程度の意味
「ごめんなさい、言い過ぎたわ」
「いえ……」
戻ってきたお姉さまは僕の横に腰を下ろした。そうされては倒れたままでいられるわけもなく、僕も座り直す。遠慮がちに、ちょこんと。
あまり心地の良くない沈黙が流れる。
数秒、いや十秒ほどか。いたたまれなくなった僕は口を開いた。
「謝るなら僕です。お姉さまは何も間違っていません」
これは本心だ。僕が甘かったのも事実だし、お姉さまの言葉は反論の余地がない正論だ。
「……ううん。初めての相手に言うことじゃなかったわ。そうね……多分、嬉しかったのよ――」
嬉しい? 思いも寄らない返答に顔を上げる。
「武術を習いたいと言われて……。殆ど無理矢理放り込まれた環境で、女のフリなんてしなくちゃいけない中で、貴方が自ら飛び込みたいと思ったのが武術だった。貴方はただ、言われるまま金的を差し出すのをよしとしなかった。そのとき直感的に思ってしまったの。『この子なら私を倒してくれるかもしれない。男性に打ち負かされたなら、私のこの歪んだ性癖も……――』って。……だから……期待し過ぎたのかもしれない……――」
昨日感じた青さ。いや、ブルーというより、ペイルブルーに近い冷たさ。サァと消えてしまいそうな……触れれば壊れそうな脆さが、そこにはあった。
「おかしいわよね。なんの根拠もないのに、私を倒せるかもとか、男性に倒されたら収まるとか……。だから、やっぱり謝るべきは私なの」
「……」
なんて返せばいいんだろう。いや、何も返さない方が正しいのかもしれない。だって相手は「完璧星人」なのだから。彼女は完璧だ。さっき見せた脆さだって完璧なパーツの一部なのだ。彼女の完璧さは不完全性がゼロなのではない。完璧であるが故に、不完全性すらも完全に内包している。
ふと、数学の授業で習った「複素数」を思い出した。実数だけでは表せない世界。
彼女の完璧さは、数直線上のどこか一点にあるような単純なものではない。プラスでもマイナスでもなく実軸だけでは測れない。そこには「虚数」という、もうひとつの軸がある。
一見存在しないようでいて、二乗すればマイナスになるその「歪み」こそが、彼女という存在を複素平面上で立体的に成立させている――。
……僕の頭で虚数を完全に理解できているわけじゃないけれど。ただ、彼女という難解な数式を前にして僕なんかが下手に数値をいじっていいはずがない。完成された芸術品に、素人が絵筆を加えるようなものだ。
……が――
「いいえ」
思考より先に、口が動いていた。
「悪いのは僕です。僕の認識が足りなかったのは事実です。だから僕が謝ります。ごめんなさい。……その……そんなに一人で抱え込まないでください」
「でも――」と言おうとするお姉さまを遮って、僕は続ける。
「だって僕は『妹』ですから。姉を支える権利くらいある筈です。……それに、男としてなんていうか……好きな人が自分を卑下するのは、ちょっとムカつきます」
……言ってしまった。きっと生意気だ。悪手もいいところだ。
プロモデラーが仕上げた完璧な作品に、ブサイクなパテを盛るくらい駄目なことだろう。外見を損ねただけでなく、無駄な重量まで加えて関節をヘタらせてしまう愚行。
でも、素直な気持ちだった。
「……随分大胆に、人の心に入ってくるのね。……初めてだわ――」
お姉さまが目を丸くしている。やはり間違いだったのか。だとしたらなんて土足でずけずけと……。
覚悟した一歩のつもりだったのに、後悔の鋭い蹴りが、冷たく、蒼く、突き刺さ――
「――まったく……。妹にして正解ね」
——否、僕の自責の蹴りは、ため息交じりの大天使にブロックされた。
「渡さない。誰にも」
「僕は……――」
「言ったでしょ、遠慮なく突くようにって。……悪くはなかったわ」
今度は僕の言葉を遮るように、彼女は僕の肩に手を置き、立ち上がった。
――
意識。とにかく意識を大事にするよう言われた。理想の動きはどうか、今の動きはどうか、どこが違ってどうすればいいか。そしてひたすら反復。
「何を、どう、常に考えながら動いて。勿論、自己の状態を考えながら行動すると動作にラグが出てしまう。だから数をこなして文字通り『身につける』。自然とそれができるまでやるの」
実戦じゃもっと他のことに頭のリソースを割かなければならない。だから事前に用意できる部分はなるべくオートで処理できるようにしておくこと。なんだか対戦ゲームに通じる気がした。
ゲームだと自キャラの技は常に完璧な状態で放たれるから、今まで深く考えたことはなかった。単にボタンひとつ押すかどうかだったから。
でも、もしも僕自身がキャラクターになったら……?
自分の技を出すためのコマンド入力にいちいち意識を回していたら、相手の動きに反応なんてロクにできない。
(小足見てからの昇竜……無敵対空だって難しいのに……)
本当に一瞬。60分の1秒、1フレームの世界に対応できるかどうかが勝敗に直結する。その僅かな「確認」のために脳のメモリを使わないといけないんだ。
ゲームはあくまでゲームで、現実は現実。けれどそのロジックは地続きだ。それを肌で感じるようだった。
(逆にいえば、現実は超高解像度のゲームに似たものでもあって……――)
何かそこから攻略の糸口が見えそうな気がした。
けれど今は余計な思考はいらない気がして僕は再び構えを取った。




