始まりが来た
うわ~やばいわ
これはやばいわ
友達が死んだ。
自らの鼓膜の不調を疑った。じゃなけりゃ、目の前で重苦しい表情を浮かべたこの銀髪少女さえも不信的な目で見れるような気もしてきた。
『死』という単語を、こんな場所――時間潰し程度にしか考えていなかったこの平穏な図書室の一角で聞いてしまっても、果たして良いのだろうか。仮に良いとしたとして、こんなとき俺はどんな反応を示せば良いのだろうか。
何も返事ができない俺の硬直した表情を見つめ、少女は後ろに手を回し、引き寄せるように何かを持ってきた。
それはさっき、俺がここに来る前に少女の目の前にあったもの――振り返る前まで床に敷かれるようにして開かれていた大判。
つまりは、さっきまで少女が読んでいたものだった。
自分の胴体程の大きさの本を広々と開き二ページ丸々を俺に向け、
「私の友達――ゴン助です」
と言った。
少女が友達と示すそれを見た俺は、それに対して少なからず意外性を抱くしかない。天井に吊り下げられていた『図鑑コーナー』と記されたプレート。頭の片隅で思い出し、俺はただただ――少女の言う、死んだ友達とやらを見つめる。
本に表示されていたのは、犬だった。
ゴールデンレトリバー。
金色にも近い、茶色くて光るような毛並みの良いゴールデンレトリバー。それが公園を駆けずり回っている一枚の写真がどでかく一ページ分を占領し、その他は米粒サイズの説明文のようなもので構成されている。
「――寿命、だったんです」
少女の顔は完全に本で隠されてしまい、その表情は確認できない。
「あんなに一緒にはしゃいでたのに――あんなに、元気に走り回ってたのに――」
見えない本の向こう側から、寂しさの積もった声だけが伝わってくる。
「でも――今じゃ――もう」
バタン、と、本が落ちた。
「うっ……ひっぐ……う、うぅ……」
力の無い両手が少女の顔を包み、白い指の隙間から何粒もの滴が垂れ流れている。
少女は、泣き出してしまった。
「お、おいお前……」
「ごめんなさい……うぅ……、迷惑、ですよね……目の前で、こんな――」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
大丈夫か? とも、言えなかった。
そんなことを言ったところで気休めにもならないと悟ったのも一つだが、何よりも俺は――そんなことを、言う資格が無いと思ったのだ。
なぜなら俺は、少女の痛みを知らないから。
友達を――大切なものを失った悲しみなんて、俺には知るよしもないのだから。ましてやその相手が飼い犬と言うのなら尚更だ。
「空の向こうには、ゴン助の居る幸せな世界があるはずです。私は……そこに行きたい」
「それはつまり、死にたいってことか?」
「はい」
はい、と、少女ははっきり答えた。
正直、同情するしかなかった。
死にたくなるほどの悲しみに、俺は同情するしかなかった。
――でも。だとしても。
死ぬのは――駄目だろ。
人が死を望むのは――それは、罪だ。自分を殺すということは、人を殺すということと同等なのだから。
「……自分の世界が壊れてしまったなら、新しい世界を見つければ良い」
「え?」
「俺がその……手伝いを、するからさ」
ただの情けかもしれない。俺はこの少女に対して、酷く哀れんでいただけかもしれない。
でも、死んでほしくない。
それだけは――他人の俺でもそれだけは、悲しい。
助けになりたい。
「俺、林原明人。お前は?」
「鶴ヶ崎、色葉です」
「よし、じゃあ鶴ヶ崎。俺と友達になろうぜ」
そう言って、少女に――鶴ヶ崎に右の手を差しのべた。
ただの握手のつもりだったが、それはまるで――こう、何かを引き寄せるような動作にも思える。暗闇に落ちた何かを、引き寄せるような――。
「え、え……」
ま、そりゃ困るよな。いきなり友達になろうなんて言われても。
目の前であたふたと忙しなく動く鶴ヶ崎を見て、さっきまでかっこつけていた俺の理性が揺らぎそうになるのを堪える。札あげるから抱き締めさせてほしい。
「別に深く考え込まなくたって良い。ただ仲良くなろうって言ってるだけだ。一人じゃ、寂しいだろ?」
もし俺がファンタジー系の世界に送り込まれたら、どっかのシーンでこんな台詞を言ってみたいとか思う。戦闘中とか。
鶴ヶ崎は「えと……じゃあ」と視線をこちらへ向け、また初見殺しの上目遣いを躊躇なく発動した。それと共に、すっと両手が俺の右手へと差しのべられてくる。
俺の右手に、柔らかい感触が走った。
「よ、よろしくお願い……します?」
「おう、よろしくお願いしちゃうぜ」
これが、俺と鶴ヶ崎色葉との出会いだった。
物語の始まりだった。