第13話 美少女後輩はピアニスト
「ったく、なんで俺がこき使われにゃならんのさ」
ある日の放課後。なぜか俺は大量のレポート用紙を抱えて音楽室に向かっていた。三四限の授業でサン=サーンスの『動物の謝肉祭』について鑑賞をしてそのレポートは本来なら蕾が持っていくはずだった。
なのに、放課後になって急に「先生に呼ばれたからお願い」と返事をする間もなく行ってしまうものだから素直に従う他ない。というか、みんな律儀に提出していて優等生しかいないのか。俺なんか授業内で書き終わったとはいえ、言われるまでレポートの存在を忘れていたぞ。
ため息を吐きながら教室棟から離れた特別棟の階段を昇る。学校の階段は地味に昇るのが面倒で嫌になる。三階にある音楽室の前に着き、準備室をノックする。返ってきたのは無音だけ。誰かいないのか確認しようとしたが鍵は閉まっており、開く気配はない。
しかたないので音楽室の中に適当に置いておくかと扉を開けた。その瞬間、まるで俺に襲いかかるようにおぞましい重く暗い低音と刃物のような鋭い高音が俺の身体を囲んだ。切っ先が喉に当たったように、唾を飲み込むだけでも通る管が狭まっているせいで痛みを伴う。
指先はかすかに震え、全身は鳥肌が立って止まらない。額から滴る一つの冷たい汗がどうにも気味の悪さを感じさせる。何の曲かはわからない。でも、不気味なほど冷淡なピアノの音に対して、俺は美しさを見出してしまった。
ひとしきり弾き終えたのか、ピアノの音は余韻だけを空中に溶かし、残響さえも感じさせない静寂を取り戻す。音が止まったと同時に、肺がいつもよりも膨らむ感覚がした。空気の循環は急いでいるみたいで、俺は今まで息をしていなかったかのような状態だ。もしかしたら、本当に息をしていなかったのかも。
それほどまでに、俺はピアノの演奏に魅入っていた。惹かれていた。心を奪われてしまったのだ。
いったい誰が演奏していたのだろう。わずかな好奇心と誘惑により、俺は音楽室内へと足を踏み入れ、自然とピアノの近くにまで歩を進めていた。あまりにも無意識な動作。だからなのか、ピアノを弾いていた彼女がすでに俺に目を向けていたことに気付くのに、遅れてから理解したのは。
吸い込まれそうなクリーム色の瞳は、すべてを俯瞰しているみたいに澄んでいた。どこまでも、淡く、脆く。なんとも不思議な雰囲気を纏って。髪色も瞳と同じで、二つ結びにしているのが少しあどけない印象を与えてくる。
俺は彼女を知っている。彼女もまた、学園の美少女と謳われている一人である一つ下の後輩、鈴代双葉すずしろふたばなのだから。
――考えてみれば、彼女もよくわからない俺のファンクラブ会員なんだよな。うん、本当に意味がわからない。
抱えていたレポートが落ちそうになったので一度整え、再度双葉に顔を向ける。
「……愁、先輩?」
「あ、うん。そうだけど……えっと」
「自己紹介は、省いても良いよね。きっとお互いに知っているだろうから」
「それは、まあ」
なんとも独特な人だ。
初対面にして自己紹介をカット、先輩呼びするのに敬語を使わない。おろか、俺は立ちっぱなしなのに双葉はイスに座ったまま。これじゃあどっちが上なのかがわからない。
乱れた呼吸を戻すように、息を深く吸い込んで落ち着かせる。
「鈴代さんはどうしてピアノを?」
「あれ、愁先輩知らなかったの? てっきりわたしのこと隅々まで知ってると思ってたけど」
「前提がおかしいから。名前は知ってるけどそれ以外のことなんて何も」
「そう、わたしだけなのね。こんなにも想いを寄せていたのは」
「それって、どういう……」
「乙女の口にそんなことを言わせるの?」
つまり、そういうことなのかっ!
待て待て、俺たちは今日初対面だろ。会ってまだ数秒。お互いのことなんて何も知らない。それなのに、それなのにいいのか!? いや、世の中には交際してからお互いのことを知っているという人だっているから、一概にも否定するのは良くない。うん、良くない。
思考と一緒に目まで回転してしまいそうになるほど逡巡としていると、クスっと笑みが聞こえた。
「ごめん、冗談」
「あ……うん、そうだよな。大丈夫、知ってたよ」
「嘘、期待したでしょ」
「いやいや、そんなことはちっとも――はい、しました」
「愁先輩って素直ですね」
何が彼女のツボに入ったのか、冗談と言ってからやたらと柔らかい笑顔を絶えず浮かべてくる。不思議な雰囲気は一瞬にして消え去り、なんだかほんわかした空気が漂い始める。
さっきまであんなにも痛烈なピアノを奏でていた人物と同じとは思えなかった。それほどまでに、彼女の醸す雰囲気というのは多色なのだ。
気まずさともどかしさを胃に抱えていると、彼女は俺の手からたやすくレポート用紙を攫ってしまった。
「あとで先生に渡しておけばいい……だよね?」
「そうだけど、わざわざ悪いって」
「わたしの即興を最後まで聞いてくれたし、遮ることもなかったお礼。愁先輩って良い人だね」
「……それだったら誰でも良い人になるだろ」
「さて、それはどうでしょう」
意味深に答えを濁され、彼女は「それじゃあまたです」と言って会話を切られてしまい、俺は音楽室から出ることを余儀なくされた。
頭の中では彼女の音が残っている。あれを即興でなんて、既存の曲と思うくらいには完成度が高かった。それに、彼女は俺が知っていると思っていたけれど、それってどうしてなのだろう。学園の美少女として謳われているから、なんて理由ではないことを薄々理解しながら、それでもわからずただひたすらに鈴代双葉という少女のことで頭の中は占領されてしまった。
音楽ものに毒されてしまいました
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