第1話 神官、少女の守護者となる
過保護すぎる神官との、日常系ラブコメファンタジーです。
恋愛はほんのりゆっくり。たまにシリアスもあります。
夕日が沈んだのに、いつもの鐘は鳴らなかった。
炎に包まれた教会の回廊を彷徨っているのは、淡いグレーのワンピースを着た小さな少女だった。
もうすぐ五歳になるアグネス――彼女は、その細い腕で黒い天使像を抱き締めながら涙を零した。
「みんな、どこなの……?」
大きな青い瞳から零れ落ちた涙が石床を濡らしていく。
気づけば、燃え盛る教会に残っているのはアグネスだけだった。他の孤児たちとかくれんぼをしている途中で、寝てしまったのだ。
傍らの木の扉はごうごうと燃えている。だが、彼女は何故か火傷ひとつ負ってはいなかった。
「ああっ!!」
長い裾に足を取られたアグネスは、激しく倒れ込んだ。誰かのお下がりのくたびれたワンピースは、彼女には大き過ぎたのだ。
「てんしさま……!」
抱き締めていたはずの黒い天使像が、石床に転がっているのに気が付いた。
それは、真っ二つに割れてしまっていた。
彼女がそれに小さな手を伸ばしたとき、黒く大きな影が回廊に揺らめいた。
「しんかん……さま?」
コツリ、と冷たい靴音が響いた。
炎に包まれようとしている回廊に現れたのは、白い衣を纏う一人の青年だった。
柔らかく波打つふわりとした金髪が、微かな月明かりに煌めいている。
澄んだ空色の瞳が、一瞬だけ炎のような赤に揺らめいた。
(きれいな、おめめ……)
青年を見上げながら、咳き込んで崩れ落ちたアグネス。
青年は、気を失った彼女をそっと抱き上げると暗い回廊を歩き出す。
炎が燻る教会に、人の気配はもうなかった。
割れてしまった黒い天使像は、いつの間にか消えていた――
そうして夜は明け、空には太陽が昇っていた。
青々とした草地は風にそよぎ、気の良い農夫の鼻歌が小鳥の囀りに重なる。
ガタゴトと粗末な車輪が回り、積まれた農作物が微かに揺れていた。
荷台の後ろに揺られながら、アグネスと青年は空を見上げた。
夕べの出来事がまるで夢であったかのように、どこまでも澄んだ青空は広がっている。
「天は……こんなにも美しいのですね」
少し甘く、穏やかな声が静かに響いた。
青年は眩しそうに目を細めて空を眺めている。
「これ、おじさんにもらったの。はんぶんこしようね」
鈴の音のような愛らしい声に、青年は顔を向けた。
アグネスは、農夫からもらった少しだけ硬いパンを小さな手で引き千切った。
不格好に千切れたふたつのパン。
彼女は大きさの違うパンに少しだけ黙り込むと、名残り惜しそうに大きな方を青年へと差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます。これは……何ですか?」
「パンだよ。これも、わけっこね」
「それは――」
「おいしいよ」と小さな手で差し出されたのは、三粒の赤い実だった。青年は慌ててパンを膝の上に置くと、両手で掬うように赤い実を受け取った。
「これは、ヤマモモですね?! ずっと、食べてみたかったんです」
「ありがとうございます!」と目を輝かせた青年は、手のひらの上の鮮やかな赤い実を食い入るように見つめている。
「ヤマモモ、たべたことないの?」
「はい! 初めて食べます」
そのまま口にしようとした青年に、アグネスは「おいのりしないとだめだよ!」と声を上げた。
「っ……! どの祈りでしょうか? 夏の祈りですか?」
「しょくぜんのいのりだよ。しらないの?」
口籠った青年は、どこか悲しげな表情だ。
「わたしがおしえてあげる。なかないで」
心配そうな顔のアグネスに、青年は「はい」と真剣な面持ちで頷いた。
「じゃあ、おぼえてね……かてを、あたえたもーかみにかんしゃを」
両手を組んだすまし顔のアグネスが、薄目でチラリと青年を見る。
青年も同じように両手を組むと、瞼を閉じた。
「糧を与え給う神に感謝を」
青年は深く祈りを捧げると、それは嬉しそうにヤマモモの実を口にした。驚いたように僅かに目を見開くと、じっくりと味わうように目を閉じる。
そして、目をゆっくりと開けた青年は、手のひらの上のふた粒のヤマモモを嬉しそうに眺めた。
その様子を、アグネスはパンを齧りながら不思議そうに見ていた。
「おにいさんはだれなの? みんなはどこ?」
「私は神官です。教会の皆さんは、隣町の教会に向かったようですよ」
「そっかぁ。……ルカたちも、みんな?」
「はい。そう聞きましたよ」
アグネスはどこか遠くを見つめた。
