4
その日、いつもの時間に起きた私は、いつもの日課をいつも通り行った。入念に柔軟をした後、目を瞑り深呼吸をする。心臓から指先、つま先。末端からまた心臓へ、体全体に血が巡るのをイメージする。
身体が温まると目を開き、武器の手入れを始めた。短剣とナイフの状態を見て、少し研ぎ、布で拭う。ベルトの剣帯に短剣をしまい、ナイフをブーツの中に隠す。
上着を羽織って鏡に向かい合い、自分の顔を見つめる。暗い赤色の髪と、角度によっては青くも見える薄灰色の瞳。今となっては前世の自分の顔よりも馴染んでしまった、脇役らしく平凡な顔。
「ばいばい、かなあ。結構好きだったんだよ、この顔」
鏡の中に声をかけて、私は部屋を後にした。
日中はまどろみの中にいるように穏やかに過ぎていった。
「……アルマ? アルマ!」
「……あ、ごめん。何だった?」
「ご飯の時間だよ。今日どうしたの? なんかぼーっとしてる」
「暖かくて、眠いのかな」
「さては夜更かししたでしょ? 駄目じゃない、そういうときは私も誘ってくれないと」
天真爛漫に笑うエレインが眩しくて、私は目を伏せる。
生徒会室のある棟は部活棟とは別なので、放課後になるとほとんど人の気配がない。ひっそりと静まり返る廊下を歩いていると、ふと窓の外に目を奪われた。夕暮れ前の景色をぼんやりと眺める。
水色から橙へとグラデーションのかかる空と、徐々に朱音色に染まってゆく校舎。生徒たちの笑い声が風に乗って遠くから聞こえる。
物語の中であっても、この世界は美しい。
緊張しながら生徒会室のドアを開けると、あると思っていた姿が見えずに私は困惑した。
「会長、いないんですか?」
シルヴィスどころか役員すらいない。普段なら1人か2人は必ずいるのに。
まさかもう始まってしまった!? 身を翻して部屋を出ようとしたところで、布地に顔を突っ込んだ。
「ぶっ」
「何をそんなに慌てているんだ」
「あ、会長……誰もいないので、何かあったのかと焦っちゃいましたよ」
「所用で出ていただけだ。他の役員には仕事を頼んだ」
「そうでしたか、はは、早とちりしちゃいました……えーっと、離してくれませんか?」
ぶつかったときから、私はシルヴィスの腕に囲われていた。弱く胸を押すが、解放する気配がない。
「あの、会長?」
「勇者か、聖女か、どちらだろうかと思っていたんだけどな」
世間話でもするように発された言葉に、私の身体が硬直した。
そろりと顔を上げると、いつか見た蠱惑的な笑みでシルヴィスが私を見下ろしている。
「どちらでもあって、どちらでもないとは思わなかった」
男はもはや人の皮を被っていなかった。禍々しいほどの濃密なオーラを纏っている。
私は反射的に腰に手を当て短剣を抜き取ると、男の首を狙って逆手で振り下ろす。しかし攻撃はあっけなく防がれて、壁に押し付けられる形で両腕を封じられた。
「随分情熱的なことだ」
「はなせっ!」
私は足をばたつかせ拘束を逃れようとしたが、シルヴィスに覆い被られ口づけされると動きが止まった。
思考を根こそぎ持っていかれるような容赦ないキスだった。
ようやく唇を離されると、私は息も絶え絶えになりながらシルヴィスを睨みつける。
「なにを……」
「おまえは俺のものだという証だ」
「ば、馬鹿なことを! 誰があなたのものだって!?」
気でも狂ったか。男が何を考えているのかわからない。そもそも悪魔の考えを人間が理解しようとするのが間違っているのかもしれないが。
シルヴィスは艶然と哂った。
「ああ、可愛かったなあ。おまえが俺を見る度に体を強張らせるのは。それを悟られまいとする無駄な努力も、また俺をそそった」
「な、な……」
私は愕然として言葉が出なかった。全部見抜かれていたというのか……間抜けすぎて、こんなときなのに穴があったら入りたい気分になる。
「そこまでわかっていたなら、どうして……」
「言っただろう。勇者か聖女かわからなかったと。勇者であれば殺さねばならないが、聖女なら連れていこうと思っていた」
「私が勇者や聖女なわけがないじゃないですか!」
