第1部 岩手・高校編「始まりは、気づかないところから」
この作品は、現代を舞台にしたフィクションです。
人の流れや空気、
「なんとなくそうなってしまうこと」をテーマにしています。
特別な能力があるようで、
どこか現実にもあるような話です。
ゆっくり読んでもらえたら嬉しいです。
---
朝は、だいたい騒がしかった。
妹が四人もいれば、静かな時間なんてない。
洗面所は取り合いで、
台所からは母親の声が飛んでくる。
「遅れるよ!」
分かってる、と返しながら、
タオルで顔を拭く。
---
俺は長男だ。
特別に何かを任されているわけじゃない。
でも、なんとなく分かる。
崩れたらまずい場所にいる、ということだけは。
---
工業高校に通っていた。
成績は中の上。
ラグビー部で、ポジションはプロップ。
ぶつかって、押して、支える。
目立たないが、いないと回らない。
---
それでいいと思っていた。
---
恋愛には、興味がなかった。
女に幻想はない。
家にいれば分かる。
綺麗な部分も、面倒な部分も、
全部ひっくるめて普通だ。
---
だから、わざわざ追いかける理由がなかった。
---
放課後は、部活かバイト。
忙しかったが、不満はなかった。
---
バイト先は、駅前のコンビニだった。
---
レジ、品出し、清掃。
やることは決まっている。
---
そこに、三上もいた。
---
同じラグビー部。
昔から女の話ばかりしているやつだった。
---
高校に入ってから、少しおかしくなった。
---
「あの人、常連」
---
「週三で来てる」
---
「多分、あそこの美容室」
---
---
「なんで分かるんだよ」
---
---
「全部見てるから」
---
---
三上は笑う。
---
---
こいつは、女のことだけ覚えている。
---
名前、顔、来店時間、仕草。
---
一度見たら、ほぼ忘れない。
---
---
その代わり。
---
男の名前は覚えないし、
仕事の手順も抜ける。
---
昨日教えたことを、もう忘れている。
---
---
「そこに全部使ってるからな」
---
---
本人は悪びれない。
---
---
正直、バカだと思っていた。
---
---
でも。
---
たまに、妙なことを言う。
---
---
「今、動いた方がいい」
---
---
レジの横で、三上がぼそっと言った。
---
---
「は?」
---
---
「いいから」
---
---
仕方なく、レジを離れる。
---
---
その瞬間。
---
---
入口の方で声が上がる。
---
---
「ちょっと!」
---
---
女性客が、男に絡まれていた。
---
距離が近い。
---
逃げ場がない。
---
---
すぐに間に入る。
---
---
「どうしました?」
---
---
男が一瞬ひるむ。
---
---
その隙に、女性を奥へ下がらせる。
---
---
店長が来る。
---
---
男はそのまま出ていった。
---
---
大事にはならなかった。
---
---
戻る。
---
---
三上が何もなかったようにレジに立っている。
---
---
「……なんで分かった」
---
---
聞く。
---
---
「なんとなく」
---
---
また、それだった。
---
---
でも。
---
---
今回は、少し違った。
---
---
(……見えてたのか?)
---
---
そう思った。
---
---
三上は、何も言わない。
---
---
ただ、次の客の会計をしている。
---
---
---
文化祭の日。
---
俺は保健委員会に回されていた。
---
体育館の端。
蒸し器とテーブル。
---
肉まんを売る係。
---
「はい、次どうぞー」
---
単純で、楽だった。
---
---
昼過ぎ。
---
人の流れが途切れる。
---
---
そのタイミングで、
一人の女が前に立った。
---
---
「ひとつ、ください」
---
---
普通の声。
---
---
でも。
---
---
視線が合わなかった。
---
---
合わせたくなかった。
---
---
「……はい」
---
---
金を受け取る。
---
---
そのとき。
---
---
指が触れた。
---
---
一瞬。
---
---
それだけなのに。
---
---
手を離すタイミングが、分からなかった。
---
---
「熱いので気をつけてくださいね」
---
---
女が笑う。
---
---
おかしい。
---
---
でも、何も言えない。
---
---
視線を外す。
---
---
逃げるように。
---
---
---
「今の人、誰だっけ」
---
---
三上に聞く。
---
---
即答だった。
---
---
「他校。○○女子の二年」
---
---
「名前は?」
---
---
「嵯峨久美」
---
---
迷いがない。
---
---
「さっき三組にもいた。
あっちでも人集まってたぞ」
---
---
嵯峨久美。
---
---
その名前だけが、残った。
---
---
---
帰り道。
---
---
人が集まっている場所があった。
---
---
中心に、嵯峨久美がいた。
---
---
特別なことはしていない。
---
---
ただ、話しているだけ。
---
---
でも。
---
---
全員が聞いている。
---
---
空気が揃っている。
---
---
嵯峨は笑っていた。
---
---
その奥に、何もなかった。
---
---
(……なんだこれ)
---
---
その場に入る気にはならなかった。
---
---
嵯峨が、一瞬だけこっちを見た。
---
---
気がした。
---
---
---
その夜。
---
---
眠れなかった。
---
---
文化祭。
肉まん。
嵯峨久美。
---
---
そして。
---
---
バイトでの出来事。
---
---
(……なんなんだ)
---
---
---
――中学。
---
---
校門の前。
---
---
「ごめんね」
---
---
告白した。
---
---
理由は覚えていない。
---
---
顔も、曖昧だ。
---
---
でも。
---
---
視線を合わせられなかった感覚だけが残る。
---
---
---
「……まあいいか」
---
---
そう呟いて、目を閉じる。
---
---
---
その時点で。
---
---
---
もう、始まっていた。
---
---
気づかないまま。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、
「流れのままに生きること」と
「自分で選ぶこと」の間にある違和感から生まれました。
能力の話ではありますが、
本質は「どう生きるか」という話です。
完璧じゃなくても、
自分で選んだと思えること。
それだけで少し違う、
そんな感覚が伝わっていれば嬉しいです。




