第10話『不安定なメンタリティ』
六月末。土曜日。
朝早くから改まった服装のリンちゃんとホットパンツに黄緑色のパーカーを来たレンちゃんが大正駅で乗った。暑さからかファッションか、肘まで袖を捲っている。俺はどうも思わないが同級生の前でその格好するんじゃないぞレンちゃん。その露出度は思春期の男子には目に毒だ。
遅れて、スーツを着たリンちゃんの母親が乗車した。走ってきたのか、はあはあと息を吐いて邪魔そうにバッグを肩に引っ掛ける。久しぶりに見るが、滲み出る優しさは顕在しているようだ。そして、相変わらず柔和な顔をしている。この親にしてリンちゃんありというわけだ。
「ごめんなさいね、私が時間間違ったせいで……」
「いいんですよリンのお母さん。こういう時のために早めに出たんじゃないですか」
「でもこれ逃がしたら確実に遅刻だったけど」
フォローを入れるレンちゃんだが、娘のリンちゃんは母親に嫌味を飛ばす。
「ちょっとリン……!」
レンちゃんが小声で注意するが聞く耳を持たずといった様子でツーンと目線を合わさない。
「いいのよ。私の娘なのだから。ただ母を敵に回すその意味を分かってるのか心配なのだけど」
あっれー? お母さんあんまり優しくないのかな? 優しさよりも黒いオーラの方が滲み出ている気がする……。
「わかってるよ。最近めんどくさいとかで元々できなかった料理以外も私に任せ気味なお母さんがいなくなったら私がとても困るってことぐらい」
酷い言い様だ。だがリンちゃんの言うことが事実だとすれば母親もまた酷いものだ。コンクール前の娘に家事を押し付けるのはどうかと思う。
しかし母親というものはどこまでもしぶとく、粘り強く、自分の子供のことを考えている生き物だ。どんなに正しいことだとしても、正論を叩きつけても子供は母親には勝てない。
言われた通り片付けをしたのに、風呂掃除と皿洗いをさせられたのは今でも忘れられない……。
さあ言ってやれ、娘を捻り潰す一言を。
念が通じたのか、リンちゃんの母親は娘を強く睨み、頬を赤く染め、こう言った。
「ごめんなさい。謝るから嫌わないで!」
ん? あれ? なんか俺が思ってたのと違う……。
「いいよお母さん。おかげで緊張がどっかいったから」
「ならよかったわ」
「なんだ小芝居なのね。本番直前に親子喧嘩かと思って焦りましたよ」
「でも家事はしてほしいかな」
「そ、それは言わないで……!」
「本当なんだ……」
リンちゃんの家の母親はどうやら俺の家の母親とは違うようだ。最後にリンちゃん親子を見たのは結構前だったし母娘の仲がどうだったとか覚えてなかったから少し安心した。
にしても俺には緊張してるはずのかリンちゃんが振ったように思ったんだけど。元々そんな緊張してないんじゃないか?
しかし、六月になるとそろそろ熱気を感じずにはいられなくなってきた。外もそうなのだろうが休日の車内は人が多い。そのせいで無駄に熱が籠る。
汗こそかかないがこの梅雨の時期も相まって蒸されるような感覚は慣れないものだ。
「それより、ごめんなさいね。この子のためにわざわざ来てもらって」
「いいんですよ。来たくて来てるんですから」
「それならいいんだけど……」
「いいんです。私も上手い人の演奏を聞けば勉強になるし、リンの演奏も聞きたいのでいいんです」
「でも……」
いやしつこいな。多少申し訳なくなるのはわかる気がするが、同じことを言い続けるといい加減鬱陶しくなるものだ。やめてやれ。
「しつこいです。ぶっちゃけリンの演奏を聞きに来たのでむしろ誇ってください」
レンちゃんは俺と同じ様に思ったようだ。
レンちゃんが自分の出ないコンクールを見に行くのはリンちゃんの出演が起因となったと思っていたが、しかしそれ一辺倒とは思わなかった。意外に彼女の世界は狭いのかもしれない。
「それ、私の前で言わないで欲しいな」
「恥ずかしいの?」
「そんなんじゃないけど……」
「けど?」
「なんでもいいでしょ!」
「まあいいけど。あ、着いたみたい」
「お母さん、どうしよう不安になってきた」
「まだ緊張してるの?」
呆れたような物言いの母親だが、大人でも難しいのにまだ中学生の人間に緊張するなという方が無理だ。
かと言ってそれを安易に認めるのは癪に障るのかリンちゃんはムッと言い返した。
「緊張じゃない。不安」
「なんか違うの?」
「全然違う」
大して違わない。意味を簡単に言うと緊張は「心が張り詰めている状態」、不安は「心配や恐怖」ということらしい。そこに大きな違いはない。ないがさっき緊張が解けたと言った手前、それを取り消すようなことは言えず、不安と言っているだけだ。
要するにリンちゃんは今も緊張しているということだ。
女子中学生の思考を考察するというおっさんには無理のある行為に興じてると、三人はいなくなっていた。
いつの間に、と記憶を巡らせると着いたと言っていたし普通は降りるだろう。外の景観から察するに天王寺駅で降りたのだろう。
にしてもコンクールかあ。俺には縁のないものだったな。妻も音楽には無関心だったし娘も別段好んではいなかった。
目の前のスーツを着た白髪の爺さんも音楽に興味などないだろう。興味があるとしても大体ポップスやバンド音楽のような軽い物だろう。俺も妻もそれぐらいなら聴いていた。
つまり俺の言いたいことは一つ。この爺さんやっぱりどこかで会った気がする。それに限る。




