝を叩き、酒を噴く者さえある。戦の疲れを払い落とすには、こうした色が手軽なのだとでも言うように。
楊阜は杯を置いた。胸の内に冷たいものが立ち、笑いと同じ速さで怒りが満ちた。涼州では、義を守るのに剣より強い声があった。姜叙の母が事の初めに姜叙へ義を勧めた面、王異が夫に寄り添いながら折れぬ眼を持った面。あの女たちは、国の節を身をもって支えた。女を軽んじ、辱めを興として笑うなど、なんと卑しい行いか。礼が崩れれば、勝っても国は負ける。
楊阜は立ち、奥の坐へ進んだ。
「子廉殿。男女のけじめは国の重要な道徳です。どうして大勢の場で女性にかような真似をさせるのですか。桀・紂の不行跡でもここまで酷くはありますまい」
鼓の手が止まり、笑いは喉で凍りつく。坐の端で箸を落とす音がし、酒を注いでいた兵が手を止めた。曹洪の頬がわずかに引きつるが、怒声は出ぬ。諸将は目を伏せ、誰も言葉を継げない。楊阜は言い足さず、衣を払って幕を出た。夜気が頬を打ち、背のうしろで灯のざわめきが小さく残る。
楊阜は足を緩めず、己の内で言を重ねて戒めた。礼は人を縛る縄ではない。乱世を立て直す骨である。
幕の外は冷え、楊阜は灯の漏れる帷を背にしばし立ち止まった。言葉は矢であり、一度放てば戻らぬ。今の一言で、主将の面子を折ったことも知っている。それでも折らねばならぬ面子がある。礼が崩れれば、兵は驕り、驕れば必ず乱が生まれる。馬超の刃が踏みにじったものを思えば、なおさらであった。
幕の内からは、まだ油灯の爆ぜる音が聞こえる。笑いは消えたが、ざわめきは残っていた。誰かが取り成そうとして言葉を探し、すぐ吞み込む気配がある。楊阜はその重さを背で聞き、眉一つ動かさなかった。
やがて足音が急ぎ、火色の中から曹洪が出てきた。甲の紐は解け、杯を持った手が空のまま揺れている。曹洪は楊阜の前で立ち、言い訳を探すように口を開きかけ、すぐ閉じた。頬に熱が上がり、その目は真っ直ぐであった。荒武者と思われがちな男に、こうした素直さがあるのは、この乱世ではむしろ稀である。
「義山殿。先ほどは、俺が浅かった」
頭を下げると、帯の鈴が小さく鳴った。楊阜は驚きの色を出さず、ただ見返した。曹洪は続ける。
「勝って浮かれたのではない。あの賊名を聞くたび、貴公の胸に残るものがどれほどか、俺にも分かる気がした。杯を重ねれば少しは和らぐかと思うた。ところが、あれでは逆に義山殿の痛みを汚したのだな。恥ずかしい」
曹洪はすでに女楽を退かせ、鼓も止めたと言った。舞う者に羞じを重ねるなと短く命じ、すぐ奥へ下げたという。幕の内は今、みなが黙って坐り、火を見ている。楊阜はゆるく息を吐いた。怒りが去ったのではない。ただ、恥を受け止めて改める心が、目の前にあった。
「分かって頂けたのなら、それで良いのです」
楊阜がそう言うと、曹洪がなお深く頭を垂れる。
「戻ってくれ。みなの前で、俺が改めたと見せたい。貴公の言がただの拒みではなく、国のためであると、俺の口からも立てたい」
楊阜は一度、帷の灯を見た。席に戻れば、また多くの眼が刺す。だが、去ったままでは、言葉が憎みに変わる。諫めは刃で終わらせず、収めねばならぬ。礼を立てるには、退くより坐る方が辛いこともある。楊阜は歩を返した。
幕に入ると、笑いは消え、杯は置かれ、ただ火が赤く鳴っていた。諸将は揃って身を正し、誰も女楽の名を出さぬ。先ほどまで膝を叩いていた者も、唇を結び、手を膝に揃えている。曹洪は楊阜を迎えて言った。
「義山殿の諫め、俺は受けた。今宵は勝ちを誇るためではない。明日の戦のために、心を律する席とする」
その声に、坐が固く締まる。楊阜が席に坐ると、諸将は目を伏せ、畏れるように杯を運んだ。楊阜は杯を取って一口含み、火の色を見る。