空には、白い鳥の群れが羽ばたいている。
「どうして、しんかんさまなのにしろをきてるの?」
神官を名乗るその青年は、白い衣を纏っていた。初夏の陽射しに、白い詰襟や袖元を彩る淡い金の装飾が煌めいている。
「神官といえば、これでしょう?」
得意げに胸元に手を当てた青年を、アグネスはポカンとした顔で見つめた。
神官の衣は黒と決まっている。彼女の見てきた神官たちも、皆揃って黒い衣を纏っていた。
「しんかんさまは、くろいふくをきるんだよ」
「神官は、穢れなき白を纏うものですよ」
(へんなひと……でも、てんしさまみたい)
聖像のように作り物めいた美しい顔。
淡い青の瞳は、晴れ渡る空よりも澄んで――まるで青空を閉じ込めたガラス玉のようだ。
(そういえば、てんしさまは……)
アグネスは、割れてしまった宝物を思い出した。
入ることを禁じられていた倉庫の奥で埃を被っていた、黒い天使像――彼女はそれを『てんしさま』と呼んで大切に隠し持っていたのだ。
「どうかしましたか?」
「てんしさま、こわれちゃったの……わたしがおとしちゃったから」
涙を滲ませたアグネスに、青年は瞳を揺らした。
「貴女は悪くありません……あの天使は、女神の身許に行ったのですよ」
包み込むような青年の優しい声音に、アグネスは目元を袖で拭った。
「……ありがとう」
「いえ。……貴女を守ることは、私の使命ですから」
「しめい?」
「はい」
ガタゴトと車輪が回る。
どこからかふわりとやってきた小さな蝶が、アグネスの指に止まった。
「こんにちは、ちょうちょさん」
嬉しそうに笑った彼女は、荷台から投げ出した足をご機嫌に揺らした。
「わたしはアグネスだよ。しんかんさまのおなまえは?」
「名前は……」
そう言ったきり、青年は口を閉ざした。
「なまえがないの?」
アグネスは丸い瞳で青年を見つめた。
微かに笑んで視線を落とした彼に、アグネスは笑いかける。
「じゃあ、わたしがつけてあげる!」
ガタゴトと、車輪が小石を弾く音が響いた。
「イグナシオ」
涼やかな風が、二人の間を優しく通り抜ける。
「それが……私の名ですか?」
澄んだ空色の瞳に映ったのは、アグネスの無垢な笑顔。
青年はこの上なく幸せそうに微笑むと、ゆっくりと瞼を伏せた。
「ああ、貴女に名を頂けるとは……このイグナシオ、全てを懸けてアグネス様をお守りすることを誓います」
アグネスの澄んだ瞳を見つめ、イグナシオは右手を胸に当てた。
「アグネス様。貴女に、永遠の忠誠を」
恭しく頭を垂れたイグナシオに、アグネスは小首を傾げる。
「わたしは、めがみさまじゃないよ?」
「私にとっては、女神にも等しい――いえ、それ以上の御方です」
きょとんと丸い瞳で見上げるアグネスに、イグナシオは目を細めた。
「アグネス様、どこへ行きたいですか? 隣町の教会にお連れしましょうか?」
「うーん……ごはんがおいしいところがいい。それに、おそとがうれしいの!」
「畏まりました。アグネス様は、どのような食べ物がお好きですか?」
「おいものスープ!」
「おいも……おいもとは、何でしょうか」
「おいもは、おいもだよ。……おいももしらないんだね」
「……不勉強で――お許しください」
申し訳なさそうな表情で頭を垂れたイグナシオ。
そのふわりとした金の髪から、尖った白い耳が覗いた。
「イグナシオさまも、ハーフエルフなの?」
「どうかイグナシオとお呼びください。……それと、私はハーフエルフではありませんよ」
「でも、みみがわたしとおんなじだよ?」
アグネスが、耳元で編んである亜麻色の髪を少し持ち上げると、先の尖った可愛らしい耳が覗いた。
「ああ、これは――そうですね。貴女と同じだ」
イグナシオは、嬉しそうに笑んだ。
彼の耳はアグネスのものとよく似ていた。
「わたし、ハーフエルフなんだって……めずらしくてさらわれるかもしれないからって、かくすようにいわれてるの」
「……そうでしたか。これからは、私が貴女を守ります。何も心配は要りませんよ」
アグネスは安堵したように、ふわりと微笑んだ。
「イグナシオ。わたしね、へいおんぶじにいきていきたいの」
「畏まりました。このイグナシオにすべてお任せください」
微笑み合う二人。
小さな蝶が、アグネスの指からふわりと飛び立った。
「ばいばい、ちょうちょさん」
こうして、教会を失った孤児の少女と、神官を名乗る青年は出会った。
だが、その守護者の“平穏”という言葉の定義は、少しだけズレていた。
そのことを、彼女はこれから知ることになる――