「おまえは勇者――ああ、アッシュだったな。今のアッシュと同程度には剣の技量がある。魔術もそれなりだ。だから今まで判断できなかった。今日アッシュが完全に目醒めたのでわかったが」
「アッシュを殺すつもりではなかったのですか」
「加護を受けている者は厄介だからな。後からでも殺す機会はいくらでもある」
「……聖女については?」
「アルマはこの世界を深く愛したことがあるだろう?」
「それと何の関係があるのです」
「自分がどうなろうと世界を愛す。それが、聖女の条件だ」
次々と自分を襲う新事実に翻弄され、頭がくらくらしてきた。
シルヴィスは私のことを勇者でも聖女でもなく、なのにどちらでもあると言う。理解できないが、勇者は魔王の敵、聖女は魔王の障壁であるのは不変の事実。
ということは、これだけは間違いない。
「私を殺すのですか?」
「何?」
シルヴィスが不可解そうに眉を寄せた。
「私はあなたの邪魔者でしょう。私を殺すのなら、お願いがあります」
「なんだ」
「殺す前に、私を愛して」
私の言葉にシルヴィスは目を瞠った。深い森の映る湖面のような瞳が私を見つめる。
私がこの魔性の男に惹かれないはずがなかった。前世でも、裏切る前も裏切ってからもずっと魅了されていたのだ。近くにいれば尚更、あらがうことは不可能だった。
まともに恋愛をしてこなかったことを後悔はしないが、どうせ死ぬならと最後の願いを言う。
「愛を知らないまま死ぬのは嫌です。だから、私を愛してると言って殺してください」
「……愛してるよ」
シルヴィスは人の振りをしていたときのような優しい声で囁き、私に口づけした。ついばむようなキスは、次第に呼吸を奪うようなものに変わった。
大きな手が首にかかる。
視界が反転する直前、アッシュとエレインの叫びが聞こえた気がした。
目が覚めたとき、私は広い寝台に横たわっていた。上半身を起こして首に手を当てる。確かに手をかけられた記憶があるが。
「生きてる……」
「当たり前だ」
独り言に返事が来るとは思っておらず、私はびくりと身を震わせた。
「会長……」
「まだ会長呼びなのか?」
くっとシルヴィスが笑った。
「なぜ私は生きているんですか……シルヴィス」
「当然、俺がアルマに惚れたからだ」
「何の冗談です? あっ、アッシュとエレインは!?」
「俺の生涯一度の告白をあっさりと流してくれたな。あいつらは殺していない。俺とアルマがいなくなった以外は、学園に変化はないだろう」
「そうですか……よかった」
私は胸を撫で下ろす。ということは、学園編としては私が死ぬルートと変わりないということだろうか。悪魔公爵は生きているけれど。
その悪魔公爵は、酷薄な笑みを浮かべてベッドに乗り上げた。
「さて、望みどおり存分に愛してやろうな?」
「……何のことですか?」
「忘れたとは言わせない。『殺す前に愛して』」
私はあまりに大胆な発言をした過去の自分を恨んだ。だって死ぬと思っていたから! 復唱されてこんな恥ずかしい思いをすると思ってなかったから!
「あ、あなたの上司のことはいいんですかっ?」
「魔王のことか? 奴など所詮俺より後に生まれた存在。どうとでもなる」
シルヴィスはあっさりと言ってのけた。なんてことだ。勇者の真の敵は悪魔公爵だったなんて。
「それならどうして学園に潜入などしていたのです」
「決まってる。暇つぶしだ」
私は眩暈がしてとうとうベッドに倒れ込んだ。
「案ずるな。おまえが生きている限り人間には手を出さない」
「全然安心できないんですけど……」
「何ならおまえに殺されてやってもいい」
「……そんな簡単に、殺されてもいいとか言わないでください」
「それならば、アルマができることは、できるだけ長く生きることだな。そして」
シルヴィスはあでやかでありながらどこか神聖さも感じさせる美しい笑みを浮かべ、私に覆い被さった。
「死ぬまで俺に愛されろ」
私が想像していた誓いの言葉とは違うけれど、これはこれでいいかもしれない。
「……死ぬまで私を愛してください」
私は三度目の口づけを受け止めた。