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17 仁政

 城の騒ぎが遠のいてから、幾月も筆を持つ手のみが残った。血と煙の記憶は、語らずとも胸の底に沈み、楊阜はただ吏務を積み重ねて日を繋ぐ。負った古傷が雨の日に疼くことがあっても、顔色ひとつ変えず、几に向かった。その沈黙は、人を近寄らせぬほどのものであった。


 建安二十年。兵が漢中に向けて動くと噂され、吏舎の動きも早くなった。伝吏の出入りが増え、書簡の束は日ごとに重くなる。


 その日、楊阜の几の端に置かれた二巻の書簡は、ともに丞相府の印を帯びていた。戸口には伝吏が控え、息をひそめている。楊阜は油灯の下でまず一つをひらいた。


 『楊阜を金城太守に補す。』


 その筆勢には、急ぎの気が混じっていた。彼は黙って巻き直し、次の一巻へ指を移す。これは紙の端が少し傷み、封も粗い。


 『先の命を改む。楊阜を武都太守に補す。』


 読み終えると、楊阜の口もとに、わずかな息が落ちた。金城から武都へ。手違いと片づけるには、時が時である。漢中へ兵を向けるという風聞は、涼州の末の郡にまで届いていた。張魯を討つ軍の途上で、名簿も印綬も、年の古い書のように繰り返し引き抜かれているのだろう。


 ふと、これまで受けていた称が胸をよぎる。益州刺史と記された任は、名が先に立つものであった。だが今の命は、土と人の間に足を下ろす務めである。乱世が人に与える役目は、しばしばこのように、名から実へと形を変える。


 武都といえば、山の険しさより、境の近さが先に立つ。益州の領に触れ、ひとたび言の行き違いがあれば、兵の影がすぐに濃くなる地である。楊阜は視を落とし、几上の筆と墨を見た。ここで法をただ直ぐに振り下ろせば、人は怯え、怯えはやがて裏の道を生む。彼はかつて、その裏の道に血が流れるのを見てきた。


 巻き直した書簡の横に札を置き、筆を取る。


 『武都は国境の郡にして、民は移り、俗は交わりやすし。故に龔遂きょうすいの旧例に倣い、法をのみ厳にせず、情と理を量りて治めんことを請う。乱後の地を守り、主の道を支うるは、今よりの務めなり。』


 書き終えて筆を置くと、胸に沈んでいたものが定まった。失った名は戻らぬ。戻らぬものの重さは、嘆くためにあるのではなく、今あるものを守るためにある。楊阜は封を施し、伝吏に渡した。己の歩みは、ここから乱してはならぬ。


 武都に移り幾日。朝の務めが始まると、几の上に積まれた札と簿が、ひとつずつ楊阜の前へ運ばれた。墨の匂いと土の匂いが交じり、戸口の帷は人の出入りのたび細く揺れる。楊阜は視線で行を追い、印を示し、誤りがあればその場で正した。古傷がふいに熱を帯びても、肩を動かすことなく筆を置き、短く息を吐いてから次の札へ移る。その慎み深さが、吏たちの背を自然と正させた。


 赴任の初めは、吏も民も、彼を遠巻きに見ていた。顔に刻まれた疲れと沈黙が、法の刃を先に思わせたのである。だが楊阜は、咎める前にまず確かめた。租の取り立ては度を越えておらぬか、量の升は歪んでおらぬか、判を押す者の手が私情に引かれておらぬか。小さな不正を取り逃がせば、人の心はほどけ、ほどけた隙から悪事が芽を出す。彼はそれを声高に言わず、ただ日々の扱いを細かく整えた。


 ある日の昼、吏の一人が軽い盗みで捕えた若者の札を持ち込んだ。罪状に従えばしもとが相当である。楊阜は末尾を指で押さえ、盗まれたのが飢えを凌ぐための粟であること、家に病があることを確かめたうえで、郡の倉から僅かを貸し付け、盗んだ分は労役で返させよと命じた。法の旨を損なわず、人を追い詰めてさらに罪を生ませぬためである。吏は一度唇を結び、やがて小さくうなずいた。


 雨の降らぬ日が続くと、訴えは減るどころか形を変えて増えた。水の配り、畑の境、借りた鍬の返しどき。大事に至らぬうちに結び目をほどくのが、郡の気を荒らさぬ道であった。


 それから幾日かのち、門前で言い争う声が立った。境の畑の筋をめぐる争いで、互いに譲らぬまま熱を増してゆく。楊阜は地図を取り寄せ、古い界標の位置を確かめ、双方の言い分を最後まで聞いたうえで、余地の狭いほうに水路の手入れを命じ、収穫の折に一束を返礼として渡させた。笞も罰金も用いず、道理で結び目をほどく。二人が黙って頭を下げると、吏の胸からようやく息が抜けた。


 夕刻、戸口に小さな包みが置かれた。礼と称する品であった。楊阜はただちに呼び戻させ、贈り主の名を札に記して返させる。境の郡では、物が動くほど情も動きやすい。情が動けば、理がひずみ、ひずみは争いとなって火種を残す。受け取らぬという一事を、彼は毎日同じ重さで貫いた。


 やがて民の眼が変わった。訴えを持つ者は声を荒らげず、吏もまた結論を急がずに事情を把握してから几へ進む。楊阜の名を呼ぶとき、恐れの調子より頼みの調子が少し勝つようになっていった。


 夜更け、灯を落とす前に楊阜は簿を巻いて指先を止めた。韋康、閻温、そして姜叙の母の面影が、ふと瞼の裏に浮かぶことがある。彼らが守ろうとしたものを、今度は自分が守らねばならぬ。民が明日の畝へ出るのを恐れぬように、官が札を偽らずに済むように、境の郡が不用意な火種を抱えぬように。楊阜は胸を締め直し、明日の札の束をそろえた。その背は固いままだったが、固さの奥に、少しずつ人の信が寄り添い始めていた。


 夜半、門を叩く音が細く響く。寝台の側で筆を握っていた楊阜は、衣を正し、戸口へ出た。伝吏が差し出した軍報は、土と汗の匂いを帯び、封は急ぎの手で結ばれている。遠路を駆けた馬の息の荒さまで札に染みているかのようであった。楊阜は書簡を几に置いて封を割り、慎んでひらく。


 まず、漢中へ向かった曹操の軍が、張魯を討つ途上で陽安関を攻めたと書かれていた。次に、関を守ったのは張衛ちょうえい・楊昂・楊任ようじんの三将であり、一度は攻め手を退けたと記されている。末尾には、そののち別の道から別働が夜襲を入れ、関内の陣は乱れ、楊任は戦死し、楊昂の行方については記しようがないとあった。逃れたのか、討たれたのかすら分からぬ。


 楊阜の指が、その名の上で止まった。冀の庭に響いた声、倒れた主の血の温み、あのとき刃を振った男。己の内で古い火がひとつ息をしたが、すぐに灰のように鎮まった。今は境の郡を預かる身である。怨みを抱いても民の腹は満たされず、怒りを煽っても倉の戸は固くならぬ。悪事を生ませぬために設えた札の束が、几上に重なっていた。


 報の行間には、勝ってもなお油断ならぬ気配がある。楊阜は軍報を巻き直した。乱世は、人の功も罪も、時にこのように曖昧に消してしまう。


 彼はそこに、因縁の終わりを見たのではない。終わりと断ずることすら、奢りであると思った。誰が恨みを受け継ぎ、誰が許すかを決める前に、日々は過ぎる。ならば己は、遺された名を抱えたまま、明日の秤を狂わせぬ務めを積むしかない。


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