52、救いの手
「お前如きが調子に乗るなよ」
防御壁を叩いていた大司教の耳に届いた言葉。彼は耳元で囁かれ、動いていた手が止まる。地を這うように低く、背筋が凍りつくような……そんな声。言葉を発することから、後ろに人がいることを頭では理解している。けれども……まるで凶暴な魔物が後ろに立っているかのような感覚。
ゆっくりと後ろへと振り向くと、そこにいたのは見た目麗しい青年だった。どこかの王子なのではないか、と思うほどの美貌。そこに倒れている王太子と良い勝負だ。
爽やかそうな青年は美しい笑みをたたえていた。女性が見惚れるであろう笑顔……しかし、一方で滲み出る圧に大司教は気圧される。その圧を受け続けているからだろうか、無意識に身震いをしていた大司教。
彼の顔が自分に近づいてくる。あまりの迫力に、尻餅をつきそうになったその時。
「ベルド」
「ウル……大丈夫だよ」
彼の後ろから声が掛かる。目の前の男性はベルドと呼ばれていた。
どこかで聞いたことがあるような……と思いはしたが、恐怖に支配されている頭では、何かを考えたり思い出すことすらできない。
それよりも、後ろにいる男を見て「ヒッ」と大司教は歯をガタガタと鳴らしながら小さく悲鳴をあげた。彼は気絶している王太子を荷物のように担いでいるのだ。
「そ、そのお方はこの国の王太子だぞ?!」
痛みも忘れ、唾を飛ばしながら叫ぶようにウルを指差す大司教。しかし、虚勢を張る男の戯言など、取るに足らない。ウルの心にそよ風すらも立たないほど、男の言葉は伝わっていなかった。
だから? と言わんばかりにこちらを凝視するウルに、彼は気後れしていたそんな時。
ウルの後ろから大きな音がしたかと思えば……地下室唯一の扉から、護衛たちが雪崩れ込んできた。
「大司教様! 殿下! ご無事でしょうか?!」
「お前たち! 遅すぎるぞ!」
「申し訳ございません!」
もちろん、彼らも手をこまねいていたわけではない。すぐに入室しようとしていた護衛たちだったが、衝撃によって歪んでしまったり、瓦礫が扉の前に重なってしまったりと扉を開けることができなかったのだ。
大司教の埃だらけで、腕から血を流している姿を見て、ただ事ではないと判断した護衛たち。
「扉が開かない状態になっていまして! それで殿下はどちら……に……?」
大司教に状況を告げてから、王太子を探す護衛たち。彼らはある一点を見ると、視線がそこに固定された。その場所といえば――
「王太子殿下!?」
「お前……! 王太子殿下を離せ!」
ウルへと剣を向ける護衛たち。しかし、彼は怯むことなく言い放った。
「俺はこの人を別の場所へ移動させようとしていただけなのだが? 周囲を確認してみろ。この場所は時期に崩れるだろうからな」
そう言われて、護衛たちと大司教は辺りを見回した。彼の言う通り、天井からは小さなかけらや砂がパラパラと落ちてきている。まずは安全を、というウルの発言に納得した護衛たち。
護衛の中の一人がウルへと話しかけた。
「ならば私たちが……」
「いや、俺一人の方が早い。外の庭に一旦寝ころばせておきたい」
軽々と担いでいる男の言葉にぐうの音も出ない。しかし次の言葉で、護衛の一人の顔が真っ青になる。
「先に走って庭へ! 一人は敷く物を用意しろ!」
慌ただしく走り去った護衛二人。バタバタと階段を登る音が聞こえる。
しばらくすると音が聞こえなくなった頃、ウルは天井を確認した。まだ崩落することはないだろうが……それも時間の問題だ。
「では俺は一旦上にいる誰かに引き渡してこよう」
そう言って彼は扉とは反対方向へと歩いていく。護衛がどこへ行くのかと訊ねる前に……二人の姿が消えた。彼はウルのいた場所を穴が開くほど見つめている。けれども、二人が姿を現すことはない。
ふと上から声が聞こえた。護衛が顔を上げると、一階の玄関の方向にウルの姿が。
「そこにお前の仲間がいるようだから、預けておく」
一瞬で飛び上がり、一階に辿り着いていたウル。彼の姿を最初呆然と見ていた護衛だったが、目の前の男に呼び止められ、我に返った。
*
暗い、暗い部屋の中にいた。
窓もない、家具もない、音すらない。むしろ部屋と言って良いのかすら分からない……闇に包まれた場所。
エルミナは一人ぽつんと膝を抱え、その間に顔を埋めていた。頭の中では過去のことが走馬灯のように流れていく。
幼い頃から感情を表に出せなかったエルミナ。そのため両親から「不気味な子」と距離を置かれていたこと。
初めて教会に行った時、司祭から「神聖魔力がある」と言われ……両親は喜んで彼女を教会へ預けたこと。
そこから両親は教会に現れることなく……なんとなく捨てられたんだな、と感じていたこと。
教会でも平民の聖女として、差別を受けていたこと――
全ての感情を心の奥底へと押し込めていた彼女の闇は、大きく大きく膨れ上がっていく。まるで全てを引き摺り込むような闇のように……。
エルミナはのろのろと顔を上げた。
普段と同じような無表情かと思いきや……瞳が虚ろで、焦点が合っていない。まるで世界に絶望しているかのように生気もない。
意識がどんどん希薄になっていく。
この闇に溶けてしまいたい、そう思うほどエルミナは洪水のように襲いかかる感情に呑まれていた。
このまま目を瞑ったら、楽になるだろうか。
そう考えて目を瞑ろうとした彼女の耳元に聞こえたのは――
「ミナ! ミナ! 助けに来たよ!」




